館林キリスト教会

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ショート旧約史 箴言

「敬虔と知恵」 箴言1章1〜19

ソロモンは中年のころ、少しく信仰から脱線の気味があった。しかし晩年には、また初期の信仰が回復したものと見える。 「箴言」「伝道の書」などは、晩年のソロモンが宮廷に同信、同学の士を集めて「教室」あるいは「研究所」を開き、聖書に基づく人生哲学を研究した業績だと思う。そのためソロモンは「コーヘレス(伝道者)」とあだ名されたそうだ。 「箴言」とは、鋭く急所を刺して病気を癒す「針」のような、「格言」「人生の知恵」という意味だ。 [7節]の「主を恐れることは知識の始めである」とは、箴言の巻頭におかれるにふさわしい言葉だ。 人生に役立つ真の知識、知恵は、頭でなく、信仰によって神から頂く心と人格の問題なのだから。

「知識の楽しみ」 箴言2章1〜22

「知恵が心に入り、知識が魂の楽しみとなる」[10節]とは救われた者の経験だ。 「ああ私は何とみじめな人間なのだろう。私の欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている」とパウロが告白したように、生れつきのままの人間は善悪のわきまえを持ちつつ、不思議に罪に引かれ罪を犯しやすい。 しかし、キリストは信じて救われた者に「新しい心」を与えて「善には喜び親しみ、悪は嫌悪して避ける」勝利の生涯を与えて下さるのだ。 「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られたのである」

「ネクタイ、ペンダント」 箴言3章1〜20

「いつくしみとまこと」[3節]つまり「優しさと真実」を、男子はネクタイのように首に巻き、女性はペンダントのように胸に下げておこう。これこそ最高のおしゃれだ。 その結果として、彼は「神と人の前に恵みと誉れを得る」つまり、「神と人から優しくされ、また尊敬もされる」だろう。 本当のおしゃれは、古びたり、落ちたり、剥げたりする衣服、装身具ではなく、彼の人格にこそあるのだ。

「明るい一日」 箴言4章1〜19

昔の人にとって夜は暗くて恐ろしく、ただもう朝が待たれた。朝日が昇ると、明るい太陽のもと、花や小鳥にかこまれてみんなで働く、楽しい一日が来るのだ。 [18節]には、正しい者の人生は「夜明けの光のようだ」と記してある。 しかし悪い者は反対で、その暗黒の生活の中に多くの危険が隠れ、やがてつまずき倒れるのだ。愚かな人間の盗みも、地位のある人の賄賂も、つまりは罪を恐れない、快楽中心、欲望拡大の心掛けの結果にすぎない。

「蜂蜜と苦菜」 箴言5章1〜23

遊女の誘惑は、最初は蜂蜜のように甘く楽しい。しかし最後は苦菜のように人を悩ませ、剣のように彼を滅ぼす。その気の毒な実例は我々の周囲に、新聞やテレビなどにもいくらでもある。 「子供らよ。私の言うことを聞け。私の言葉から離れ去ってはならない」[7節]という神の呼びかけに、いつもお従いして行くのが安全だ。

「なまけもの」 箴言6章1〜19

昔から「なまけもの」を形容した文章も多いが、この[6〜11節]は出色の名文だと思う。なまけ者が貧乏するのは「蟻」に対しても恥ずかしい。泥棒や強盗に金を取られるのもくやしいが、なまけ者は、毎日自分の内に泥棒や強盗を飼っているようなもので、取られる前から金は溜まらない。 これはなにも金銭だけの問題ではない。忘れるより前に、はじめから勉強しない学生も、人を集める前に、散らす専門の牧師もいるかもしれない。

「出会いと堕落」 箴言7章1〜23

一人の青年は「飛んで火に入る夏の虫」のように、わざわざ誘惑の多い危険な町を、しかも暗い夜更けに歩いている。一人の女は「騒がしく慎みなく」ほとんど家を外にしてふらふら歩き回っている。 二人の出会いも堕落も実にスムースで、相手に誘惑される前にすでに自分で自分を誘惑していたようなものだ。 「人が誘惑に陥るのは、それぞれ欲に引かれて誘われるからだ」とヤコブが言うとおりだ。

「真の知恵キリスト」 箴言8章1〜31

この章は「知恵の擬人化」で、むしろキリストの旧約的、箴言的啓示という感じだ。主が万物を創造された時、そのみ業の原理として最初から存在したとは、なんという壮大な知恵の啓示だろう。家庭、事業、教会、どうぞ一切の業の始めにキリストが崇められ彼の光が原理として貫かれるように。そこに我々と、その業は一切の過ちから守られ祝福から祝福に進むことができるのだ。

「知恵の招き」 箴言9章1〜18

キリストは「王子の婚宴」の話で、多くの祝福を準備して人々を招く神のみ心をお語りになった。ここにも同じ思想が示されている。 これに対して昔も今も人々の反応は様々だ。祝福の福音を聞いてそれを受ける人も、頑固に拒み逆らい、かえって相手を傷つける者もいる。拒まれた神の愛こそ最も深刻に傷つけられた痛みなのだ。彼らが放置されてしまうのもまた止むをえない。

「率直な忠告」 箴言10章1〜16

ここから「ソロモンの箴言」で短く、独立した対句の箴言集になる。「目くばせする者は人を痛め、むだ口をたたく愚か者は人を痛め、むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる」[10節]は、本人に分からないように「いやねえ」というような視線を交わす目配せだ。率直でない。陰口はもっと率直でない。 ここでは必要な時に「率直に忠告」することを勧めている。相手にはショックでも、神の取扱いで「心に知恵のある者は命令を受け入れる」[8節]のような結果になれば最高だ。いつも誰にもではないが、時には必要な注意だ。

「価値ある日々」 箴言10章17〜32

「主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる」[27節]とある。昔南米辺りの田舎では、土地を売買するのに、間口だけ決めて、奥行きは問わなかったそうだが、信仰ある者の一日は、その長さこそ変わらないが価値と満足において奥深さが違う。 私は、過日しばしの休暇旅行の機会が与えられた。宴会や羽目外しの旅ではなく、十分な休養と見学が許され、実に有益な旅であったことは感謝だ。

「指導者」 箴言11章1〜18

「指導者がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって、救いを得る」[14節]これは教会生活で我々がよく経験していることだ。教会は安心して相談できる人、貴重な助言をしてくれる人に満ちていて、お互いにどんなに心強いかわからない。 だから、みんなが良い指導者、良い助言者であるように祈り、反省し、研究しなければならない。 教会が、人に迷惑をかけてもぜんぜん感じない非常識な人や、井戸端会議のおかみさん連中のような、おしゃべりに満たされたら、それこそ大変だ。

「豚の鼻輪」 箴言11章19〜31

ソロモン王は、その豊富な女性経験からか、女性に対する辛らつな箴言を多く書き残している。「美しいが、たしなみのない女は金の輪が豚の鼻にあるようだ」[22節]この言葉の意味は、「美しさを鼻にかけても、その下から人格、精神、教養の程度は見え見えで、それはまるで豚のように、雑駁(ざっぱく)、下品、不潔だ」ということだろう。 テレビの美人コンクールなどが終わった時に、さしもの美人が、しゃべり出すとたんに幻滅、というようなことはよくある。どうか我らのクリスチャン女性は、ゆめゆめそうでないように。

「お節介焼き」 箴言12章1〜28

「自分の畑を耕すものは食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける」[11節] 確かに「自分の畑を耕す者」と「無益なことに従う者」がいる。地道に稼がず、おだてられて町の世話役などにかけまわり、自分は貧乏になることもある。 戦争中の牧師にも、政治や情報に明るいと称する誇大妄想的人種がいて、対策が必要だと鞄を抱えて会議に飛び回り、聖書の勉強も伝道も手につかなかった。ただしこれは昔話である。

「良友、悪友」 箴言13章1〜25

「知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける」[20節]]交際、友人の感化、影響は大きい。我々は良い友を選ぶべきだ。 中国には「我を生みしは父母、我を知るものは包仲」と言った管淑(かんしゅく)の言葉があり、ロード・ブルックスはサー・フィリップス・シドニーの友人であったことを誇りとし、その墓に「シドニーの友ブルックスここに眠る」と刻ませたそうだ。その交友の深さが偲ばれる。

「信念の人」 箴言14章1〜20

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」[12節]人は信念という言葉が好きで、それが客観的に正しいかどうかを問わないことが案外多く、まあ突っ張りの一種なのかも知れない。 地獄には結構、自信に満ちた突っ張り屋、小会社の社長などによく見る、威張り好き、自慢好き、講釈好きがいる可能性がある。しかし、地獄ではもう威張れない。「幼子のようでなければ天国には入れない」のだから、お互い今のうちに主の光に従おう。

「ストレス」 箴言14章21〜35

現代はストレスの時代で、「ストレスなしに月給を貰おうなんてのは図々しい」といわれるそうだ。そこでストレス解消法の研究も盛んだ。 ここに「穏やかな心は、からだの命。激しい思いは骨をむしばむ」[30節]とあるのは至言だ。とにかく我々は興奮しやすい。後で考えるとつまらないことでもつい興奮する。 しかし、祈りとみことばは我々の心を静めてくれる。クリスチャンは神によってストレスから守られることを感謝したい。

「独断、先鋭」 箴言15章1〜14

「知恵ある者の舌は知識をよく用い」[2節]「激しいことばは怒りを引き起こす」[1節] 殊複雑、微妙、重大な問題に対する、勢いに乗った独断、軽率、先鋭、激越、挑発的な発言は、ある人々の怒りを引き起こすのは当然だ。 不必要に敵を作り、自分だけでなく教会にも迷惑をかけないように、勉強、公平な判断、慎重な発言が大切だと思う。

「グルメブーム」 箴言15章15〜33

「野菜を食べて互いに愛するのは、肥えた牛を食べて互いに憎むのにまさる」グルメブームでいくら高くても、遠くてもおいしいものを食べにゆく時代だ。しかし、瀬戸内海の魚を食べるツアーで、鮎が出てきても平気な写真を見て驚いた。 中国では「富貴三代にして初めて飲食を知る」というが、急に食通にはなれない。このお言葉などが案外、「本当の食通」なのかも知れない。

「生活設計」 箴言16章1〜17

ひもの先に玉をつけて振り回すと玉は輪を描いて回る。その玉の瞬間瞬間の動きを言えば、そのまま遠くへ飛んでいきたい玉の遠心力と、それをつなぎ止めるひもの緊張が、飛び方を決めているのだ。 人間の場合も、自分の計画と神様の摂理の調和が実際の生活となる。「人は自分の道を考え計る。しかしその歩みを導くものは主である[9節]」我々はいつも祈りながら生活設計をし、また神の摂理をも喜ぶ信仰が必要だ。

「白髪は栄光の冠」 箴言16章18〜33

時間というものは内容なしには経過しない。それゆえ白髪には彼が通ってきた様々な経験が象徴されている。いわゆる年輪、キャリアである。同じことでもこの人が言うと浅はかに聞こえ、あの人が言えば重みが生じて、みんなが耳を傾けることがある。これが白髪の価値だ。 どうか主を恐れ敬虔な年輪を重ねて人に尊敬され、おのずから重きを為すような老人になりたいものだ。

「賢明な家来」 箴言17章1〜15

私の子供のころは、家にばあや、女中さん、小僧などがいた。彼らは子供の私を可愛がってはくれたが、ろくなことは教えてくれなかった。 昔の王様や貴族は、乳母、家庭教師などのほかに良い学友を選んで子供に付けたが、大切なことだったのだろう。彼らはその子供が成長すると春日局のように忠実に、その子の権威を守りさえするのだ。「しもべは身持の悪い息子を治め、かつ兄弟たちの中にあって(彼のために)資産の分け前をえる[2節]」とは本当だ。

「人の善し悪し」 箴言18章1〜17

「人の良し悪しを言う者の言葉はおいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ[8節]」人の陰口などは面白いのでついつり込まれて聞いていると、知らず知らず影響が心に残るもの、これが噂の恐ろしさなのだ。正確な評価は、両方の言葉を聞いてみないと分からない。 「先に訴え出るものは正しいようにみえる。しかしその訴えられた人が来てそれを調べて、事は明らかになる[17節]」と書いてあるとおりだ。注意注意。

「悟りと許し」 箴言19章1〜18

「悟りは人に怒りを忍ばせる。あやまちを許すのは人の誉れである。[11節]」もともと罪人であり性質も違う人間が集まれば、時にお互いに違和感を持つのも仕方がない。しかし神の愛、自分にも多い罪、相手に対する理解、つまり悟りは、怒りを忍耐させ、人の罪を許させるのだ。これこそ我々が真理を深く知っている証明で、クリスチャンにとって本当の名誉なのだ。「彼らの罪を許すように私の罪をも許したまえ」と、主の祈りにも教えてあるとおりだ。

「人の計画と主のみ旨」 箴言19章19〜29

「人の心には多くの計画がある。しかしただ主のみ旨だけが堅く立つ[21節]」自分の計画と主のみ旨の一致することもある。しかし、また自分の計画どおりにはゆかないで、思いがけない方向に進ませられることもある。でもクリスチャンは、これによって主のみ旨が全うされると、信じて、感謝と信仰をもってその事態を受け入れ、対応していく。

「二種のはかり」 箴言20章1〜15

昔のずるい問屋は商品を買上げる時と、売る時に別尺のはかりや枡を使って儲けたという。今なら計器法違反という罪だ。しかし、我々も自分と他人の評価に別の標準を使う場合が多い。自分には点が甘く、人には反対にきびしい。あるいは、自分のことは棚に上げて人を咎める。自分を理解し評価するのと同じように万事人の身になって考えるのは「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という教えの一つの姿だ。

「軽率と老醜」 箴言20章16〜30

「若い人の栄えはその力、老人の美しさはその白髪である」[29節]ともすれば老人は頑固で経験を鼻にかけ若者を侮り、若者は老人をその無力や醜さから無視し馬鹿にする。しかし、それはいけないし損失だ。 若者の新鮮な頭脳と力は勿論大切だ。また老人の経験と思慮も尊重されねばならない。お互いに老醜や軽率から守って頂き、相互の尊敬協力で共々に主と人に仕えてゆきたい。

「謙遜な人」  箴言21章1〜15

「王の心は主の手のうちにあって、水の流れのようだ」[1節]中国では「諌(かん=忠告)に従うこと流るるがごとし」などといって、忠告に従順なことが人君の最高の徳の一つとされた。 今ここに言われている王の心は、神のみ旨に対して流れのように従順だとある。すばらしいことではないか。父親は家族の中で、牧師は教会の中で、本当にそうありたい。その謙遜従順の姿は、恐らく多くの欠点さえもカバーするだろう。強情、高慢は正にその反対の結果を生む。

「説教の準備」 箴言21章16〜31

「戦いの日のために馬を備える。しかし勝利は主による」[31節] 私は集会が始まろうとしているのに、全く説教の準備がなく、気が気でない夢をよく見る。いつ見ても恐ろしい夢だ。説教には充分な準備が大切だ。しかし、実際の講壇で説教者を助け用いて下さるのは、ただ神ご自身なのだ。 「説教のための準備をする。しかし勝利は主による」のだ。

「根気良く教えよ」 箴言22章1〜16

スザンナ・ウエスレーは、必要なことは何回でも、子供にわかるまで、また覚えるまで教えた。あまりの根気の良さにご主人が感心すると「それでもあと一回で覚えるというときにやめてしまっては、余りに惜しいですから」と答えたと言う。スザンナは有名な兄弟牧師、ジョンとチャールズ・ウエスレーの母親だ。ここにも「子をその道に従って教えよ。そうすれば年老いてもそれを離れることがない」[6節]とある通りだ。

「信念の人」 箴言22章17〜29

世の中には慷慨家(こうがいか)という性格の人がいて、いつも何かに悲憤慷慨している。 正義感が強く、反権力的で理屈っぽくて感情的だ。不平家で、いくらかやきもち焼きのところもあり、そして言葉がどぎつい。付き合っているとついついつり込まれる。用心した方がいい。 ここで「怒る者と交わるな。憤る人と共に行くな。わなに陥ることのないためである」[24,25節]と言うのはその意味もあるかも知れない。実生活の知恵だ。

「悪魔のご馳走」 箴言23章1〜18

この章には「何々してはならない」「なぜならば何々だから」という教えが繰り返されているようだ。6節以下には、本当は勘定高いのに、親切らしくご馳走をする人が出てくる。うっかりその手に乗ると、結局は頂いたご馳走も、ていねいなお礼の言葉も吐き出す結果になる。 その最大のものは悪魔だ。肉的な愛や快楽や成功や富などをいろいろ如才なく持って来るが、その真意は人に罪を犯させ滅びに陥れることに他ならない。

「知恵の買い占め」 箴言23章19〜35

「真理を買え、これを売ってはならない。知恵と教訓と悟りをも買え」[23節]とある。「これらの貴重なものは時間、努力を費やしてせっせと買いなさい。もし怠慢や無益なことに時間を費やすなら、こららの貴重品を安く売り飛ばすことになるのだ」と。「折々は遊ぶ暇(いとま)のある人も暇なしとて、書(ふみ)読まぬかな」と本居宣長も言っている。 後半には遊女や酒に溺れる人が出てくるが、彼らはこれらのつまらぬ物のために大切な人生も魂も売り飛ばすのだ。

「救いの責任」 箴言24章1〜12

「死地に引かれゆく者を助け出せ。滅びによろめきゆくものを救え」[11節]キリストの「親切なサマリヤ人」のお話のレビ人や祭司のように、死にそうな怪我人を介抱せず放置すれば「見殺し」などといって殺人に準じて非難される。もし最後の審判の時にあなたを指差して「あの人は私に救いについて教えてくれなかった」と言って滅びて行く人がいたら、あなたの気持ちはどんなだろうとある人は言っている。我々はいつも、伝道の責任を問われているのだ。

「泥棒と強盗」 箴言24章24〜34

「箴言」には名文名言が多いが、あまり名言すぎて辛辣な場合もある。この章最後の「怠け者の描写」なども、辛辣でユーモラスで誠に名文だ。泥棒の用心は大切だが、警戒すべきは「怠慢」と言う泥棒だ。また、昔は大掛かりな強盗になると、軍兵を連ねて襲ってくるので、ふせぎようもなくただただ恐れられていたが、怠け者が自分の家を貧しくするのは、それ以上に恐ろしいと言う。家庭も教会も同じことだから、面白がったり、感心ばかりはしていられない。

「黄金のりんご」 箴言25章1〜14

「おりにかなって語られる言葉は、銀の彫り物に金のりんごをはめたようだ」[11節]。言葉は美しく有益なものだ。我々の生活は会話、詩歌、文学など言葉によって豊かに美しく楽しくなる。 慰めも、教育も、説教も言葉によることが多い。 私たちも神様から言葉の賜物を頂き、TPOにぴったりした良い言葉で、神と人に奉仕して行きたいものだ。

「忍耐と柔和」 箴言25章15〜28

「忍耐をもって説けば君も言葉をいれる。柔らかな舌は骨を砕く」[15節]は、忍耐と柔和をもって説得すれば、威張った王様でも頑固な硬骨漢でもだんだん心が砕かれて、彼の言葉を受け入れるようになるという意味だろう。 反対に激しい言葉や鋭い議論はよし相手を凹ませることができても、かえって相手の心をますます堅くしてしまうものだ。 我々も若いときは、説教口調や頭ごなしの議論をまくし立てて、あまり人に好感を持たれなかったことを恥ずかしく思っている。

「三年寝太郎」 箴言26章1〜16

日本の昔話に「三年寝太郎」があり、ロシアにもオブローモフのように小気味の良い怠け者を書いた作品もある。 [13〜16節]にある怠け者なども、働きすぎの日本人にはかえって愉快に感ずるかもしれない。 彼は「道に獅子がいるかもしれない」などと、ずるけの口実にたくみで「あの、知恵があってなんでもどんどん解決する定評のある七人よりも、本当はおれの方が利口なのだ」などとうそぶいたり、なかなかみごとな怠けぶりだ。いかがですか。

「ゴシップ好き」 箴言26章17〜28

「たきぎがなければ火は消える。人のよしあしを言うものがなければ争いはやむ」[20節] 人間のゴシップ好きは昔も今も変わらないようだ。多少の事実があってもゴシップ好きが取り上げなければ、焚木の燃え尽きた火のようにすぐ消滅するのに、ゴシップ好きが繰り返し蒸し返し噂をすると、その影響の方が事実以上に害毒を流す結果になる。 問題そのものよりも、ゴシップ好きのおしゃべりの方が罪が重いケースは、いくらもあるのだ。まして火もないところに想像で煙を立てるなどは最悪だ。

「怒りと嫉み」 箴言27章1〜11

クリスチャンの社長>「今晩教会で聖書のお話がありますが、いかがですか」 その秘書「私には信仰は必要ないのです」 「でもイエス様は、わたしたちの罪のために死んでくださったのですよ」 「でもわたしには別に罪はありませんから」 「あなたは嫉妬についてどう思いますか」 「はい、嫉妬のために陰口をきいたり、人を陥れたり、人を殺すことさえあるから、良くないですね」 「あなたは嫉妬をしたことがありませんか」 「それは私だって女だから嫉妬ぐらいしますわ」 「一日一回ぐらいかな」 「そうですね」 「そうすると、一年で365回、20年で7300回ですよ」 秘書はしばらく黙っている。 やがて「社長さん、実は私は特別に嫉妬心の強い女なのです。本当は毎日それで苦しんでいるのです。ぜひ今晩の集会に連れて行ってください」 「憤りはむごく、怒りは激しい。しかし、嫉みの前には誰が立ちえよう」[4節]

「時と場合」 箴言27章12〜27

聖書学校を卒業したばかりの学生が宣教師の助手になって、その家に住むことになりました。 朝早く起きて、寝床の中で大きな声でお祈りしていました。昔の聖書学校ではこれが熱心のシンボルでした。 彼は後で宣教師に叱られました。「朝のお祈りは静かにするものですよ」 「朝早く起きて大声にその隣人を祝すれば、かえってのろいとみなされよう」[14節] 何事にも時と場合があります。

「不安と平安」 箴言28章1〜12

「悪しき者は追う人もないのに逃げる」[1節] 警官が小石につまずいて2、3歩走ったら、前を歩いていた紳士が急に逃げ出したので、追い着いて捕まえてみると逃走中の犯人だったという話がある。罪を持った者に平安はない。 しかし、キリストを信じて罪を許された者は、生活や境遇の変化推移の中にも、常に天来の平安を持てるのはありがたい。

「告白と許し」 箴言28章13〜28

「その罪を隠すものは栄えることがない。言い表してこれを離れるものはあわれみを受ける」[13節] 罪は病気に似ている。体内にガンのような危険な病気が潜伏しているのにこれを放置しておくと、それがだんだん体を弱らせて、最後には大変な結果になる。 ガンよりも危険な罪を持ちながらそれを放置するのはもっと危ない。しかし悔い改めて神を見上げる者のために、赦し清める、神のあわれみが備えられているのだ。

「悪い政府」 箴言29章1〜13

「正しい者が権力を得れば民は喜び、悪しき者が治めるとき民はうめき苦しむ」[2節] ロマ書13章その他によれば、国家権力は国民の平和と秩序を守るために、神によって立てられたものだ。もちろん時にはドイツのヒトラーや、旧日本の軍国主義権力のような、神のみ心にも人心にも合わない権力が生じて、国民を困惑させることもあるが、それはまもなく滅亡して行く。 しかし、今でもある地方では混乱や戦争が人々を悩ませている。 我々は今の日本が比較的平和なのを感謝し、さらに良い政府、良い政治のため、さらに日本と世界のために、神に祈らなければならない。

「忠義一途」 箴言29章14〜27

「治めるものの歓心を得ようとする人は多い。しかし人のことを定めるのは主による」[26節] 有力者、支配者、あるいは社長、課長の歓心を得ようと躍起となり、酒を飲もう、遊びも付き合おう、賄賂も取り次ごうと、恥も外聞もなく勤めてみても、実際には当てが外れるようなケースも多い。 人間の運命を決めるのは、決して有力者や社長などではなく実は神様なのだ。 人間は利害関係などと共に気も変わる。一生を賭け尽くした会社がつぶれることもある。 しかし「たとえわたしたちは不真実であっても、彼(神)は常に真実である」といわれる神に、われわれは信仰を献げつつ生きて行きたいものだ。

「貧乏物語」 箴言30章1〜17

「わたしは二つのことをあなたに求めます。貧しくもなくまた富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください」[7,8節] 人間はあまりひどい寒さや暑さに耐えられぬように、ひどい貧乏にも山のような財産にも対応が難しい。 私はある先輩から「牧師の貧乏は仕方がないが、貧乏臭くはなるな」と言われた。貧乏で卑屈にならないのは難しいからだろう。とともに、裕福でいながら、謙遜、清潔などの人格を守るのも難しい。 使徒パウロは言う「わたしは富むことにも乏しいことにも処する秘訣を得た。わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる」と。これもまた我々にとって大切な祈りだ。

「四つの道」 箴言30章18〜33

「すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這う蛇の道、海を走る船の道、男の女に逢う道がそれである」[19節] これは「どんなところにも道はある。つまり方法がある」ということを示しているのだろうか。 空にも岩にも海にも道はある。だから決して行き詰まったなどと失望することはないのだ。 またその気になれば監督の厳しい男女の仲にさえ道はあり、しかもその足跡を隠す方法さえある。そんな危険な誘惑の道もどこに隠れているか分からないから、お互いに油断なく注意せねばならない。 いつも「わたしは道である」とおっしゃったキリストに従って歩くのが、最も安全かつ祝福の道だ。

「酒飲み王様」 箴言31章1〜9

「酒を飲むのは王のすることではない」[4節] バスの運転手さんが酒を飲んでいては乗客の安全を守ることはできない。まして、飲んだくれで不行跡の王が国民の安全を守れるだろうか。 酒は人を一時的な、軽い狂気、低能者にするのだ。 しかしそれは酒だけではない。人を酔わせ迷わすものは他にもいくらでもある。 サウル王は名誉欲と嫉妬心から、狂ったようになって、理由もなく若いダビデを追い回し、人望を失った。ところが後にダビデ王もまた、女性関係で失敗し、一家の家長として、また国王として指導力を失い、家庭と国の混乱を招いた。 国王ならずとも責任のある大人は、よく注意して酒、過剰な名誉欲、異性の誘惑、こういう類のものを避けなければならない。

「りっぱな奥さん」 箴言31章10〜31

これは理想的な奥さんの教科書だ。 また独身の女性にとっては、すばらしい結婚準備のテキストだ。 また独身男子にとっては、良い奥さんを見つける手引きになる。 それだけではない。もし教会がキリストの花嫁であるなら、この教えは教会のキリストに対する奉仕の標準を示している。一言で言えばキリストに対する愛と忠実の実行だ。また骨惜しみせずに労し、やがて多くの実を結ぶ生活だ。 やがて主は彼女に言うだろう。「りっぱなことを成し遂げる女は多いけれども、あなたはそのすべてに勝っている」[29節]と。