館林キリスト教会

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ショート旧約史 イザヤ書20〜39章

「身体と行為の預言」 イザヤ書 20章1〜6

大国に挟まれた小国イスラエルは、しばしば大国の軍隊の通行路となり、迷惑することも多かった。いまアッスリヤの軍勢はエジプト攻撃の基地としてアシドドを攻め、イスラエルに不安を与えた。このとき預言者イザヤは神に命ぜられて、裸はだしで歩き、やがて、エジプトがアッスリヤに大敗することを身をもって預言した。この預言は、のちアッスリヤのエサルハドンによって成就した。言葉だけでなく身体と行為で預言する。こんなやりかたもしばしば用いられた、預言のスタイルなのだ。

「預言者の涙」 イザヤ書 21章1〜12

この章の三つの地名はアラビヤ以外はよく分からない。彼等は「食卓を設け、じゅうたんを敷いて飲み食いする」。しかしその滅亡を知る預言者イザヤの心は、産婦のように苦しいのだ。多くの預言者、伝道者は滅びゆく魂の運命を思って泣いた。泣きながら伝道したのだ。キリストもエルサレムを見おろしてしばしば号泣したと伝えられている。ライス博士は、説教の間、いつも涙が頬を濡らしていた。ある人が「感情的に過ぎる」と忠告すると、「あなたは人が地獄に落ちる話を、泣かずにできるのか」とかえってけげんな顔をされたそうだ。

「その日暮らし」 イザヤ書 22章1〜14

[12,13節]には、神様が人間に、へりくだり罪を悲しみ、悔い改めるように命じているのに、人間たちが耳にもかけず、その日その日を空しく遊び暮らす様子が描かれている。彼等の言葉は「われわれは食いかつ飲もう。明日は死ぬのだから」だ。永遠も未来も、神のことも魂のことも、罪も裁きも考えず、ただ日々の快楽に自分をごまかしている。釈迦が牧場を通ると、牛たちがのんきに草を食べている。釈迦は弟子たちに「牛は殺されて一日で半数に減ったのに、彼等はのんきに遊んでいる。ああ悟りなき者の哀れさよ」と言ったそうだ。

「権力の交替」 イザヤ書 22章15〜25

セブナは有力な官吏、また政治家であったようだ。権力を利用して土地を手にいれ、高いところに墓を造ったのはよほどの権勢だったのだろう。しかし預言者の言葉のように彼は間もなく失脚した。本人はころころまりのように放り出され、人目をそばだてた華麗なその乗用車も放置された。それに代わったエリヤキムは、エルサレムの父と呼ばれ、主の祝福によって、開くも閉じるもすべてうまくゆく。彼はしっかりした釘のように、あらゆる責任を引き受けても心配ない。何という相違だろう。我々も高ぶり、勝手なことをして神様に叱られないように、注意柔く謙遜に、神に従ってゆかねばならない。

「難しいイザヤ書」 イザヤ書 23章1〜18

交読が「イザヤ書」に入ってから、文章の理解が難しいかも知れない。その理由はいろいろある。第1にこれは詩文なので直接的な表現よりも、詩的な言いまわしが多い。第2に預言書で、まだ起こっていない出来事の暗示的な叙述が多いからなおさらだ。第3に、知らない地名や、歴史的な状況が出てくる。「地歴」の苦手な人はお気の毒です。でもだんだん聖書を「地歴」のセンスでお読みになると、聖書を読むのがとても面白くなりますよ。礼拝で読まないと、こういうところは、一生全然、目を通さない恐れもあります。それも残念ゆえ、辛抱して、暫く、交読を続けましょう。

「土地と住民」 イザヤ書 24章1〜13

[5節]に「地はその住む民のしたに汚された。これは彼等が律法に背き、定めを犯し、とこしえの契約(全部聖書の事)を破ったからだ」とある。一体土地はそこに住む人の管理いかんで、ずいぶん様子が変わってくる。スイスなどへ行くと、国全体が庭園のようだ。エジプトは、近頃だいぶ良くなってもまだ「全国総ゴミ捨て場」の感がある。いまイスラエルは、せっかくの選民でありながら、聖書の教えを守らず、罪を犯したために、呪われ、敗戦し、捕虜として世界各地に散らされることが預言してある。そのあと、「乳と密の流れる良き地」も、住む人もなく荒れ果ててしまうのだ。

「終末の地震」 イザヤ書 24章14〜23

神に従わず、この地上を権力と罪で汚染した人間に対して、終末に臨む裁きの現象の一つに地震がある。キリストもオリブ談話の中で「その時は、民は民に国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちにききんが起こり、地震があるであろう」と言われた。[17節]以下に地震の描写がある。本当にその時は、堅固だった地面は崩れて落とし穴になり、安住していた家は、我々を捉えて殺すわなに早変わりするのだ。そこからやっと逃げ出しても、また地の陥没に呑み込まれる。恐ろしいことだ。

「回復の預言」 イザヤ書 25章1〜12

イスラエルはその罪のゆえに神の裁きを受け、外国の軍隊に踏みにじられる。その結果、彼等もようやく悔い改めるのだ。神はあわれみによって、悔い改めたその罪を許し、彼等を再び祝福してくださるのだ。回復した彼等は世界の祝福のもととなる。かくてアブラハムに与えられた約束は(彼等の繰り返しの罪にもかかわらず)成就するのだ。イスラエルの裁きと亡国を預言してきたイザヤも、次第に終末における回復に預言を進める。その時にはイザヤの言葉も明るく、光を放つようになるのだ。

「神の愛と真実」 イザヤ書 26章1〜15

終末の日に、主のあわれみをうけ、恵みに回復したイスラエルの詩である。「その日ユダの国で、この歌を歌う」というその歌は、すばらしい信仰の告白であるとともに、いまやユダが神に立てられて、ふたたび世界の信仰と礼拝の中心となったことをうかがわせる。なんとすばらしい終末の日の希望であろうか。「主よ、あなたはわれわれのために、平和を設けられる。あなたはわれわれのために、われわれのすべてのみ業をなしとげられた」[12節]このようにイザヤは、人間の罪と失敗を乗り越え、最終的な、神の愛と真実の成就を預言する。

「滅亡と回復」 イザヤ書 27章1〜12

イザヤが現に奉仕していた時代は、罪のためにイスラエルは滅亡し、ユダもやがて同じ運命をたどろうとする、言わば末期の状態だった。イザヤは警告を語りつつも、彼らの最後については絶望的な気持ちにならざるを得なかった。しかしその一方、神の約束はすたらず、アブラハムの子孫が永久に見捨てられることはないという、信仰が、彼の中にむらむらとこみあげてくるのを禁じえない。預言という言葉がそもそもこの「こみあげる」という意味から出ているのだ。それゆえイザヤの預言は、ユダの滅亡と、終末のその回復とを、不思議に交錯させつつ、語られてゆくのだ。

「教育の天才」 イザヤ書 28章1〜13

休暇旅行で萩に行き、吉田松陰の「松下邨塾」を見てきた。彼はこの物置を改造した粗末な学塾に身分の低い青年を集め、2年間彼等を教育した。その子弟たちはすなわち明治維新の原動力となったのだ。松陰が教育の天才といわれるゆえんだ。イザヤ書のこの章の[7〜13節]に、当時のユダの祭司、預言者など、いわゆる教育担当者の実情が書いてある。彼等は大体において酒が好きだ。生徒の尊敬も信頼も失いながら、ただ知識と教訓と規則を羅列してそれが教育だと思っている。「ここにも少し、そこにも少し」中途半端、形式的に教えて、徹底、周到の工夫はない。困った話だ。

「隅の石」 イザヤ書 28章14〜29

「見よ、わたしはシオンに一つの石を据えて基とした。これは尊い隅の石である」[16節]キリストは「この『隅の石』とは自分のことだ」といわれた。ソロモンが神殿を建てた時に、運ばれてきた多くの土台石の中に、大きすぎて始末の悪いのがあった。それを跳ね出して、揃った石だけで土台を据えてみたが、うまくゆかない。今度はあの大石をまず先に据えて、他の石をそれに合わせて並べるとうまくいった。これが諺になった。我々も生活の設計に当って、キリストを跳ね出した方が良さそうに見えることがある。しかしそうでなく、万事をまずキリストに合わせる事だ。

「飢えと渇き」 イザヤ書 29章1〜12

飢えた者が食べることを夢見ても、覚めるとその飢えが癒えないように、渇いた者が飲むことを夢見ても、疲れてその渇きが止まらないよいうに・・」[8節]なんと淋しい姿だろう。何か欲しいものがあると、それさえ手に入ればどんなに満足だろうと夢をえがいて、必死に追求し努力する。しかしそれを手にすると、しばらくは満足して喜ぶが、間もなく飽きてくるか、またはその満足に慣れて感激がなくなる。そしてまたなにかにあこがれる。永遠の飢え、永遠の渇き、これが人生だ。真の神のもとに来て、そこに真の満足を見出すまでは。

「説教と居眠り」 イザヤ書 29章13〜24

牧師の説教が長すぎたので、最前列の人まで居眠りを始めた。講壇の後ろに並んでいた役員の一人が、あまり長い説教に腹を立てて、後ろから牧師に聖書を投げつけた。これが外れて眠っている最前列の人に当った。すると彼は言った。「もう一つ聖書を投げろ。まだ牧師の声がきこえるぞ」これはビリー・グラハム先生から聞いた話だ。確かに居眠りの時には「心は遠く離れる」だろう。でもこの章の[13節]は、居眠りのことではあるまい。キリストの言われた「『主よ、主よ』という者がみな天国に入るのではなく、父のみ旨を行う者だけが天国に入るのである」という言葉と、同じ意味を教えているのだと思う。

「エジプト同盟」 イザヤ書 30章1〜7

むかしのイスラエルは、北にアッスリヤ、バビロン、南にエジプトなど、南北の超大国に挟まれた小国で、外交の舵取りが難しい環境だった。イザヤの頃、親エジプト派が活躍していたが、エジプト派にせよ、アッスリヤ派にせよ、神に頼るよりも強大国を当てにして、政治的策略に右往左往するありさまだった。ここにイザヤはエジプトに頼っても、彼等はイスラエルを救うことができないことを警告し強調する。真に頼むべきは神なのだが、彼等はそれを忘れ、外国との同盟のために、神のみ心にかなわない様々な要素を国内に導入する。結局これは、神とイスラエルに恥辱を来すだけの結果に終わるだろう、と。

「メッセージ」 イザヤ書 30章8〜17

わたしは「説教に注文、リクエストがあったら言ってください」などと広告する。しかしイザヤ時代の預言者は「正しいことをわれわれに預言するな。耳に聞きよいことを語れ」[10節]などと注文をつけられたらしい。預言者のメッセージが彼等の耳に痛いからだ。しかし、預言者がサービスマンになって会衆に快いことばかり語れば主の奉仕者としては自殺と同じだ。では説教者は自由勝手に話せばよいのか。それもいけない。神と会衆両者のためのメッセージが大切だ。真に微妙なことではある。

「神様のみ声」 イザヤ書 30章18〜33

ここに再びイスラエルの回復と祝福の預言がくりかえされる。我々も同じく罪を犯し呪われた者だが、キリストの救いによって回復祝福を与えられたのだ。そのクリスチャン生涯について、[21節]に「あなたが右に行き左に行くとき、そのうしろで『これは道だこれに歩め』という言葉を聞く」とある。そのように神は一歩一歩の導きによって、あやまちや危険な道から我々を守られる。しかし神の声が「うしろから聞こえる」というのは暗示的だ。その声を聞くには立ち止まらなければならず、耳を傾けなければならない。勢いづいてどんどん歩いていれば、声は聞こえないのだ。

「母鳥と雛鳥」 イザヤ書 31章1〜9

イスラエルはその罪の裁きの日の間、ずいぶん諸外国とその軍隊にいじめられた。その時の軍隊は、神の裁きの鞭だったのだ。しかし今イスラエルの許しと回復の日がきた。主が天から下ってきて、エルサレムをお守りになる時、いまは押し寄せる外国の軍隊も、まるでライオンを囲む羊飼いのように、恐れて手も足も出ないのだ。そのときイスラエルは、強くて優しい親鳥がその雛を守るような、主のカと愛の保護を感ずるのだ。救われて罪を許された我々も同じように毎日、神の愛と保護の中に守られて生活している。これは何という、すばらしい神の恵みだろう。

「理想の国」 イザヤ書 32章1〜8

[1〜4節]には理想の王と政府に指導される、理想の国が描き出されている。しかし現実の地上の国は[6〜8節]の状態なのだ。今は銀行や政治家など、富や権力の集中する部門の、不正、汚職のニュースの絶間がない。彼等は本来、権力者、指導者の根本的な資格を欠いているのだ。聖書の光から言えば実は愚か者だ。それが地位を得、形式的な尊崇を受けている。ここに悲劇、あるいは喜劇があるのだ。キリストの再臨の後キリストが世界を統べ治め、神の僕たちがこれを助ける時、はじめてここに描かれた理想の神の国が実現し、我々も安心、納得して生きられるだろう。

「上よりの霊」 イザヤ書 32章9〜16

「しかしついには霊が上からそそがれて、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる[15節]」これはイスラエルの回復の預言だが、我々の働きにもこの預言の成就がほしい。我々も伝道に努力しているが、いつも収穫は少なく、人心は種を蒔いても受け付けない荒野のようだ。しかし、主の霊が上から注がれる時、多くの実が結ばれ、教会も開拓地も、この地方も見違えるほど豊かな収穫に覆われ、神を賛美する会衆に溢れるだろう。我々が祈り、かつ努力する間に、必ずこの預言が成就することを、信じて進もう。

「一生の宝物」 イザヤ書 33章1〜9

「一生の生活の確立」が我々の努力の目標だ。財も地位もそのためにこそ求められる。しかし[6節]には「主は救いと知恵と知識を豊かにして、あなたの代を堅く立てられる」とある。我々の人生の確立は、財や地位ではなく、主の救いと知恵と知識が土台なのだ。これがなくては、生活は不安で粗雑で、決して心の満足はない。しかもこの土台を欠いた場合、ずいぶん定評のある富裕、賢明な人でも、ここはという大切な場面でしばしば方向を誤る。金持ちと言われる日本で、新聞やテレビは毎日その実例を提供しているのだ。「主を恐れることはその宝である」とは本当だと思う。

「天国の門」 イザヤ書 33章10〜22

スポルジョンは「天国には恐らく門も障壁も要らない。悔い改めなかった罪人にとって、聖なる神の臨在する天国ほど恐ろしいところはないだろう。罪人は追い出さなくても自分で天国から逃げ出してゆく」といった。ここに「われわれのうちだれが焼き尽くす火の中におることができよう。だれがとこしえの燃える火の中におることができよう[14節]」とあるのを見ればその言葉も思われるのだ。黙示録にも、王、高官、富める者などが再臨の主を恐れて、洞穴や岩陰に身を隠し、山と岩に向かって「さあわれわれをおおって、御座にいます方のみ顔と小羊の怒りとからかくまってくれ」と叫ぶことが書いてある。

「繁栄と滅亡」 イザヤ書 34章1〜17

ここには神に従わない諸国が終末において、神の怒りのもとに滅び去る様が預言されている。すでに今、エジプトの遺跡を見、バビロン、ペルシヤの遺跡が散乱するメソポタミヤを見れば、権力の限りを尽くして栄えた帝国の跡は、悲哀としか言い様がない。現時代に栄光を誇る諸国も不敬虔の報いは免れられないだろう。「あなたがたは主の書をつまびらかに尋ねて読め。これらのものは一つも欠けることなく、その連れ合い(預言の成就)を欠くものはない。主の口がこれを命じ、その霊カが彼等を(聖書を)集められたからである[16節]」

「砂漠の川」 イザヤ書 35章1〜10

「荒野」「砂漠」を見た者はその荒涼とした救いがたい景色を忘れないだろう。ことに世界の公園と呼ばれるほど水の豊かな日本人には強い印象だ。それゆえ砂漠の民の水に対する強烈な憧れも察する事ができるのだ。「砂漠に水が湧き川が流れ、サフランの花が咲き、レバノンのように香柏の森林が茂る」再臨の時の回復の預言はイスラエルの心を躍らせた。これはまた、救われた者の喜びの表現でもある。ノンクリスチャン時代の砂漠のような状態は変り、心も生活も家庭も、花咲き鳥唄う、美しく幸福で、感謝のありさまに変わったのだ。

「信仰の沈黙」 イザヤ書 36章1〜12

アッスリヤの王はユダの町々を荒らし回っていまリブナにいる。エジプトはこの地方が完全にアッスリヤのものになるのを好まないから、間もなく介入してくる恐れがあって、実はアッスリヤ王も気が気でないのだ。いまただちにエルサレムを降参させようと脅迫する言葉がおおげさで宣伝的なのも、彼の焦りの現れなのだ。彼は「エジプトは当てにならないと」いうだけでなく、イスラエルの寄り頼む神も当てにならないと罵倒する。主はこの言葉を聞いておられる。この時エルサレムの市民が動揺せず神とヒゼキヤ王に信頼して一言も答えなかったのは立派だった。

「おためごかし」 イザヤ書 36章13〜22

アッスリア王セナケリブの使者ラブシャケは(彼は別に鮭好きでもない)イスラエル王ヒゼキヤとその神の無力をしきりに鳴らして、エルサレム市民に降伏を勧めた。それとともに、降伏したイスラエルが捕虜になった場合どんなに優遇され、どんなに安全、幸福になれるかということを、口を極めて宣伝した。これは悪魔のやり口に似ている。悪魔も、クリスチャンを誘惑する時に、信仰を捨てて自由に生活さえすればただちに幸福になれると誘う。信仰が幸福を妨害していると、思い込ませるのだ。ばかな話だが、試みが続いて気持ちの弱っている時などつい引掛かるから、信仰で心を固めていなければならない。

「ヒゼキヤの祈り」 イザヤ書 37章1〜20

アッスリヤ王の脅迫は続く。しかしこれも、エチオピヤ王テルハカ出撃の情報を恐れる彼の虚勢、焦燥に過ぎない。ヒゼキヤは使者を使わして預言者イザヤに祈りを求める一方、自分も神殿に入り、アッスリヤ王の脅迫状を神の前に開いて、切に神の助けを祈った。「万軍の主よ。地の全ての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。耳を傾けてお聞きください。目を開いて見てください。セナケリプが生ける神をそしるために書き送った言葉を聞いてください。主よどうぞ、われわれを彼の手から救い出してください」主はこの祈りを聞いて、この時も奇跡的に、イスラエルを救って下さったのだった。

「作品詩篇46篇」 イザヤ書 37章21〜38

見せかけの脅迫でエルサレム市民をヒゼキヤ王に背かせ、降伏させようとしたアッスリヤ王も、今は神の手に陥り、ほとんど壊滅状態で、国に逃げ帰った。この敗戦によって、人心を失った王は、遂に暗殺に落命することになったのだった。我々の大好きな詩篇46篇は、この時ヒゼキヤ王、またはその側近によって作られた詩篇だと言われている。しかも女性のソプラノで歌われたらしい。今この詩篇を、そのつもりで読み返して見ると、内容も事蹟に当てはまるのを感じ、ヒゼキヤ王とその市民たちの喜びも伝わって来るというものだ。同時にまた、改めて信仰を励まされる。

「祈りと涙」 イザヤ書 38章1〜16

ヒゼキヤ王が重い病気になったのは、アッスリヤ軍との問題が、まだ全くは片づいていなかった頃だと思う。人はやりかけた仕事が片づかず、心残りのまま死ぬケースが多いらしい。ヒゼキヤ王も重い責任のある立場だから、アッスリヤ軍が完全に撤退して、国が本当に平和になるまでは、死んでも死にきれない気持ちだったろうし、国民も王の危篤のニュースを聞いては、時が時だけに心細い限りだったに違いない。ヒゼキヤ王の敬虔で忠実な生活、その祈り、その目にある涙は、この時神のみ心を動かし、病が癒され、15年の余命が許されたのは、本当に感謝だった。

「軽率と虚栄」 イザヤ書 39章1〜8

とうとう北王国を滅亡に追いやったのみか、長くユダをも苦しめたアッスリヤに、いまバビロンという強敵が現れた。バビロンはユダと協力して、アッスリヤを滅ぼしてしまおうという機運になってきたのだ。その使節がヒゼキヤ王を訪れた。王が気を良くして、喜んで協力を誓い、得々と自国の武器弾薬、財宝のたぐいを見せたのも無理もない話だ。しかしそこまで相手を信用して、手のうちを見せるのは軽率で、王者の振舞いではない。イザヤはまたそこに、ヒゼキヤ王の虚栄心を見たのだろう。ヒゼキヤ王ほどの人でも、いつでも、どんな場面でも、どんな点でも、全て完全というのは難しい。注意が必要なのだ。