館林キリスト教会

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ショート旧約史 イザヤ書55〜66章

「来て買いなさい」 イザヤ書 55章1〜7

エジプトやイスラエルのバザーに行くと物売りの声がかしましい。日本でも新聞、テレビのコマーシャル、通信販売、ダイレクトメールなどやはり物売りの声がかしましい。しかしこれらもろもろの商品は、その掛け声にも似ず、人間に真の満足を与えない。繁栄も贅沢も、人間の心の空しさを満たしてはくれないのが事実だ。キリストは「すべてこの水を飲むものはまた渇くであろう」といい、また「わたしは命のパンである。わたしにくるものは決して飢えることがない」といわれた。ここにも「金を出さずに、真の水と食物を買え」と神の招きの声が書かれている。

「神の思い」 イザヤ書 55章8〜13

ここには二つの真理が書かれている。「天が地より高いように、神の思い、神の道は、人間のそれより高い」ということだ。我々も時々「神様これはなぜなのですか。神様のなさり方は納得できません」と言いたいことがある。しかしこのみ言葉の真理によって、信仰をもって神に委せ従うのだ。十字架の時のキリストもそうだった。次に「神が責任をもって語られる言葉」は無駄になることがないという真理が示される。神が天から降らせる雨も無駄はなく、必ず地上に植物の繁殖をもたらす。我々が受け止める神のことば、宣べ伝えるみ言葉の真理もすべて神の保証付きなのだ。信じて心を休んぜよ。

「車の両輪」 イザヤ書 56章1〜8

ここに「安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて悪しきことをせず」と繰り返し書いてある。安息日を守るのは礼拝を大切にすることだ。その手をおさえるのは、悪い行為を避けて清く生活することだ。礼拝と清潔な生活は、クリスチャン生活の車の両輪だ。また神の我々に期待したもう両端だ。礼拝によって魂は養われ、それが実生活に生かされて、クリスチャンの証の生活は保たれる。これある限り異邦人にも、枯れ木のような「宦官」にも、主の祝福は約束されているのだ。

「偶像礼拝」 イザヤ書 57章1〜13

聖書には偶像礼拝について手厳しい記述が多いが、これはその一つだ。ここにはさまざまな偶像礼拝と、魔術、神殿売笑、人身御供、その他これに伴う不潔醜悪な行事も記してあって、偶像礼拝の正体が分かると共に、いかに神がこれを憎みたもうたかもよく分かるのである。しかもその中から選び出され聖別されたイスラエルにして、再びこれらに巻き込まれるとは、理解に苦しむ所業というほかない。しかもそれを悔い改めないとすれば、彼等の亡国離散もまたやむをえなかったというべきだ。

「あわれみの神」 イザヤ書 57章14〜21

先週のイザヤ書は偶像について書かれていた。今日の個所はまことの神の章である。そのコントラストは著しい。「わたしは高く聖なるところに住み、また心砕けてへりくだる者と共に住む」とは何という尊いみ言葉であろうか。このみこころのゆえに、罪を犯したダビデも主をいなんだペテロも、真剣に悔い改めたときその罪は許され、神の祝福は回復し、彼等は再び主と共に歩むことを許され、そのまま天国にも受け入れられたのだ。私たちとて同じだ。実に「われらの滅びないのは、主のあわれみが尽きない」からだ。恵み深い神のみ名を心から賛美しよう。

「形式の宗教」 イザヤ書 58章1〜12

イスラエルの人々は一見まじめに神を求め、また断食などの宗教行事をまじめに行っているようだった。しかし彼等の悔い改めは表面的でいわゆる「実を結ばない悔い改め」だったし、その信仰も実行のない形骸で、ただ儀式的な断食などを繰り返し、それをもって足れりとしていたのだ。主は「彼等の断食は無意味だ。それは受け入れない」と言い、そして正しい断食の精神を、[6節]以下に教えておられるのである。新約においてヤコブも「信仰も行いを伴わなければ死んだものである」といっている。我々も、自然に結果が生活に出てくるような、真の信仰を求めよう。

「人間の現状」 イザヤ書 59章1〜11

「われわれは真昼でもたそがれのようにつまずき、強壮のものの中にあっても死人のようだ。救いを望んでも遠くわれわれを離れ去る」[10,11節]。その真の理由は、[1節]以下に明らかだ。「主の手が短くて救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただあなたがたの不義が、あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。また、あなたがたの罪が、主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ」これは人間の神の前の現状を、最高にはっきり言い表す神の言葉だ。これを悟り、悔い改めるのが救いの道だ。

「堰を切った水」 イザヤ書 59章12〜21

[1〜10節]の罪の指摘に対して、[12〜15節]には人々の謙遜な罪の自覚、悔い改めが記されている。[16〜18節]には罪を憎みさばきたもう神の恐るべき姿が見える。しかし彼は同時に許し主、救い主だ。「主は堰き留めた川を、その息吹で押し流すようにこられる」罪を怒り裁くためだろうか。そうでなく「主は贖う者としてシオンにきたる」のだ。罪を憎む神は、同時に救い主として我々の悔い改めを待っておられる。その悔い改めを見るや否や、待ち兼ねたように我々の罪を許し、祝福するためにおいでになるのだ。ここの[19,20節]は、線を引いて暗記するとよいお言葉だ。

「予言の成就」 イザヤ書 60章1〜14

イザヤ書も60章からは、イスラエルの回復の予言が溢れてくる。ここに罪の裁きを受けて全世界に散らされたイスラエルが、時至って罪を許され、喜び勇んで本国に帰国してくる様子が描かれている。これは30数年前一応聖地で成就した。離散のユダヤ人の帰国とイスラエル共和国建国は、現代の奇跡と言われた。しかしこの予言が語るのは、終末の時の完全な成就であって、現世紀の成就はその証に過ぎない。しかし一度目の前で行われた奇跡は、終末時の完全成就の証明ではないか。その時イスラエルだけでなく、世界と教会と我々クリスチャンに関わる総ての祝福の予言も、完全に成就するのだ。

「氏族、国民」 イザヤ書 60章15〜22

新約の黙示録のように、イスラエルと教会の、終末時の祝福と栄光が予言されている。かつてアブラハムに語られた主の約束は、長い紆余曲折の後にいま実現し「そのもっとも小さい者は氏族となり、もっとも弱い者は強い国民となる」に至るのだ。しかしこれは終末だけのことでなく、聖霊のみわざによっていま我々の上に成就して欲しいことだ。弱いと思っているクリスチャンも、主に用いられれば、多くの人を導き、氏族、国民のようにそれぞれのクリスチャングループを作れるのだ。

「救いの喜び」 イザヤ書 61章1〜11

キリストはその生まれ故郷のナザレを訪問し、なつかしい会堂で礼拝を守られたとき、求めに応じてこの聖書を読まれた。彼はこれがメシヤ、すなわち救い主の予言であることを知っておられたからだ。この予言は信ずるものに成就する。われわれはそれを知りかつ体験している。「私は主を大いに喜びわが魂はわが神を楽しむ。主が私に救いの衣を着せ、義の上衣をまとわせ、花婿が冠を頂き、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである」[10節]ここに信じ救われたものの喜びが歌われている。真に新年にふさわしい言葉だ。

「休まない祈り」 イザヤ書 62章1〜12

この章には「休まない」という言葉が三回出てくる。「シオンの義が朝日のように輝くまで、エルサレムの救いが燃えるたいまつのようになるまで」つまり、人々の救いの成就と教会の栄光が現れるまで、祈りを休まないということだ。「主に思い出されようとするもの」は祈り続けて、このために「主がお休みになれないように」あくまでも頑張らなければならない。我々には休息が必要だし、時こは病気で休むこともあるが祈りは続けなければならないのだ。主はこの熱心な祈りの蓄積に答えて、やがて教会を朝日のように、燃えるたいまつのように、輝かせて下さるのだ。

「羊と山羊」 イザヤ書 63章1〜9

[1〜6節]は恐ろしい裁きと殺伐の記事だ。黙示録などを読み合わせると、これは終末時のキリストの裁きの表現であるらしい。我々はこの裁きを恐れて、今すぐにキリストを信じ、罪の許しを受けなければならない。[7〜9節]は対象的に、救われて神の裁きを免れた者の感謝の言葉だ。「そして主は彼等の救い主となられた」とあるとおりだ。最後の日に神は「羊飼いが羊と山羊を分けるように人間を分けられる」とマタイ25章にも書いてある。これは救われ罪許された者と、裁かれるものとの区別だ。我々は恐ろしい裁きに会わないように、「今日という日の間に」備えを全うしなければならない。

「とりなしの祈り」 イザヤ書 63章10〜19

現実のイスラエルは神に背き、神は怒って彼等を裁かれ、まるでイスラエルと神とは敵対関係のようになった。これが預言者の嘆きだ。しかし彼は昔のことを思う。昔、神はその愛と全能をもってイスラエルの先祖をエジプトから救って下さった。そして今「主よ、あなたはわれわれの父、あなたの名は、贖い主(救い主)です。どうぞあなたのしもべらのために、あなたの嗣業である部族(すなわちイスラエル)のためにお帰りください」[16,17節]と祈るのである。この熱烈な預言者イザヤの祈りは、64章まで続く。その火のような熱心はとりなしの祈りの模範だ。

「少女の祈り」 イザヤ書 64章1〜12

「われわれは久しく罪のうちにあった。われわれは救われるであろうか」「されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。どうぞわれわれをかえりみてください」。イザヤは別に罪人ではないが、民の罪を身に負うてこのように祈っている。ある集会で敬虔な少女が、罪を悲しみ、悔い改めて祈っていた。牧師が不思議に思って聞いてみると、なかなか集会に来ない母親に代って祈ったのだという。牧師はこれを母に話した。感動した母はやがて救われた。

「葡萄の房」 イザヤ書 65章1〜12

「わたしはわが名を呼ばなかった国民に言う『わたしはここにいる』と」。神様は誰でも神を求めるならば、救いと祝福を与えようと待っている。しかし以下には、その神のみ声に耳も貸さず、偶像礼拝と罪に耽る人達が記されている。またそれと共に、その中から神に立ち返り滅亡を免れる、少数の人々も描かれている。葡萄を取ってくると、房や粒の中に甘い汁があるから、潰さないように丁寧に取り扱う。そのように神様は、人が裁かれ滅亡しないように、丁寧に呼びかけ、彼等を救いに導こうとなさるのだ。その中でも、ある者は滅び、またある者は救われる。

「千年王国」 イザヤ書 65章17〜25

イザヤ書は聖書全巻と同じく66章ある。最後に近い65章は、新約の黙示録に当るようだ。ここに新しい天と新しい地と、新しいエルサレムが出てくる。これはいわゆる千年王国の描写だ。世界は神の祝福に溢れ、罪も呪いもなく、人々は平和と繁栄と幸福を楽しむ。ある意味でこれはユートピアだ。トマス・モアは思想的に、マルクスは社会の共産化によって成就するユートピアを語った。しかし真のユートピアは、神の救いと全能によって終末に実現される。それゆえ「天にいますわれらの父よ。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と、我々は日々祈るのだ。

「形式的儀式」 イザヤ書 66章1〜5

[1,2節]はすばらしい神の「お名のり」である。宇宙の造り主全能の神は、へりくだって罪を悔いるものと共にある。これは聖書に繰り返し教えられるすばらしい真理だ。他の宗教には見られない真理だ。[3節]には、この神に対して形式的な礼拝を守り、実生活では罪や不潔を改めない、ある人々に対する警告が記されている。彼等は表面敬虔な儀式を守りながら、自分勝手な道を選び、神の憎みたもうものを楽しんでいるのだ。それゆえ神は彼等に悩みを備え、彼等が内心恐れたような思いがけない事態を臨ませるという。結局これが彼等の選択の帰結なのだ。

「終末の日」 イザヤ書 66章10〜17

天地を造りこれを支配するのが神なのに、今は神を信じない人たちが世にはびこり、神を信ずるものはかえって引っ込んでいる。この矛盾が解決され神の正義が行われるのが終末だ。ここにはいかにも絵画的に、エルサレム、あるいは教会が祝福と幸福の中に描かれ、反対に、神に背き神を侮っていたものに、神の裁きが行われる様子が描かれている。神は火の中、つむじ風の中、剣の中に、臨在を示し、裁きを行われるのだ。終末の日はクリスチャンにとっては待ち遠しい日だ。しかし同時に別の人にとっては恐るべき日なのだ。

「天のエルサレム」 イザヤ書 66章18〜24

離散のユダヤ人の帰還は、歴史の奇跡だと言われる。ここにはユダヤ人だけでなく、やがては真の神を信ずる異邦人も、世界中から集まってきて神を礼拝するようになると記してある。彼等は、時には祭司、レビ人の奉仕にさえ当るという。勿論、これは象徴的表現だ。またエルサレムとあるのも象徴で、黙示録と同じく新しい天のエルサレムのことだろう。真の礼拝、真の平和、真の共存、これが神の国の姿だ。これらはやがて地上に成就する預言だが、我々の祈りによって、今の家庭、教会にも、そのままこれを実現させたい。