館林キリスト教会

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ショート旧約史 ヨブ記

「天上、霊界の序幕」 ヨブ記1章1〜12

ヨブはほとんど申し分ない聖徒で、その生涯の証はいつも神の栄光をあらわし、俗に言えば神様のご自慢だった。これに対して、サタンは、ヨブの信仰も一種の取り引きで、祝福のために神を信じているのだ。祝福を失えばすぐ神を離れるだろうと言う。この訴えに対する神の勝利のためには、否ヨブの証が全うされるためには気の毒だが、理由なく祝福を失った場合の、ヨブの態度を見る以外にないのだ。

「事故と破産」 ヨブ記1章13〜22

突然にヨブ一家を襲った災害は悲惨だ。今日の言葉で言えば、会社は破産して無一物となり、災害と事故で子供らに死なれ、悄然とヨブ夫妻が取り残されたのである。ここにおいてヨブは、衣を裂き、頭を剃り、地に伏したが、その悲しみの間にも、絶えて一言も、神様に対する不満、不信仰の言葉は出なかった。その悲痛な言葉の中には、かえって昨日までの豊かな神の祝福に対する感謝にみちている。

「ヨブのライ病」 ヨブ記2章1〜10

サタンはそれでも黙らない。誠に彼はその名の如く、神に敵視し、批評し、試みる者である。次にヨブはライのような呪わしい病気になった。今度は祝福を失っただけではなく、身に災害を受けたのだ。しかしヨブの神に対する信仰と愛と従順の心は堅固だった。奥さんの方はさすがに参ってしまった。しかし彼女の言葉のように不信仰に陥ったら?結局救いも希望も失なわれ、その言葉のように夫婦心中が関の山だ。

「三人の友」 ヨブ記2章11〜3章10

「ソロモンとヨブは、人間の悲惨を最もよく知り、語った人である。一人は最も幸福な人で、快楽の空虚を、一人は最も不幸な人で、災害の実在を知った」パスカル。ヨブの三人の友は、うわさを聞いて尋ねて来たが、あまりの有様にただ泣くだけだった。ヨブは、昔は祝福された自分の誕生を、今は悲しみの心で呪う。救いの希望がなければ、人の誕生も決して手ばなしのお祝いではない。

「自殺願望」 ヨブ記3章11〜26

「私なんか生れて来ないほうが良かった。今はただもう早く死にたい」一生の間に、そういう気持ちを一回も経験しない人がいるだろうか。今ヨブはその気持ちを告白している。しかし、ヨブの言葉には不思議な節度があって、生れた日を呪っても神を呪うことをせず、死を望んでも自殺をほのめかす言葉はない。「人を殺す」のは、ほかの人でも自分でも、同じく罪であると知っているからだ。

「神秘家」 ヨブ記4章1〜21

友人のひとりエリパズは、幾分か神秘的な傾向を持った人らしい。彼はヨブに忠告を試みる。つまり「神は正しい方だから正しい者を祝福する。罪を犯す者には、反省を与えるため、あるいは裁きのために災害を与える。そして神の前には、決して真に正しい人はあり得ない」言いかえると、ヨブの受けた災害はヨブの罪の結果だ。罪を反省し取りのぞけば、災害もまたのぞかれ祝福も戻るだろうと。

「大いなる神」 ヨブ記5章1〜27

エリパズの同趣旨の話は続く。これは「神を信じ神に祈り、神に従う者に対する神の祝福がどんなに行き届いたものか、また神を崇めず、従わず、罪を犯す者は、どんなに賢く周到であっても、権勢や富があっても、神の裁きと呪いを逃れることができない」という真理を歌った、荘重な詩として味わうことができる。しかし、この場合のヨブにとって、この言葉は慰めになったろうか?

「全能者の矢」 ヨブ記6章1〜13

ヨブは決して自分の罪の自覚に欠けている人ではない。子供たちの誕生日ごとに、罪の許しを求めてはん祭を献げていたことは、1章にも記してあった。しかし、ヨブがほかの人にくらべて、特別に罪が多いとは考えられない。それなのに神から受けている災害は特別にひどいのだ。これがヨブの罪に正比例するとはとても考えられない。それを言おうとするヨブの言論は、悲痛にして荘重な詩となる。

「水のない川」 ヨブ記6章14〜30

ヨブは、理屈に合っているようで慰めにならない友の言葉に失望する。この地方にはワデイという谷があって、時には水が流れ、時には氷が張る。しかしいつかその水はかれてしまう。そしてこの水をあてにして来た隊商たちは失望させられるのみか、砂漠で死んでしまうことさえある。そのようにエリパズの言葉はどこかすれていて、なぜか慰めにも光にもならない。ヨブはそう訴えるのだ。

「苦悶の夜」 ヨブ記7章1〜10

どんなにひどい労働者も夕方日当をもらう楽しみがあり、奴隷でも夕方からは休める。しかしヨブは、夜になって月が出ても、まるで日中の炎熱が続くように、休むことが出来ない。苦痛と苦悶のために眠れないからだ。彼の生はただ呼吸、しかもため息だけの生活のようだ。ヨブは死によってこの苦難に終止符が打たれることを望む。ヨブにはまだこの苦難の本当の意味目的が示されていないのだ。

「むしろ死を望む」 ヨブ記7章11〜21

神様が夜も昼もヨブを見つめ、深くヨブにかかわっておられることが、疲れ果てたヨブにはかえってわずらわしく、むしろ恐ろしいように感じられる。放っておいてくれれば私は死ねるのに。それがヨブの叫びだ。しかし、試みのずぎ去った時にはヨブも言うだろう。「私は常にあなたと共にあり、あなたは私の右の手を保たれる。あなたはさとしをもって私を導き、後ろに私をうけて栄光にあずからせる」

「ビルダデの発言」 ヨブ記8章

ビルダデの言葉も大体エリパズの論旨と似ていて、ヨブの苦難を、ヨブの知らない、その子供たちの罪に対する神の裁きだと言って、ヨブに謙遜反省を勧告する。その言葉に対してもヨブは降参しない。しかし今ビルダデの言葉を、「神が正しい者を祝福し悪しき者を罰する」という原則的真理を示す、独立した文章として読めば、すばらしい詩だ。こういう読み方もヨブ記のひとつの味読なのだ。

「神の公平は?」 ヨブ記8章1〜24

ヨブは言う「神は全能であり、全く自由なお方だ。誰も神に対して議論することも、抵抗することもできない。神が人の罪を捜索し、その罪を罰するとすれば、誰がその裁きの前に立ち得よう。しかしもしビルダデの論旨をそのまま、押してゆけば、神様は結局、不公平な、気まぐれな神となってしまう。ほかの人とくらべて見た場合、ヨブの苦難がヨブの罪に正比例しているとは思えない。これにはきっと何か別のわけがあるのだ」と。確かにそうだった。

「仲保者」 ヨブ記9章25〜35

「苦難そのものよりも、苦難の理由、意味のわからないのが苦しい」と言われる。ヨブの苦難について、ヨブにかわって弁護し、神にむかってその理由を質問し、そしてその結果をヨブに説明してくれる者はいないか。ヨブはそう言い、いわゆる「仲保者」を求める。新約には「神は唯一であり仲保者も一人。すなわちキリストである」とあり、我々が神の奥義であり、かつ仲保者であるキリストを持つことはすばらしい。

「土の器」 ヨブ記10章

「一寸先きは闇」と言うが、人間が生れた時に、彼にどんな人生が待っているか、誰にもわからない。ヨブは自分が神のみ手によって作られた、すばらしい「神の作品」であると感じている。しかし今のヨブの心境では、作り主なる神は、ヨブの罪を追求し、徹底的にそれを問題にしておられるように見える。それに耐える人間がいるはずがない。早くこの苦役から解放されたいと。これはかえって友人たちの言論から追い込まれた心境といえる。

「ゾパルの言論」 ヨブ記11章

今度はゾパルの言葉だ。しかし彼も、前の二人の友人の趣旨をくり返すに過ぎず、「ヨブは自分の義を主張して悔改めず、神に対して突張っている」と言う。ヨブの言葉を断片的にとらえれば、そうとれなくもない発言もあるが、ヨブの言わんとする趣旨はそれと違う。ヨブの友人たちは案外事実を見て判断するより、自分の教理的主観や先入主の色眼鏡が強い。それ故話が噛み合わない。

「手に神を携える」 ヨブ記12章

「勝てば官軍」という言葉があるが、昔神の祝福を受けていたころは人に尊敬されたヨブであるのに、不遇な立場になると、今度は自分の罪のため祝福を失い、神の裁きを招いたとあざけられ、頑固で悔改めないと非難される。ヨブの友人らはまるで「自分の手に神を携えて」いるように、簡単に、神の正義、裁きを代表したつもりでいる。しかし、とヨブは言う「神様の本当のみ心がわからずに私は苦しんでいるが、君たちだって神様を全部わかっているわけではない」と。

「これこそ私の救い」 ヨブ記13章13〜28

「この調子では、結局私の運命は尽きて、このままの悲惨な状態で私は死ぬ…神に殺される…かも知れない。しかし私は、何か深い神のみ心と摂理があることを信じて、最後まで神の前に信仰の道を守ってゆく。神様のお取りあつかいも、友達の批評も、納得ゆかないが、しかし自分は信仰を守ってゆく」とヨブは言う。「これのみが私の救いだ」と。

「花のいのち」 ヨブ記14章1〜17

「花のいのちは短くて、悲しきことのみ多かりき」とは、林芙美子の有名な言葉だ。それもあるいはこの章あたりから出ているかも知れない。しかも人のいのちは短いだけでなく、罪と呪いにみちている。「主が私の罪を見のがされるように。罪を袋に入れて、壁の中に塗りこめて下さるように」 ヨブは自分の死を思うとき、そういう祈りをささげるのだ。

「空論」 ヨブ記15章1〜16

ヨブのような気の毒な人に対して、慰めのためお見舞いに来た友人たちなのだが、議論が激してくると、まるでヨブをやっつけに来たような調子になる。エリパズはヨブに向って「お前はしゃべりすぎる。役にたたない議論は風のようだ」などと言っている。ところが私が読むと、どっちの言葉が風のようだか、ご本人にわかっちゃいないので困る。

「悪しき人」 ヨブ記15章17〜35

ヨブ記の一つの読み方は、ある部分を独立した一つの詩として見ることだ。エリパズの言論のこの部分は、悪しき人とその生涯を、みごとに描写している。27、28には、顔も腹も脂肪でぶくぶくになった人が出てくる。罪の成功で、食いすぎと安逸に暮した結果だ。しかし彼は、神の祝福を失った廃虚に住んでいるようなもので、決して安全ではないのだ。

「神に向って涙をそそぐ」 ヨブ記16章

世の中にこれほどの悲痛な名文があるだろうか。一体苦難の中にある人に向って、幸福な立場の人が3節にあるように「激して語る」ことがあって良いものだろうか。ヨブも今は自分の言葉も人の言葉も、神様のみ心もわからない。ただ「あまりひどい」と言うだけだ。しかしそれでも信仰によって「高いところ」を見上げ「神に向って涙をそそぐ」のだ。

「墓が持っている」 ヨブ記17章

ヨブのような場合に、その思いと言葉をしばしば死が横切るのは当然だ。もともと「死を思う」のは、すべての人間に共通のものなのだ。「望むのは私の生き甲斐だった。この頃は若い時分と違って、望めないものを望むのはやめて、望めそうなものを望んでいた。だが今はその望みもすてる」これは死にのぞんだ高見順の詩だが、やがて誰にもその日が来る。

「悪しき各の運命」 ヨブ記18章1〜15

ヨブの言葉はビルダデにとっては「神から罰を受けるのは罪人だ」という、根本真理がよくわかっていない言葉のように受け取られる。そこでこの大前提、大原則を認めさせるところから、議論を立て直そうというわけだ。これはヨブとは噛みあわない議論だったが、我々などは案外、この知れ切った大原則について気持ちも生活もズレ易いのだから、今くり返し、この章を学ぶ必要があると思う。

「我をあがなう者は生く」 ヨブ記19章9〜29

ヨブは友達や世人の評価でなく、神による永遠の評価、裁きに望みをおく。ヨブの生涯とその苦難、またヨブの信仰の言葉、悲しい言葉、疑問の言葉が、すべて碑に劾まれて記念されるようにヨブは求めている。終末の日に神によってすべては明らかにされ、ヨブにも納得がゆくだろう。そして「神と知己」であることが、その時のヨブの喜び、栄光となるだろうと。

「腹の中の毒」 ヨブ記20章1〜17

からし蓮根はおいしいものだが、中に人の神経を犯すボツリヌス薗、などが入っていてはたまらない。「たとい悪は口に甘く、口の中に含んでも、彼の腹の中で変り、毒蛇の毒となる」とあるように、しばしば罪もまたおいしいので、ついうっかり楽しんでいると、その中にしかけられた悪魔の毒は、我々を苦しめ台なしにして、最後には滅亡に追いやってしまうのだ。その味に魅せられないさきに、罪を避けるのが、まず賢明というものだろう。

「がき」 ヨブ記20章18〜29

仏教で教える地獄の中に「がき道」という場所がある。ここに落とされた死者は、いつも飢えに苦しんでいる。ところがここには食物がないわけではない。いくら食べても飢えに苦しむのがここの死者の問題なのだ。「彼の慾張りは足ることを知らぬゆえ、その楽しみは何物をも救うことができない」とここに言われているように、死者でなくても、繁栄とぜいたくの日本にも、場合によっては「がき道」が出現するのである。

「悪人の繁栄」 ヨブ記21章6〜26

ヨブの場合のように、神様は、信じ従う者に対して、時々は苦しいつらい試練を与える。そういう時の寂しい心境には、神様を信じない気楽な罪人の方が、むしろ安逸と繁栄を楽しんでいるように見える。しかし「神のひき臼はゆっくりまわっているようでも、必ず中のものを砕き、神の網の目は大きいようでも最後にはすべての魚を捕える」のは真理だ。我々は試みの日に出会っても、感傷的な不信仰に落ち入らないようにしよう。

「弱い者いじめ」 ヨブ記22章1〜20

人は自分が思いこんだことを、なかなか改めることができない。だから話というものは食い違いが多く、時間をかけてもなかなか噛み合わないのだ。エリパズは「正しい者が神の祝福を受け、罪人が神の罰を受ける。ヨブは神様から罰を受けているのだから罪人だ」という単純な三段論法から一歩も動けない。勢いのおもむくところ、観念的にヨブを罪人あつかいにする。この章のエリパズの言葉など特にひどく、これではまるで弱い者いじめだ。

「神と和らげ」 ヨブ記22章21〜30

「あなたは神と和らいで平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」とは、たとえエリパズの口から出た言葉であっても真理だ。すべての人はこの真理に従うならば幸福を経験するだろう。それには「全能者に立ち返っておのれを低くし、あなたの天幕(家庭、あるいは生活〉から不義を除き去る」ことが必要だ。この章は人が救われて神の祝福を経験するまでになすべき、入信のプロセスを、たくみに画き出している。

「彼を尋ねて会いたい」 ヨブ記23章1〜17

ヨブの場合における神の態度を、ある神学者は「神の沈黙」と表現した。ヨブが祈ってもその苦難から解放されることなく、ヨブが叫んでも、その苦難の意味について、神からの説明はない。神様はヨブの祈りにも、ヨブの友人たちのひどいヨブ批判にも、ただ沈黙して放置し給うかのように見える。この中でヨブの「どうか彼を尋ねてどこで会えるかを知り、そのみ座に至れるように」という、その祈りは悲痛だ。

「らちの明かない裁判」 ヨブ記24章1〜20

「権力者の無法、裁判のひきのばし」と言って、ハムレットさえ裁判の遅延を、生存の苦痛のひとつに数えている。ヨブは正しい者が苦しみ、悪い者が繁栄する、いわゆる「悪しき世」に対して「神の裁きの日は定めてないのか?」と、神の裁判の遅延をもどかしがっている様子である。しかし神は言い給う「もうしばらくすれば(主が)お見えになる。遅くなることはない(へブル10:37)」と。それが「主の日」すなわちクリスチャンの待ち兼ねている「神の裁きの日」なのだ

「天の軍勢」 ヨブ記25章1〜6

「天の軍勢」とは天使の軍勢の意味に用いられることもあるが、ここでは宇宙、天体のことである。神の造り治め給う天体は数えつくすことができない。太陽、月、星などは誰ひとりその輝きを仰がない者はなく、その光に浴さない者もない。しかしすべての作者である神の目には、宇宙が格別偉大とも、太陽が特に輝かしいとも、また月が清明ともうつらないだろう。ましてうじ虫のように小さく不潔な人間が、どうして神の前に清く価値あるものと言えようか。

「神の絶対性」 ヨブ記26章1〜14

ヨブと三人の友人の議論はまだまだつづく。すべて神様にかかわる議論だが、それぞれの研究、知議、体験を通して知り得た神について、はてしなく議論がつづくのを見れば、いずれもりっぱな神学者なのだ。ここでヨブは言う「我々の知るところは、神にゆく道の端にすぎず、その道はまだ遠く長い。我々が神について聞くとしても、それはほんの神のささやきにすぎない。神の力のとどろきということになれば、誰がそれを知り得よう」と。いまヨブは「わが魂は黙してただ神を持つ」という心境なのだろう。

「むなしさ」 ヨブ記27章1〜23

「むなしさ」「はかなさ」というものは、神にそむいて生活している人間の、基本的な運命である。結局、最後の死と滅亡をまぬかれることができないからだ。「銀をちりのように積んでも」最後には他人の物となる。りっぱな家を建てても「くもの巣」のようにはかない。まるで、収獲がすむと簡単にとりこわす畑の「番人小屋」のようだと。エジプトにある、ボロボロ角の欠けた、ばかでかいピラミッドや王の墓も、盗賊に荒らされてほこりだらけで、また同じ運命を示している。

「ゴールドラッシュ」 ヨブ記28章1〜14

昔でも金や銀の鉱脈を掘り当てようと、一獲千金を夢見て危険を恐れない、いわゆる山師がいたものとみえる。ヨブ記のこの部分は昔の鉱山で鉱石を発掘する作業の、めずらしい描写だ。しかし人生において、金銀よりもっと大切な、真実の知恵について、そんなに熱心に捜し求める者はなかなかいない。おまけにそれは金銀よりもっと見付けにくい。ただ神様の恵みによってのみ、人はそれを得ることができるのだ。真実の知恵とは何か、それは最後の[28節]に書いてある。

「知恵と悟り」 ヨブ記28章12〜28

人間は金銀や宝石を一生懸命に捜すが、本当の知恵を求める人、それを見つける人は少ない。ただ神様だけが私たちを知恵に導き知恵を与えて下さるのだ。その本当の知恵について「主を恐れることは知恵であり悪を離れることは悟りである」[28節]と記されている。反対に「愚かな者は心の内に『神なし』と言い、その心は腐れている」(詩14篇1)「愚かな者は戯れ事に罪を犯しその希望は絶える」(箴言10:23)などのみ言葉もあるのだ。

「清福」 ヨブ記29章1〜20

「清貧」と言う言葉は割合に人に知られている。同じように「清福」つまり、りっぱで清潔な幸福というものもある。ここでヨブは、神の試みに会う前の幸福だった日々のことを懐かしく思い起している。あの幸福な生涯の秘訣は[3節]にあるように「神のともしびがヨブの頭の上に輝き、その光によってヨブが歩んでいた」からだった。いま暫くヨブは、神の試みの苦難に耐えなければならない。しかしそれは長いことではなく、ヨブにはふたたび以前に勝る「清福」の日を迎えるのだ。

「立場の逆転」 ヨブ記30章1〜15

[1〜8節]にはその当時の、家も持たずに放浪する、もっとも貧しく気の毒な人々が出ている。しかしその人々さえ、ヨブがいま神の祝福を失って貧しくなると、今度は大喜びでヨブをあざけり馬鹿にする。だが人の運命の浮き沈みもまた神のみ手のうちにある。くやしかろうがヨブよ。信仰をもって忍耐しなさい。「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる」というみことばもあるではないか。

「応えられぬ祈り」 ヨブ記30章16〜31

[20節]「わたしがあなたにむかって呼ばわっても、あなたは応えられない」これもまたクリスチャンが時々経験する嘆きである。子供が母にむかって、毒になる食べ物、危ない玩具などを求めても、母はその求めには応えてくれない。実はその応えないことが、母の愛と知恵の応えなのだ。今ヨブは試練の時だから、試練の時期が済むまで、神様はヨブの祈りを無視されるように見えるが、今こそ、もっともヨブの信仰と忍耐が必要な時だ。

「目との契約」 ヨブ記31章1〜12

キリストは山上の説教で「目は体の明りである。だから、あなたの目が澄んでいれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ全身も暗いだろう」と教えられた。いまヨブは自分の目と契約を結んだという。多分「わたしの目よ。お前は見るのが仕事だ。わたしはお前を守り、大切にすることを約束する。そのかわり、目がわたしの罪のきっかけになどならないよう、はっきり約束契約してくれ」というようなものであろう。

「しもべ、はしため」 ヨブ記31章13〜23

むかしから「主人は無理なものと思え」ということわざがある。主人、社長、金持ちその他の有力者は、つい知らず知らずのうちに、目下の者、、無力な者に対して無理をし、相手を泣き寝入りさせることがある。相手は口答えも苦情も言いにくくて「めんどうだから、だまって主人の言うとおりにしておけ」ということになりやすい。13:14、をみると、ヨブは以前主人だった頃、その点にもずいぶん注意していたようでりっぱだと思う。

「良い記憶」 ヨブ記31章24〜40

ヨブは苛酷な試みがつづき、心身ともに弱りはてたいま、死を思い、またあらためて自分の生涯をふりかえるのも自然である。ヨブには積極的に罪をおかし、神のみ心をいため、また人に迷惑をかけた記憶がないらしい。それなのにこんなみじめな状態で死ぬのは不本意ながら、しかし苦しみや死のなかでも、これらの「良い記憶」は、ヨブの心の満足であり、慰めであったにちがいない。わたしたちも同じように、おのれの生涯を、つねに喜びと確信をもってかえりみる者でありたい。

「正義と罪」 ヨブ記32章1〜14

若いエリフは、いままで遠慮していたが、ヨブと三人の議論が平行線でらちがあかないので、たまりかねて発言することになった。ヨブは人間の中では比較的正しい者だという確信をくずさない。それなのに受けている苦しみは特別なものだから、これは罪のむくいではなく必ず別の意味があると言う。三人は、ヨブは罪人の分際で傲慢にも神にむかって自分の義を主張すると言う。とても話は噛み合わない。ではここでエリフはなんと言うか。

「神は語る」 ヨブ記33章1〜18

13節に「神の語りかけ」のことが言われている。神は聖書により、キリストにより、教会により、牧師により、また多くのクリスチャンによって、つねに人に語りかけておられる。時には夢、時にはできごとをとおしてさえ、み心を人につたえようとされる。そのみ心はただひとつ、キリストによってすべての人が救われることだ。この愛にみちた神のことばをむなしく聞き流して、そのために滅びることがないようにしよう。

「病苦」 ヨブ記33章19〜28

ここに書いてあるように、病気は本当に苦しく、不安で恐ろしいものだ。しかし同時に、人が病気によって謙遜真実となり、反省と祈りの機会をえて救いにみちびかれることが多いのも事実だ。だから時には「病気は灰色の天使だ」などとも言われるのである。また神さまは祈りにこたえ、病気をいやしてくださることが多い。いずれにせよ神さまが摂理のうちに、病気さえも祝福に変えてくださるのはすばらしい。

「正しい選択」 ヨブ記34章1〜15

「正しいこと」と「悪いこと」とはわかりきっているようだが、微妙なケースになるとわからなくなり、案外迷ったり、議論になったりする。その場合まず第一に必要なのは[4節]にあるように、必ず正しいことを選び実行する決意だ。それから祈りつつ、考え、聖書を読み、あるいは話し合ってゆけば、きっと「われわれの間の良いことの何であるか」は明らかになるだろう。「猶予、孤疑は至誠の足らざるなり」と西郷隆盛も言っている。

「政府の役目」 ヨブ記34章16〜30

悪人が自由にはびこり社会秩序が乱れれば、人間が生活できないだけでなく、伝道もおこなわれず人も救われない。それゆえ神は政府を立て、社会秩序を守らせたもう。もとよりそれは摂理であって、政府自体はそんなことは二の次で権力闘争にふけっているから、ずいぶん神の目的に外れた悪政府も出てくるが、しかし政府自体が社会秩序を破壊するようなことになれば、それは長くはつづかず、必ず神の摂理のうちに、別の政権と入れ替わる。[30節]はその真理をしめしている。

「十分な議論」 ヨブ記35章1〜16

我々のように短期で結論を急ぐ人間がヨブ記などを読むと、繰り返しが多く、くどくて長たらしいのは驚きだ。昔の田舎会議などでは、村中の人が楽しみに集って、飲み食いしながら幾日もしゃべっていて、なかなか本題に入らない。しかし実はその間に、たくさんの事例と、意見というよりも、それぞれの人間の気持ちが暗示されるから、表決などなくても、リーダーが民意を知ってそれに合う政治をするにはこれが一番なのだそうだ。不合理のようで案外合理的なのが面白い。

「神の怒りの貯金」 ヨブ記36章1〜14

「心に神を信じない者は怒りをたくわえる」とあるが、神を知らぬ人間は毎日せっせと罪を犯し、悔い改めることもせず、罪の責任、罪に対する神の怒りを蓄積して、最後にその支払い、すなわち神の審判を受けるのだ。働かない日、もうからない日はあっても、罪を犯さない日はない。我々はそれを知って、日々謙遜、真実に悔い改め、それが罪を追い越すようでなければならない。

「逆境の祝福」 ヨブ記36章15〜26

人は誰でも生活が順調、幸福であることを望む。しかし季節に秋も冬もあるように、そしてそれもまた必要、大切であるように、時に人は逆境を経験する。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」とあるのは、逆境もまた神の摂理、祝福であるという事実を示すのである。おそらくクリスチャンは誰も、試みによる信仰と人格の訓練、また成長を経験して、このみ言葉が真理であることを理解している。

「神のみわざ」 ヨブ記37章1〜20

「ヨブよ。立って神のくすしきみわざを考えよ」ヨブと友人の議論は果てしなく続くが、いまヨブは、人事の考察、人間の議論を打切って、立って神を仰ぎ望み、むしろ大自然に現れた神の不思議なみわざを思うべきだ。雨も降り嵐も吹く。天地が氷結したと思うと今度は、南風が吹いて、ヨブの衣服さえ暖まってくる。ヨブよ、議論より、むしろそれを思え。詩篇にも「静まってわたしが神であることを知れ」と記してあるではないか。

「語りかけたもう神」 ヨブ記38章1〜15

果てしもなく議論を続けるヨブとその友人たちに対して、いよいよ沈黙を破って神が語りかけてくださる時が来た。神はここで、壮大な大自然のスケールとその経営の神秘をお語りになり、人間の微小無知を悟らせて下さる。自然界も摂理も、全能の神のわざであって、とても人間にその全部は分らないのだから、それについて考え、悩み、議論することは止めて、無条件に神を信じ、委ね、従うのが、そもそも信仰の本質ではないかと。

「美しき天然」 ヨブ記38章16〜38

「もろもろの天は神の栄光を現し、大空はそのみ手のわざを示す」と詩篇に歌われ、ゲーテも「自然は神の衣装だ」と言っている、自然界ほど壮大で美しいものはない。もともとヨブ記は、深刻な哲学的議論に満ちた聖書だが、ここからしばらくは神がみずから述べたもうた、自然描写、自然賛歌がつづき、聖書の中でも名文中の名文で、わたしなどはむかしから、朗唱して倦むことを知らない。最も魅力ある聖書の部分のひとつなのだ。

「自然動物園」 ヨブ記38章39〜39章12

パンダやコアラを飼育し繁殖させるために、動物園がどんなに苦労しているか、日本では子供でも知っている。いま神はヨブと友人たちの目を、神の経営する世界動物園に向けさせる。丘にも砂漠にも、川にも海にも、大空にも、一滴の水の中にさえ、神の造り養いたもう動物、生物が満ちている。これも人知をはるかに越え、人力の及ばない範囲だ。その微小な人間が試みに会うとすぐ、神のみ心が分らないの、その愛を疑うなどと言うのだ。

「動物の写真」 ヨブ記39章13〜30

動物はあるいは勇ましく、かわいく、または珍妙でぞれぞれ魅力があり、昔から絵や彫刻や芸術写真のテーマになっている。ここには何となくとぼけてユーモラスなダチョウ。勇ましい軍馬。猛々しく、しかも孤独で神秘的な鷲の記述がある。これら聖書的名文の表現力に較べれば、絵画も彫刻もなかなか及ばない感じだ。しかもこれはただの芸術などではなく、創造者の偉大と人聞の微小を、ヨブに実感させるための神の語りかけなのだ。

「河馬(かば)の顔に水」 ヨブ記40章1〜24

今までの長いヨブと友人の論争は「全能者と争い、神と論ずる」趣があった。しかし、いまヨブは悔い改めて口を閉じ、ただ神に対する絶対の信仰と無条件の服従を告白するに至ったのであった。ここに河馬が出てくるが、彼は戦車の如く強いのに、平和と無為を愛して水中に潜り鼻づらだけ出している。そのかわりヨルダン河が顔に注ぐともびくともせず、頑然として無為にとどまる。羨ましい奴だ。

「自由の典型ワニ」 ヨブ記41章1〜34

最後に出てきた動物はワニである。ワニは人間などをせせら笑い、力に物を言わせ、敏捷に自由に暴れまわる。昔の人間にはとても手に負えない存在で、つかまえてワニ皮のハンドバッグを作る気力などは、とても当時の人にはなかったのだ。そのワニもまた、神が造り養い守りたもう被造物の一つなのだと思えば、世界も歴史も人間の運命も、支配したもうのはただ神のみであるという真理は、いまはヨブの目に明らかなことだった。

「ヨブの沈黙」 ヨブ記42章

ヨブが苦難に会い、また友人との議論の間、神は不思議に沈黙していた。しかしいまは、ヨブに信仰と服従の沈黙が来た。ここでヨブの信仰は完成し、神は訴えるサタンにお勝ちになったのである。この試練は約2年間で、神の恵みによってヨブは再び家族財産など、一切の所有を回復した。ヤコブの言葉のように「ヨブの結末」をみれば「主の慈愛とあわれみの富」がわかるのである。これで随分長く交読を続けてきたヨブ記も終りました。