館林キリスト教会

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ショート旧約史 エレミヤ記31〜45章

「喜びの帰還」 エレミヤ書 31章7〜14

ここに記されたイスラエル人帰国回復の予言は、ペルシア王クロスの解放令の時ひとまず成就した。彼等はエズラたちに先導されて、喜び勇んで本国に帰還した。しかし第二次大戦後イスラエル共和国が建国し、ナチスなどの殺戮から生き延びたユダヤ人が、船で飛行機で徒歩で、全世界から喜々として集まってきた壮観は、その時代を知る者には忘れがたい出来事だった。しかしまだイスラエルの本当の回復は成就していない。多くの予言と同じく、これもその完全な成就は、キリスト再臨の日まで待たなければならないのだ。

「ラケルの嘆き」 エレミヤ書 31章15〜22

エレミヤの言葉は、子孫のイスラエルが外国に捕囚になって、ベツレヘムも空っぽになったのを、この地の先祖ラケルが嘆くだろうということだ。後の時代、キリストがお生まれになった時に、猜疑心の深いユダヤ王ヘロデは、将来油断のならぬライバルになると思い、赤ちゃんのキリストを殺そうとして、念のためにベツレヘムの嬰児十数人を虐殺した。その時マタイは、ここの「ラケルの嘆き」の節を引用した。ヘロデ王の、むごたらしいベツレヘムの嬰児虐殺は、再び先祖のラケルを嘆かせたろうと、マタイは記したのだ。

「旧約と新約」 エレミヤ書 31章31〜37

ここにエレミヤは、やがて神によって立てられる「新しい契約」について予言する。すなわち「新約」のことだ。これに対して古い契約を「旧約」と呼ぶ。新約においては旧約と違い「神は人の罪を完全に許す」「律法は儀文でなく、みことばと聖霊によって人の心に銘記され、実行可能になる」「クリスチャンは旧約のイスラエルよりも確実に、神の民となる」というものだ。この予言はヘブル書8章にも引用されて「新約とは何か」の解説に用いられている。これは一つの奥義で、短文で説明するのは難しい。ぜひこの機会に改めて、勉強して欲しいと思います。

「土地権利証」 エレミヤ書 32章1〜15

国が滅亡し、王も国民も外国に捕虜として連行されようという、敗戦の混乱の中で、土地などを買っても仕方がない。しかしエレミヤは大金を払って土地を買った。そしてきちんと規則通りに権利証を作成して保存した。彼はこの象徴的な行為によって、一度は滅びることがあっても、神がイスラエルを永久に見捨てることはない。国は再びかならず回復するという予言を実行したのだ。エレミヤが敗戦を予言するのを怒って、ゼデキヤ王はエレミヤを逮捕した。しかし真にイスラエルを愛しそのために祈り、神様から、この国の未来の回復の啓示まで受けたエレミヤこそ、真の愛国者と言わねばならぬ。

「熱意の預言者」 エレミヤ書 33章1〜11

「預言者」は、人々に語るために神のメッセージを委託された人物だ。また「預言者」は、未来のことをあらかじめ予言する人のことだ。エレミヤは、「預言者」として、神に代わって切々と当時の人々に訴え、悔い改めを勧めた。しかし彼等がこのメッセージに従わず罪の生活を改めないので、やがて「預言者」として、将来の裁きと滅亡を予言することになったのだ。いまエレミヤは捕らえられているが彼のメッセージは捕らえられない。依然としてイスラエルの滅亡と、神の恵みと愛による、その未来の回復を語ってやまない。我々も彼の熱意を学びたく思う。

「主はわが正義」 エレミヤ書 33章14〜26

ここに「ダビデのために一つの正しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行う。その日ユダは救いを得、その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」とは勿論キリストの予言である。ユダヤ人であると異邦人であるとにかかわらず、救われた者はすべて「キリストにあって神の前に義とされた」のだから。またエレミヤは、神がアブラハムとの契約に忠実なのは、昼と夜の契約と同じだと言う。昼夜の循環が変わらない限り神の約束も変わらず、一時イスラエルの罪を裁かれても彼等が永遠に捨てられて、アブラハムヘの約束がすたることはないと語る。

「予言の保証」 エレミヤ書 34章1〜7

聖書の予言には、世界の終末キリストの再臨などの大予言と共に、短期間に成就する身近な予言もある。それは将来の大予言の成就を保証する、サンプル、手付のような意味を持っている。いまゼデキヤ王に与えられた予言もそれだ。戦争には負け、戦敗国の王として戦勝国の王に屈辱的な対面をする。その時戦争の責任を問われ、一族もろとも殺される恐怖を抱くだろう。しかし不思議に彼は死を免れてエルサレムに戻り、天寿を全うして死に、りっぱな葬儀も執行される。この予言は不思議に成就した。本当にこれらの記録は未来の大予言成就の、信仰の保証だ。

「奴隷解放令」 エレミヤ書 34章8〜17

昔エジプトで奴隷の境涯に泣いたイスラエル人が、今は富強になったからとて他国人を奴隷にして使役するのは良くない。故にこれは神の禁ずるところであった。しかし不従順なイスラエルはいつかこれを無視して国内に相当数の奴隷がいたようだ。いま国の危機に当って有力者の間にも反省が起こり、奴隷解放が実施された。しかし解放はしたもののその損失と不便さに負け、また国の滅亡もすぐではないらしいので油断し、解放令は間もなく取り消された。エレミヤはその軽薄不信を怒って、ここにまた強烈な預言を語るのである。経済的影響の多い律法の実行怠慢は、決してこれだけではなかった。

「禁酒とテント」 エレミヤ書 35章1〜17

レカブ人はある事情でイスラエルに寄留している少数他民族だ。彼等は先祖の教えを守って今でも禁酒とテント生活を続けている。彼等に比べてイスラエルはどうだ。神から受けた先祖以来の律法を捨てて顧みず罪と堕落の中に落ち込んでしまった。エレミヤはここで、禁酒の命令と習慣、およびアブラハムやレカブ人たちの、富にも土地にも執着せず、テント住まいに満足している敬虔な生活を模範として指摘している。我々クリスチャンも当然彼等の生活を見習わなければならないのだ。

「書かれた説教」 エレミヤ書 36章1〜10

神様のご命令によって次第に聖書が書き記されてゆくようすが「出エジプト記、17章」にも、またこの章にも記されている。エレミヤはメッセージを語るように命じられると同時に、書き記し、聖書として残すように命じられたのだ。これはたぶんパピルスに書かれた口述筆記だが、すでに文書化のひとつの利点が現れている。彼の代理人による朗読の形で、エレミヤのメッセージが語られたことだ。これを多く書き写せば、さらに広い範囲に大切なメッセージを伝えることができる訳だ。

「光を憎む」 エレミヤ書 36章11〜26

エレミヤは主の命ずるままメッセージを書物に書いた。バルクは同じく命のままにこれを全ての民の前で読んだ。ある者はこれを聞いて主の光を受けたろう。しかし王をはじめ権力者の態度は違った、彼等は神の言葉の光によって、その罪と失政が人々の前に明らかになるのを恐れた。王はたちまちこの書を切り裂き焼き捨てたのである。新約に「悪を行っている者はみな光を憎む。その行いが明るみに出されるのを恐れる」とあるとおりだ。昔武田信玄は父親を追放した。そのため彼は親孝行の教えが書いてある論語を、一生避けて読まなかったと伝えられている。

「聖書の迫害」 エレミヤ書36章27〜32

エレミヤの書いたメッセージはすぐ王によって焼き捨てられた。彼は直ちに神の命によって同じ書を造った。いったい世の中に聖書ほど迫害された書物はない。と同時に聖書ほど迫害、抹殺に耐えて生き延びた書物もない。フランスの啓蒙学者ボルテールは「聖書の教えは古く、次の時代には生き残らないだろう」と予言した。しかし次の時代にはもとの彼の家は聖書協会になったという。本当にキリストが「天地は滅びるであろう。しかし私の言葉は滅びることがない」と言われた通りだ。いよいよ神の言葉に信頼してゆこう。

「小手先き細工」 エレミヤ書 37章1〜10

イスラエルに勝ったバビロン王ネブカデネザルはここを属領とするため、占領軍を配置しゼデキヤという「かいらい王」を立てた。この状況を見て、自国の北方が脅かされると感じたエジプトが出兵する。警戒したバビロン軍は用心のためとりあえずエルサレムから撤退を始めた。「さあこれでバビロン軍は引き上げ、イスラエルは再び自由になるだろう」とは浅はかな読みだ。エレミヤは警告する。「希望的幻想でエジプト軍を歓迎し協力すれば、バビロンの怒りを買いもっとひどい攻撃を受けるだろう」と。悔い改め抜きに助かろうという小手先き細工はだめだ。

「バビロン派」 エレミヤ書 37章11〜21

東方にバビロン、南方にエジプト、二大強国に挟まれたイスラエルには、エジプト派、バビロン派があって、その国に依存し服従するを良しと主張し争っていた。エレミヤはその言動からバビロン派と見られていて、いまバビロン軍侵攻に先だってエルサレムを脱出し、バビロン軍に投ずるのではないかとの誤解から、留置されるに至ったのは気の毒だった。幾分気の弱くなったゼデキヤ王は個人的にエレミヤの話を聞いた。結局エレミヤはかねての警告を繰り返すのだったが、王はエレミヤの保護のために彼の留置を継続した。

「優柔不断」 エレミヤ書 38章1〜13

ゼデキヤ王は、バビロンによって便宜上立てられた「かいらい王」だけに、優柔不断を絵に書いたような人物だ。本心ではエレミヤをいじめたくはないのに、有力者が強要すればエレミヤの逮捕、虐待を許す。別の人が反対の忠告をすれば今度はエレミヤを助ける。こんな権力者に運命を握られているとすれば、本当にエレミヤは気の毒だ。しかし1羽の雀も、我々の髪の毛一筋も主のみ心でなければ落ちない。エレミヤは摂理のうちに生き延びて、エルサレムの陥落、滅亡を目撃するのだ。

「許しと罰」 エレミヤ書 38章14〜23

神様は悔い改めた者の罪を許す。しかし二度と罪を犯させぬ懲らしめの意味もあって、生活の中で罰を課せられることもある。我々は悔い改めとともに甘んじて主の罰を受け、これによって悔い改めと服従の態度を明らかにしなければならない。主の裁きの使者であるバビロンに、いさぎよく降伏せよというエレミヤの勧告はその意味なのだ。へりくだったゼデキヤ王は一応その勧告を受け入れたようだ。エレミヤは王の生命の安全を予言した。王はバビロンの捕虜となり、悲惨な経験をしたが結局殺されず天寿を全うした。

「げすの勘繰り」 エレミヤ書 39章1〜14

世の中は人心が複雑だから、純粋ということを理解できない。いわゆる「げすの勘繰り」をやり、また勝手に組分けをしたがる。いずれも本人は知らぬことだ。エレミヤのバビロン降伏勧告の主意は、神のみ心から出た純粋なもので、それは前回の交読文に書いた通りだ。彼がどうして、政治的売国奴の「バビロン党」なものか。しかし彼はこの誤解のため、同国人のえせ愛国者に迫害された。いまエルサレム陥落に当って、今度は反対にバビロン側の誤解から、敵国に保護優遇されることになった。どちらもエレミヤにとっては、ありがた迷惑な次第だった。

「少数遺残者」 エレミヤ書 40章1〜12

エレミヤは釈放され自由を与えられ総督ゲダリヤに従うこととなった。バビロン人は多くのユダヤ人を捕虜として連れ去ったが、彼等は残された人々、すなわち弱者や貧民のために、ゲダリヤを総督として任命したのだ。全地に散らばっていた人達が次第に彼の許に集まって、それなりの秩序と生活が始まった。ゲダリヤやエレミヤは、続いて彼等に、バビロンに対する恭順を勧め、バビロン当局との間を調停し、少数遺残者の生活が成り立つように尽力した。しかし、この哀れな状況の中でも、憎むべき野心家や策士が活動を始める。結局彼等のために、この貧しい一時の平和も、破られることになる。

「流血事態」 エレミヤ書40章13〜16

イスラエルは神に背いた罰のためバビロンに滅ぼされ、人々はみな捕虜として連れてゆかれた。バビロン王はわずかに本国に残された貧民や弱者のために総督としてゲダリヤを立て、彼等の細々とした生活が始まった。しかし無防備の彼等を、アンモン王はイシマエルを派遣して支配しようとするし、ヨハナンたちは先手を打って彼を殺してしまえと忠告する。穏健なゲダリヤはこれを断るが、結局再び流血の惨事が起こる。人間とは仕方のないものだ。

「狼の侵略」 エレミヤ書 41章1〜18

キリストは「死骸のあるところには鷲が集まる」と言い、小泉信三は「(防衛力のない)真空は侵略を招く」と言った。今真空状態のイスラエルは、早速狼のようなアンモンの将軍イシマエルの襲う所となり、空しく殺され奪われねばならなかった。先にゲダリヤに忠告したヨハナンはイシマェルに報復しようとしたが間に合わない。危険を感じた彼は、助けた人々を連れてエジプトに逃げようとする。しかしエジプトは安全だろうか。実は預言者エレミヤも彼等の中にいたのに、彼等はいまやっと、預言者の指導を求めるのだ。

「裁きに従え」 エレミヤ書 42章1〜17

エレミヤは内外から「バビロン派」と目されていたから、バビロンに行けば優遇されたのだが、イスラエルに対する使命感のために依然として遺残者の中に留まり、しかも無視されていた。困惑してエジプトに逃れようとする人々は、ようやくエレミヤのところに来て、祈りと神の導きを求めた。エレミヤに示された神のみ心は「エジプトに逃れてはならぬ。この地に留まれ」というものであった。人間的な工作を止めて、神が立てられた裁きの器のバビロンに従うことが、神の裁きに服することになり、そこにのみ許しと回復の道がある。今も神の導きは、従来からのエレミヤの持論どおりだったのだ。

「象徴的大石」 エレミヤ書 43章1〜13

しかし彼等はエレミヤの勧めに従わなかった。彼等は最近まで、バビロンの攻撃を避けて逃げ延びた兵隊崩れだ。あるいは捕虜にする価値もない遺残者だ。あるいはすきを伺って逃げてきた脱走者だ。しかも依然としてわずかな野心と誇りにこだわって、エジプトに行きさえずればバビロンから、つまり神の裁きから逃げられると思い込んでいる。エレミヤはエジプトの町タパネスで、バビロン王の襲撃、つまり神の裁きはここまで彼等を追求することを預言した。強大国エジプトも神の裁きの障壁にはならない。エレミヤは象徴的な大石を、預言の後日の証とした。

「エジプトの神」 エレミヤ書 44章1〜14

エレミヤの勧めに従わないでエジプトに移住したユダヤ人たちは、一応ミグドル、タパネスなどの各地に分散して居住した。しかも彼等は性懲りもなく先祖の罪を繰り返し、エジプトの神々に香をたいていたのである。エレミヤはユダヤ人に、国が滅ぼされた理由を反省せず、その教訓を学ばず、なぜまた同じ罪を繰り返すのかと警告する。いまやエルサレムが先祖の罪のために廃墟となっているのに、わずかに残された遺残者まで、異郷のエジプトで同じ罪のために滅ぼされるというのは、何という悲しいことであろうか。

「屁理屈」 エレミヤ書 44章15〜23

エジプトのユダヤ人は、屁理屈をこねてあっさりエレミヤの勧告を断った。神を愛し従う者には、神の怒りと祝福は歴然だが、悪魔は人の心をくらまして、罪を恐れず神を疑うようにしてしまうのだ。今でも「私はクリスチャンでなかった頃にも、無事に暮らしていた。クリスチャンになった今も、そんなに幸福だとは言えない」「自由に生活するノンクリスチャンだって、結構うまくやっている」などと、悪魔は不信仰を人の心に吹き込む。「私は神から豊かな祝福を受けた。今、み心なら災いをも喜んで受ける」と言ったヨブのように、立派な聖徒もいるのだが。

「神様ぎらい」 エレミヤ書 44章24〜30

エレミヤの勧告を無視してエジプトに移住したユダヤ人は、続いてエレミヤを通して語る神に徹底的に反抗する。国を失った彼等はそれが自分の罪の結果であることを反省せず、真の神を嫌い、今度はエジプトに繁栄と祝福を与えているように見える、エジプトの神々に仕えるつもりなのだ。「ではエジプトの神々に立てた誓いを成し遂げなさい。わたしの言が立つか、彼等の言が立つか。神は裁きによって明らかになさるだろう」とエレミヤは告げる。

「忠実な秘書」 エレミヤ書 45章1〜5

バルクはエレミヤの忠実な秘書としてその預言の言葉を記録し保存した。さて彼はどんな報酬を得たか。主はエレミヤと同じく彼にも「苦しみ悲しみ」を与えるだけだった。神様ご自身が、自ら建て植えられた愛するイスラエルに、裁きを与えなければならない悲しみの中にあったからである。英国首相チャーチルが戦時中、英国民に向かって「わたしがあなたがたに差し出せるのはただ血と労苦と涙と、そして汗だけだ。英国の勝利のために」と言った演説は有名だ。我々もエレミヤ、バルクたちの犠牲によって、これらの貴重な聖書を読むことができるのだ。