館林キリスト教会

Contents

ショート旧約史 詩篇120〜150篇

「寄留者」 詩篇120篇1〜7

「あなた方はこの世では悩みがある」とキリストも仰せられた。「わざわいなるかな。わたしはメセクに宿り、ケダルの天幕の中に住んでいる」というのはその意味だ。自分は真実に生きたいのに人々はいつわりを語る。自分は平和に生活したいのに人々の争いにも巻き込まれる。これはいつでも世に住むクリスチャンの嘆きだ。だから「主よ早く再臨して世界を支配し、新しい世にして下さい」という祈りは、常にクリスチャンの口から絶えないのだ。

「旅人の詩」 詩篇121篇1〜8

「昼は太陽があなたを撃つことなく夜は月があなたを撃つことはない」とあるが、昼は順境を夜は逆境を示すと言われる。日射病は、心身虚弱で引っ込み思案の人などがかかる病気ではない。元気に委せて暑い日中に歩き回るような人が急に倒れるのだ。反対に、夜いつまでも淋しい月光にさらされていると気が変になるので、昔は狂人を月射病(ルナーク)などといった。これは暗い淋しい逆境の病気だ。神は我々をどちらの病気からも守って下さるのだ。

「教会の平安と栄光」 詩篇122篇1〜9

これは「都詣で(礼拝)の詩」と言われる。このように家族友人が「さあ主の家(教会)に行こう」と誘いあって集会に来るのは大きな喜びであり、祝福である。教会がもめるのでなく一致と平安に守られ、教会が寂れるのでなく祝福と繁栄に満たされるようにみんなで祈ろう。また「エルサレムを愛するもの」すなわち教会員のために、彼らの心身、生活、家族に「平安と栄え」が与えられるよう心を合わせて祈ろう。

「注 目」 詩篇123篇1〜4

何かに困った寂しい場面で、奴隷がその主人に向かい、女中さんがその主婦に向かって注目するのは、物にしろ慰めの言葉にしろ、何か与えられるの期待するからだろう。この詩はそれを歌っている。しかし別の時の彼らの「注目」は、喜んで主人に仕えようと待機して命令を待つ。彼らの忠実の現われであろう。我々も日夜、喜びにつけ悲しみにつけ、時には祝福や賜物を求め、時には奉仕のために命令を待って、祈り待ち望み主に注目しなければならない。

「臨在は救いである」 詩篇124篇1〜8

クリスチャンも世にあって迫害や困難に出会う。怒りを燃え立たせる迫害者。人を溺れさせる洪水のように押し迫る困難、鳥のわなのように捕らえようとする誘惑。ああもし主がわれらと共にいらっしゃらなかったら、弱いわれらはひとたまりもなかったであろう。しかし今なおこのように守られているのは「主の臨在のみが救い」だからである。

「平安と祝福」 詩篇125編1〜5

一連の「都詣での詩篇」を読むと、いかにイスラエル人が、彼らの平安と祝福のシンボルとしてエルサレムを愛していたかが思われる。山々がエルサレムを囲むように、神は我々と家族を囲み守って下さる。悪い勢力がこの町を侵略することを許さないように、主は我々を祝福して下さる。ああエルサレムよ。堅固にそびえ立つ城壁よ。栄光に輝く神殿よ。永久に平安あれ。これは今クリスチャンが、自分の教会、牧師、教会員を愛し祈るのとよく似ている。

「喜びの収穫」 詩篇 第126篇1〜6

亡国のイスラエルの長い苦しみと祈りが実って、シオン(エルサレム)の繁栄は回復し、教会の長い祈りと伝道の労苦も報いられ、多くの収穫が得られた。ここにその二つの喜びと感謝が歌われている。昨年の特別集会で我々はこれを経験した。しかし地上では伝道の収穫、結果を完全に見ることは許されない。やがて主の再臨のとき「彼らのそれぞれの労にしたがって」報いられるのである。そのなぐさめの時を夢見て、さあ今年も、伝道に、主の業に励もう。

「休息の祝福」 詩篇 第127篇1〜5

もし生活や成功が人間の勤労に正比例するなら、とても休んでなどいられないような気もする。しかし「不眠不休」は勇ましいが、それではたまらないし体も壊してしまうだろう。この詩篇に「主が祝福して下さらなければ人間の不眠不休の勤労も空しい」と書いてある。その反面人が眠っている間でも必要な糧は、主が備えてくださるのだ。「疲れたら休もう。彼らも遠くは行くまい」ツルゲーネフ。私はこの言葉が好きだ。摂理を信ずる者に安息がある。

「クリスチャンホーム」 詩篇 第128篇1〜6

ここにクリスチャンホームの祝福が描写されている。主人は丈夫で、正当な勤労の収入によって家族ともども満足し、安らかに幸福に暮している。奥さんはいつも美しく、贅沢は言わずに、ぶどうの木が豊かな実を結ぶように主人の収入を上手に切り盛りする。元気な子供たちが食卓の周りを囲むと本当にオリーブの若木のようだ。その人たちの集まる教会(エルサレム)も、やはり主の祝福のもとに繁栄している。なんとすばらしいことではありませんか。

「ペンペン草」 詩篇 第129篇1〜8

聖書に「正しい者は悩みが多い」と書かれている。正しいが故に損もし、世間一般の人からは締め出されて孤立する。場合によっては迫害を受ける。これはしばしばクリスチャンの悩みだ。しかし物事は信仰をもって長い目で見なければならない。やがてこの詩篇のように、罪人は枯れ果て屋根のペンペン草のごとくなり、哀れ刈り取ってみてもその空しいこと束にもならず手にも充たない。昔の威勢や大言壮語はどこに行ったのか、という小気味のいい結果だ。

「主を待ち望む」 詩篇 第130篇1〜8

洪水の時、水の中で何かにはさまれて自分では動けない人が、ただ救出を待つ姿をテレビで見ることがある。詩人も「深い淵から呼ばわる」と、苦しみの中で主を待ち望む祈りの態度を歌っている。すぐには見えてこない祈りの答えを、あくまで疑わずに忍耐して待つ姿なのだ。人の救助はしばしば失敗する。しかしよし遅く見えても、祈りに対する神の応答と救助は確実なのだ。

「キーキー言うまい」 詩篇 第131篇1〜3

人間は理想大志を抱き勇気をもって奮闘するのも大切だ。しかし分不相応な野心競争心のために眉を釣り上げ焦繰し、また完全主義の注文を自分につけすぎてイライラし、結局ノイローゼになり、病気にもなるというケースもなかなか多い。節度と、謙遜と、平安と。これもまた聖霊の実です。「信仰の平安」を失うのは神のみ心ではない。「ずいぶん頑張るがキーキー言わない。顔を汗だらけにしない」のは、クリスチャンらしくていいものだと思いますが。

「聖所の再建」 詩篇 第132篇1〜18

神の臨在の象徴として聖所の奥深くにあった契約の箱が、ペリシテに奪われ、やがて帰されたものの、イスラエルの辺境にほとんど放置された時代があった。これはイスラエルの衰微の象徴だった。国王として立てられ、国の指導に当たったダビデは、契約の箱のエルサレム鎮座と聖所の再建を夢にも忘れたことはなかった。これはその祈りの詩であって、ダビデの敬虔がよく現われている。聖所と礼拝の再建整備こそ彼の使命で、国家の祝福の象徴だったのだ。

「ヘルモンの雪水」 詩篇 第133篇1〜3

祭司アロンの任命式に、頭に香水が注がれる。香水は衣の細かい繊維の間を潤し流れ、その裾までが香る。またイスラエルでは今でもヘルモン山の雪水で全国を灌漑している。もちろん最新の技術と、巨大な土木工事のおかげだ。太い地下のパイプで運ばれる水はスプリンクラーで全国の農場を潤す。これこそイスラエルにとって命の水なのだ。そのように今家庭、教会に集まる兄弟姉妹が、いつも仲良く心を合わせて祈るならば、頭なるキりストに注がれている聖霊の水は全てのメンバーに洩れなくゆきわたり、恵みと力に満たすという。何と魅力的で力強い集合であるか。

「深夜の祈り」 詩篇 第134篇1〜3

人の寝静まった夜も当番の祭司は神殿に出勤し、徹夜で神に仕えまた人々のために祈る。我々も深夜目覚めて、人知れずなにくれと会衆のために祈ることがある。子供のことを思って夜もまぶたが合わず、涙して祈った経験はクリスチャンの親たちに多いだろう。また何か問題のあるとき、志のあるものが特に徹夜の祈り会を持つこともある。「主よ夜の祈りに答えたまえ。彼等をして主をほむるに至らせたまえ」この詩篇の作者は、そう歌っているようだ。

「主の選民」 詩篇 第135篇1〜21

宇宙と世界を造り、約束のみことばに忠実な真の神に選ばれた民族であることは、イスラエルにとって最高の誇りであり名誉だった。神はエジプトにおいて、また荒野の旅行とカナン侵入において、イスラエルを救うために多くの奇跡を現わして下さった。依然として偶像礼拝しか知らない異邦人に比べて何という特権であろうか。私達も同じく選ばれたものとして多くの祝福を経験してきた。イスラエルに負けないように、常に主に感謝、賛美を捧げよう。

「感謝の詩篇」 詩篇 第136篇1〜10

礼拝において祭司が「なになにをなしたまいし神に感謝せよ」と唱え、会衆が「主の憐れみは永久に絶えない」と唱和する。典型的な礼拝のための詩篇だ。「イスラエルの賛美の中に住みたもう者よ、汝は聖し」という言葉もあり、反対に「つぶやきは実行的無神論だ」とも言う。閉じ込められた牢獄も賛美の間に破れ、奇跡的に救いだされたパウロのケースもある。どうか常に賛美の中に主の臨在を拝したいものだ。

「主の選民」 詩編137篇1〜9

度々の背反のため神に裁かれたイスラエル人は、戦争に破れバビロンに捕囚となり、思いもかけず亡国の憂き目を見ることになった。異邦人の侮蔑にかこまれながら故郷を思って泣く彼らの歌は、いまも我々の同情をそそる。しかし彼らがバビロンで真実に悔い改めた時、神は彼らを捕囚の縄目から解放して本国帰還を許し、再びイスラエル建国の機会が与えられたのだった。本当に旧約聖書は人間の繰返しの背反と、神の寛容と許しの記録だといえるのだ。

「謙遜」 詩篇 第138篇1〜8

「主は高くいらせられるが低い者を顧みられる」とは繰返し示される真理だ。見るからに豪然と構える人もいる。人前には謙遜を装いつつ内心人を軽蔑し、ひそかに自ら高ぶる者もいる。しかし神は「高ぶるものを遠くから知られる」のだ。アウグスチヌスは「クリスチャンの基本的な人格は第一に謙遜だ。第二も、また第三も謙遜だ」といった由。

「神の偏在」 詩篇 第139篇1〜24

神様について勉強するのに、大切な一つの基礎的な真理が記されている、有名な詩篇だ。その真理とは「神の偏在」だ。[1-7節]には「偏在の神は我々のすべてを知り給う」という真理が、[8〜12節]には「神の臨在は我々の救いだ」という真理が、また[13〜18節]には「造り主として、我々自身とその生涯の全てを知り給う神」という真理が記してある。そして結論は[23,24節]。偏在の神の前に「我が心と、思いが清く、またわが行く道の正しからんことを」との祈りだ。

「感謝の詩篇」 詩篇 第140篇1〜13

セネカは「愛するルシラスよ。我にとりて生きることは戦いなり」といった。実業、政治、会社、学校などに限らず、すべてこの世界は食うか食われるかの戦場だ。近所の奥さんの蔭口でも場合によっては中々深刻だ。この詩篇は世の中の、つらい被害者の立場で読まないとピンとこない。我々でもこういうやりきれない被害者の祈りを神に献げる場面もあろう。神はその時こんな人間的な弱さにまみれた不完全な祈りも、憐れみによって整え聞きいれ給うのだ。

「唇の門番」 詩篇 第141篇1〜10

昔から「口は禍の門」などという。また「言葉に失敗のない人はほとんど完全な人格者だ」などとも言われる。実際、堕落してしまった人間には言葉の管理は難しく、つい失敗が多いものだ。しかも我々の正しい言葉が時には人を生かす光となり、反対に悪い言葉は人を殺す剣にもなる。それゆえ「私の口に門番を置いて、唇の戸を守って下さい」とは本当に良い祈りだと思う。

「マスキールの歌」 詩篇 第142篇1〜7

「マスキール」は「理解」また「教えの歌」の意味だそうだ。ダビデは理由なくサウル王に追われて逃げ回り、しばしば命さえも危険だった。いま止むなくアドラムの洞窟に身を隠したその有様は、さながら袋の鼠、風前の灯だった。しかしダビデには信仰、祈り、賛美があり、神によって何度も危機から助け出されて、ついにイスラエルの王となるに至ったのだった。この神の摂理の体験と理解こそ、彼の教えの根拠だった。

「落ち込む日々」 詩篇 第143篇1〜8

困難と迫害のために落ち込んだ詩人は「私はいにしえの日を思い出し、あなたが行われたすべてのことを考え、あなたのみ手の業を思います」と言っている。誰でも過去に困難や危険の経験は多く、またその時々の神の救いと助けも記憶している。聖書にも実例が溢れている。思い乱れて心が限りもなく落ち込む時に、それらを思い起こすのは信仰回復の道である。経験してきた多くの神の恵みを思い返し、信仰により、自分の「気を取りなおす」のは幸いだ。

「神の御威光」 詩篇 第144篇1〜11

私は若い時大きな罪を犯し、許されたことは信じたものの、その後同じ誘惑に勝てるかどうか、確信がなく勝利がなくて苦しんでいた。その時、ふと、この詩篇を読んだ。弱い、敗北感に捕えられた一人のクリスチャンを助けるために、神様が本格的に乗り出して下さるのだ。私はその時感極まって「神様、私は小さな者で、私の戦いも小事です。あなたがそんなに、本気で全力で乗り出して下さるなんて」と祈った。その時、確信と勝利が与えられたのだ。

「賛美の詩篇」 詩篇 第145篇1〜12

詩篇も最後の数篇になるとほとんど賛美の詩が連ねてある。感謝、賛美は主のみこころであり、また我々の霊的なカの根源である。賛美の中にエリコの城壁は崩れて勝利となり、ピリピの牢獄も破壊してパウロ、シラスは救い出された。「主を喜ぶことはあなた方の力である」これに反して「つぶやきは実行的無神論だ」などといわれるのだ。実にこの詩篇の3節にいうように「主は大いなる神で、大いに誉め称えらるべきです」われらの心も賛美で溢れよ。

「人間の無力」 詩篇 第146篇1〜10

「もろもろの君に、人の子に信頼してはならない」とある。君達とは王侯貴族、富豪、有力者。人の子は一般人間のことだろう。彼らの知偶、庇護、後援はいかにも心強いが、しかし彼らもやがて死ぬ。死なないまでも有為転変、いつ急に失脚し落ちぶれ、当てにならなくなるか分からないのは、歴史の中に、また目前の政治世界などに明白だ。

「天地の詩篇」 詩篇 第147篇1〜20

ここに歌われているのは自然界の詩である。神は天を星で飾り、大空の雲の中から四季折々に、雨、雪、氷、を降らせる。春風が吹けば、野辺には水が流れ草が生え、畑には麦も熟す。猛獣も、人も、小がらすも神の養いによって満ち足りる。しかも天地を支配なさる神は優しく「心の打ち砕かれたものを癒し、その傷を包まれる」のである。われらもダビデのように神を崇めよう。

「全宇宙の賛美」 詩篇 第148篇1〜14

あるギリシャの哲学者は「全宇宙は調和しているから、哲学者には宇宙の妙なるハーモニーが聞こえる」と言った。しかしこの詩篇の作者の耳には、全宇宙に響き渡る賛美の声が聞こえるのだ。天使も万軍も、天体も、鳥も動物も植物も、雪も露も雨も、王侯庶民、老若男女、言葉を極めて神を賛美するとは、何とすばらしい宇宙の歌、音楽だろう。しかしそれは、主の再臨の後の宇宙だ。

「正義感」 詩篇 第149篇1〜9

[6節]の「そののどには賛美、その手には剣」というのは厳しい表現だ。しかしやがて主の再臨、神の国の出現のとき、主の民が立てられて主と共にその裁きを執行することは、聖書に記された予言である。多くの弱い者を虐げ殺し、権勢と栄華に誇った圧政者、理由なしに多くのクリスチャンの血を流した迫害者が、やがてその刈り入れの時を迎えるのは当然だ。これはある意味でクリスチャンの正義感の詩篇なのだ。

「昭和48年11月」 詩篇 第150篇1〜6

交読を「創世記一章」から始めたのが昭和48年11月。解説「今日の交読文」を載せ始めたのが51年3月だ。60年4月から続いた詩篇の交読は今日終る。私も会衆も聖書の順序に従って毎週一章ずつ、大意は勉強しているわけだ。ところがマラキ書まで301章あってあと5年半かかる。でもまあ私の死ぬ前には解説と共に旧約は終わりそうだ。新約はどこまで行けるだろうか。