ショート旧約史  伝道の書
館林キリスト教会

ショート旧約史 伝道の書

「空虚な人生」 伝道の書1章1〜18

 ソロモン王は、即位の最初は、自分の弱さと責任の重大さを知って、深くへりくだり、神により頼み、その敬虔を神から称賛された人物だった。 しかしその生涯の中期には、いくらか脱線して栄耀栄華の生活を送った。 その結果彼は、かえって徹底的に世の空しさ、はかなさを実感することになったのだ。 パスカルはいう「聖書中最も悲劇的な人物は、貧困と病気と孤独を経験したヨブと、深く栄華の空しさを学ばされたソロモンだ」と。 ここに記されたのは「一切が空である」という彼独特の哲学だ。 これはキリストの示された「すべてこの水を飲むものはまた渇くであろう」という、世と人間に関する真理だ。とともに「すべてこの水を飲むものは永遠に渇くことがない」という、キリストの福音を受け入れる準備となるものだ。

「無常と徒労」 伝道の書2章1〜17

 ソロモンは人に羨まれる王者として、好むものは何でも手に入れ、何でもやってみることができた。実際に遠慮なく実行してみたのだ。 また彼はたぐいまれな秀才だったから、有名な学者王として勉学、研究の楽しみも知っていた。 しかし彼はその申し分のない生活のなかで結局、徒労感、空虚感に襲われるのを如何ともしがたかった。 「知者も愚者も(富者も貧民も)同じような運命に見舞われ、同じように死ぬ。また来るべき日には、どちらもみな忘れられてしまうのはどうしたことだろう。そこで私は生きることをいとった」 ここまでだったら、同じ王者で、同じ無常の観察者だった釈迦の言葉に、似ていなくもない。

「単調と無意味」 伝道の書2章18〜26

 昔ロシアで囚人をいじめるのに、こういう方法があったそうだ。 まず、水の一杯入ったバケツと空のバケツを与える。そして一日中かわるがわるバケツの水を入れ替えさせるのだ。 別に特別にひどい目には会わせなくても、その囚人がいわゆるインテリでものを考える人間であればあるほど、作業の無意味と単調さに疲れて自殺してしまうケースも多かったそうだ。 生活の空しさに疲れ果てたソロモンには、人生そのものさえ罪人に与えられた神の刑罰であるように思われたろう。 「神は罪人には仕事を与えて、集めることと積むことをさせられる」(26節) その空しさに気付いて早く神に立ち帰るものは幸いだ。

「万事に時がある」 伝道の書3章1〜15

 ここにある「すべての業には時がある」という一連の言葉には、 第一に「なんでも時期というものを考えて、時期にあわないことをするな」 第二に「機会というものを失ってはならない」 第三に「どんな時、状況、出来事にも、必ず神の定めた意味というものがある」 第四に「どんなとき、どんな出来事にも、祈って行けば、必ず神によって対処の道、方法が開かれる」 などの教訓が示されていると思われる。 もし我々が祈り深く神の導きを頂き、与えられているそれぞれの「時の意味」をわきまえて、敬虔、真剣、賢明に生きるならば「神のなされることはみな、時にかなって美しい」という真理を悟るに違いない。 だからクリスチャンには本当の意味で、悪い時も悪い出来事もない。 「ローマ書8章28節」に記してあるように、つまりその一切が益となるのだ。

「友達について」  伝道の書4章1〜16

 [9節]以下に友達の事が書いてある。 一人でするより二人でやれば、もっと大きな収益をあげられる。一人が倒れることがあってもその時友人は彼を助けるだろう。二人の場合だったら生活にもぬくもりがある。 孤独の寂しさを読んだ歌に「怒りたるわれの心のみじめさは、冷えたる飯を噛みておもほゆ」などというのがあるが、なんとも情けない姿だ。 闘争も二人で戦う方が有利だ。一人では、いやになるともう長続きは難しいが、三人だったら気をとりなおして粘ることもできよう。 さて我々がクリスチャンになって本当に「良かったなあ」と思うことの一つは、神様と祈りとを中心とした、すばらしい信仰の友」を得たことだ。 私も信仰生活56年、真に良い友に囲まれて生きてきた。ありがたいことだ。

「祈りの常識」 伝道の書5章1〜12

祈りは人と神の会話だ。堅苦しい決まり文句や、無意味な繰り返しがあるはずはなく、もっと自然なものだと思う。しかし自然も度が過ぎると神様に物を言って聞かせるような、またはバナナの叩き売りのような、威勢はいいが乱暴な祈りに脱線もする。それを熱心の現れと誤解して競争になると、もうめちゃめちゃだ。人間の間でも時には悲鳴を上げたり、泣き出すこともあるが、しかし普通は「軽々しく口を開き、言葉を出そうと心に焦る[2節]」ものではない。祈りにもそういう常識が必要だ。

「物の両面」 伝道の書5章13〜20

伝道の書はとても実際的な聖書で、いつも物の両面を見て、片寄った極端な発言をしない。[13〜15節]には永遠の相から見た場合の、富の空しさを言っている。しかし[16節]以下は現世では、富によってその分に応じた楽しい生活が許されるのであって、その限りにおいては富にも意味があり働くことも大切だと言う。インドなどでは民衆の宗教心が徹底して、現世的、比較的の観念が薄く、ただ無欲貧困を誇りとする風潮が、結果的に国の繁栄を妨げているそうだ

「厭世感」 伝道の書6章1〜12

「無常感」といい「厭世感」という、ソロモンの感慨もここにきわまったというべきだ。これは冷徹に現実を観察する者にとっては一つの事実で、この世で楽しそうに浮かれている方が、いわゆるおめでたい人で、余り利口ではないのだ。ただしこれは「神を見失った者にとって」という但し書きが必要だ。つまり「全てこの水を飲むものはまた渇く」ということなのだ。しかしキリストの救いを受け神に立ち帰る者は、同じキリストの「しかし私が与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがない」という、みことばの約束を経験するのだ。

「順境、逆境」 伝道の書7章1〜14

良くできた人のことを尊敬の気持ちで「あの人は苦労人だから」などと言うし、反対に「結局彼は苦労しらずの坊ちゃんだ」と軽く評価されることもある。ここに「悲しみは笑いにまさる。顔に憂いを持つことによって心は良くなるからである」とあるのはその意味だ。また「順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は(我々の人生のなかに)かれとこれとを等しく造られたからである」というみ言葉も尊い。完全幸福、完全不幸という人生は有り得ない。その人生の秘訣はあらゆる場面で思い煩わず、遭遇の意味を考え、それを生かしてゆくことにあるのだ。

「賢婦人」 伝道の書7章19〜29

「千人について、真の男が一人はいる。しかし真の女はいない」とは女性侮辱の言葉だ。しかし昔は女性はもともと有能さを期待されず、従って教育の機会も与えられなかったのだから気の毒だが仕方がない。ましてソロモンは賢明な家来を多く求めたのに比べて、女性は快楽のために、容姿の美を標準に集めた様だから、それではりっぱな婦人にめぐり会えないのも当然で、言わば自業自得だ。そこえゆくと私などは、最初から容姿などに期待しなかったから、千人に一人の賢婦人を見つけることができたかどうか、よく知りません。

「人間の顔」 伝道の書8章1〜13

「人の知恵はその顔を輝かせ、またその粗暴な顔を変える」リンカーンは就職希望者を断った理由に「顔が気にいらなかったからだ」と言った。「顔は生まれつきゆえ、顔で判断しては気の毒だ」と言われ「いや40才以上の人は自分の顔に責任がある」と答えたそうだ。確かにこの聖書にもあるように、本人の長い経歴と人格はその顔にも反映するだろう。またこの章にはいろいろな社会の矛盾が指摘されているが、それにも対応の方法がある、という教えが書かれていて、考えさせられる。

「智者の嘆き」 伝道の書9章1〜12

ソロモンのような智者は先から先が見えるので、不安もあるしまた空しさも感ずるだろう。智者も愚者も、善人も悪人も、生涯、運と不運の偶然に支配され、また最後に死んでしまえば、結局みな同じ運命だ。この章でソロモンがいうのはそのことだ。しかし我々はこれに「現世、地上だけ見れば」という言葉を入れて読まねばならない。ラザロのような善人が貧しく、不敬虐な金持ちが幸福なのも地上だけのしばらくの場面だ。キりストはルカ16章のあの話で、この大切な真理を教えて下さったのだ。伝道の書でこうした疑惑を吐いたソロモンもやがて真理に立ち帰る。12章の最後には、それが見える。

「知恵と工夫」 伝道の書10章1〜15

ここからは短い、断片的な教訓が集めてある。鋭くて皮肉で、ユーモラスで、いくらか謎めいている。これは謎解きの興味と、また記憶を助けるのに役立つのだろう。10節あたりは、日本で「不器用では一生楽はできない」などというのと同じだろう。切れない刃物を力まかせに使って、息の方が切れるのは素人の証拠だ。本職は刃物を研ぎすましておく。またちょっとした手順の工夫をすれば、作業もやさしく、スムースに行き、能率も上がるわけだ。また特別上手な人でなくも、安心して作業に参加できる。何事も知恵と工夫が大切。

「未来は不明」 伝道の書11章1〜10

[2、5、6節]の終わりに「知らないからだ」と書いてある。人間には、現在起こっていることでも、精密、微妙な問題になるととても分からない。まして未来に何が起こるかはただ神のみの知るところで、人間には隠されている。ここは「どうせ先々は分からない。いっそその日暮らしで行こう」でなく「知らねばこそ神に任せよう。でも許されるだけは将来の準備もしよう。それが我々の道徳的な責任だ」ということを教え「どうせ先のことは分からない。いっそ怠けてしまえ」でなく「神を信じて、かえって忠実に奉仕しよう」と教える。人間に隠された部分には、神の摂理がある。分からないことが即、絶望ではない。結果は任せて、ただ忠実に神に従おう。

「人生の結論」 伝道の書12章1〜14

これから進学する、就職も考える、結婚も決める、という「若い日に」神様を信ずる生活に入り、これらの大切な問題についていちいち祈りながら、また神の導きや助けをいただきながら、人生のステップを進めて行くのは最高の幸福だと言う。また続いてこの章には、人が老齢に向かう姿が、詩的象徴的に記してある。これも一つの人生の現実だ。老年期もまた特別に神様の助けが必要なのだ。人生の意味、価値、秘訣、その全体は「神を恐れ(信じ)その命令を守れ」という教えに尽きる。これがソロモン王の書の結論なのだ。