館林キリスト教会

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ショート旧約史 詩篇80〜119篇

「み顔のひかり」 詩篇80篇1〜19

「み顔の光によってわれらをもとに返して下さい」が二回繰り返されて、この詩のテーマであることを示している。今我々の教会が、この詩篇のイスラエルのように主の祝福を失い、特に不振だとは言わない。しかし毎週木曜日に勉強している使徒行伝の教会の姿などを見れば、謙って「我々をもとに返して下さい」と祈らなければならないのを感ずる。かつての教会の栄光、新しい教会の栄光の為に祈り求めて行こう。

「口を広くあけよ」 詩篇81篇1〜16

私は若い時から気が弱いので集会のお祈りができなくて本当に困った。殊こ聖会などではそうだった。その時しばしば牧師から示されたのは、20節後半の言葉だった。どうも苦しかった。しかしこれが案外、謙遜、真実、信仰、告白、勇気などの霊的な勝負に繁がり、この単純なことが、実は信仰生活の秘訣の一つだということも分かったのだ。

「神々の裁き」 詩篇82篇1〜8

詩篇の中で最も難解な一つだ。わたしは1節の「神々」を「罪ぴとの世が弱肉強食に陥らぬように守り、人民を指導保護するため、神から大権を託された政治権力者」と見たい。もし彼らが権力を、弱いもの貧しいもののために用いず、自分の利益に悪用するならば、彼らには地上においても未来においても、常人以上に手痛い神の裁きが待っていることを覚悟せねばならないのだ。

「神の沈黙」 詩篇83篇1〜18

クリスチャンでも時々は、いくらお祈りしても中々答えられず、神がクリスチャンの苦しみをいつまでもただ見ていらっしゃるような気がすることがある。ある神学者はヨプ記のことを書いた本に「神の沈黙」という題をつけた。ヨブも苦難の日々の間何回も「神様、なぜ黙って見ておられるのですか」と悩んだに違いない。しかし先日学んだように彼も最終的には「神の恵み深い」ことを知ることができたのだ。祈りと忍討とは共にクリスチャンに必要だ。

「神の家の門番」 詩篇84篇1〜12

私はクリスチャンになった少年の頃、それまで面白かったところは急に魅力を失い、ただただ教会にのみ入りびたっていた。それゆえ「悪の幕屋にいるよりは、神の家の門番」が良いというこの詩篇の意味はすぐ理解ができた。これはいつでもクリスチャンの心情で、なぜ以前はあんな不潔、低級な場所が楽しかったのか不思議なくらいだ。足をきれいに洗った者にとっては、もう世の泥水は汚くて魅力はない。とてももう一度そこで足を汚す気にはなれぬ。

「リバイバル(再生)」 詩篇85篇1〜13

我々が今集会で使っている「聖歌」は、以前は「リバイバル聖歌」と言っていた。この詩篇の「われらを再び生かされないのですか」などからとった言葉だが、この言葉も今は以前ほどはやらない。しかしわが教会では来年秋に羽鳥先生を迎えて特別集会が計画され、一年間を、教会を挙げた徹底的伝道に捧げたいと祈っている。われらの教会にとって、本当にリバイバルの年になるように今から祈って行きましょう。

「真理の歩み」 詩篇86篇1〜17

車を運転して出かけるときに道を良く知らないのは本当に心細い。もし誰かも親切丁寧にに教えてもらうといかにも心強く安心だ。11節の「あなたの道を教えてください」というのは、人生そのものの道、また神のみ心の道を知るための祈りで、若者には特に大切だ。同時に一家の主人が家族と共に祈る大切なポイントだと思う。家族共に心を合わせ主を恐れて生活するために。

「家族の登録」 詩篇87篇1〜7

6節に「主が諸々の民を登録される時『この者はかしこに生まれた』と記される」。とあるのは「エジプト、パピロン、その他どこの異邦国で生まれたものでも、教われた時には『シオン=神の国』に生まれた者、即ち『シオンの市民』として登録される」という意味だ。我々も生れた場所も家庭も様々なのに、救われて教会に加えられてみると、まるでここで生れた一家族のようだ。兄弟以上に仲良く一致し助け合って主に仕えるのは本当にすばらしい。

「悲しみの歌」 詩篇88篇1〜13

この歌を作ったエズラ人ヘマンについては誰も知らない。マスキールは教育になる歌のことだそうだ。ただマハラテ・レアノテが作曲して、聖歌隊の指揮者の指揮のもとに、コラの子(グループ)が合唱したことは分かる。この詩は詩篇のなかで最も悲しい、望みも救いも見当らない歌だといわれる。ライ患者の歌のようだ。十字架上のキリストの歌のようでもある。それがすなわち、最も深い人生の教訓の歌なのだ。

「ダビデの子孫」 詩篇89篇1〜12

神様は罪を犯したアダムとエバに「その子孫の一人に救い主を与える」と約束された。アブラハムがイスラエルの先祖として召されると「救い主はその子孫に」と約束は限定され、次にダビデが王として召されると、この詩篇のように「救い主は彼の子孫に」と約束は次第に限定された。ルカ2章に記されたように、ヨセフ、マリヤともダビデの子孫であることを思えば、神様のお約束の成就は本当にすばらしい。

「牧師の古希」 詩篇90篇1〜12

牧師もいよいよこの3月で、中国の詩人杜甫が「人生七十古来希なり」と歌い、この詩篇でも標準となっている古希を迎える。牧師は神の憐れみ、会衆の折りと支持によって元気で、なお暫くの奉仕が許されそうだ。どうぞ献身者奉仕者として終わりを全うできるよう、また時にあった的確な出処進退においても証を全うできるよう、牧師と教会の、「おのが日を数える知恵の心」のためにも祈って頂きたい。

「めんどりの羽」 詩篇91篇1〜16

これも一つの「旅人の詩」で、神の様々な保護が、形容のかぎりを尽くして歌われている。人生は、昼は歩き夜はテントに寝る昔の砂漠の旅行に似ている。そのコースには盗賊の襲来、飛来する矢、戦争、疫病、事故、ライオン、毒蛇、あらゆる危険が横たわっている。神はめんどりがその温かい羽の下に雛を守るように、我々を守って下さる。しかも主の救いと、主の臨在と、主の教えと、長寿と、光栄をもって我々を満ち足らせて下さるのだ。

「神殿ストリングス」 詩篇92篇1〜15

「十弦の琴」はアソールといい、いとすぎやびゃくだんなどの木を組立て、羊の腸の弦を張った一穂のリラ。「立琴」はキノールで、ダビデがサウル王の前で奏でた小型の琴だ。「琴」は大型のハープで、低音が良く出たといわれる。この詩篇は吹奏楽器をいれないで、弦楽器の演奏で歌われたのかもしれない。エルサレムの神殿では安息日の礼拝ごとに、これらの楽器の合奏によって神様に賛美の歌が捧げられたのだ。

「威光の衣」 詩篇93篇1〜5

垂れ込める密雲。激しい雨。恐ろしい雷鳴、電光。果てしなく広く、また時には狂 怒涛の渦巻く海。ある場合これらは「神の威光の衣」である。人はこれらによって神を恐れ、また同時に神を崇めるのだ。神がヨシェアを雷火とひょうをもってお助けになり、宗教改革者のルターが道で雷雨に会い、親友が撃たれて即死するのを見て、その恐怖から悟仰に志したのも有名な話だ。

「社会正義」 詩篇94篇1〜15

世に「社会正義」が行なわれず、いわゆる「悪い奴ほどよく眠る」状態は、昔から人間共通の悩みだ。しかし我々クリスチャンはこれにもあまり深く心を煩わせない方がいい。長い目で見ると、いわゆる「天網かいかい、粗にして漏らさず」で、案外神の正義は地上でも行なわれる。また終末再臨の日には、すべての事実は明らかになって裁きが行なわれ、神の正義は全うされる。「裁きは神に委ねよ」とはそのことだ。

「礼拝の詩」 詩篇95篇1〜11

高い山、深い谷。広大な海、荒涼たる砂漠。それらを造られた神を拝するのが礼拝だ。その時われらの祈りは教会に閉ざさされず、宇宙の神に昇って行く。しかもこの神はわれらの牧者だ。それゆえわれらの思いは今日の生活の現実に拘束されず、信仰をもって牧者なる神を見上げる。また礼拝において神はわれらに語りかけ、われらは「神の声」を聞くのだが、その時「神の声」に対してわれらの心は頑なでないように。

「再臨の詩」 詩篇96篇1〜13

「主は来られる」「主は王となられた」そして「天は喜び地は楽しむ」13,10,11節これらの言葉で、主の再臨の詩であることは一目瞭然だ。その時「新しい歌を主に向かって歌え」「聖なる装いをして主を拝め」1,9節。などの天使たちの声は世界に響き渡るのだ。何とすばらしい勝利と自由に満ちた礼拝の朝だろう。このはっきりした未来の希望こそが、あらゆる試練の中で,クリスチャンの信仰を最終的に支えるカなのだ。

「心の王位」 詩篇97篇1〜12

「主は王となれらた」という句で始まるこの詩篇も、テーマは主の再臨だ。と共に我々の心の王座に主をお迎えする意味にも読める。救われる前の我々は、神様を締め出して、自分と自分の欲望を心の王座につけていた。しかし救われたとき初めて主を心の王座にお迎えすることができた。そしてその時から、「正しき人よ、主によって喜べ」といる、すばらしい新生活が始まったのだった。

「義の勝利」 詩篇98篇1〜9

「主は勝利を得られた。その義をあらわされた」主の敵はサタンでありまたサタンから出て人を滅亡に落す罪である。神は罪人を義とし滅びを免れさせ、祝福を与えて下さるが、もしそれだけだったら、神は罪に対してルーズで人間に対しては甘いといわれるかも知れない。ロマ書3章に、キリストの十字架によって神は罪人を義とし、また同時にご自身の義をも全うせられた、とある。これこそが主の真の勝利なのだ。

「祈りの勇士」 詩篇99篇1〜9

ここに指導者モーセと祭司アロン、士師サムエルと3人の人物が挙げてある。いずれも神に仕え、祈りにカある人物だったことは「彼らが主に呼ばわると、主は答えられた」とあるのを見てもわかる。彼らは自分のためでなく、イスラエルの運命をいつもその双肩に荷ない、執り成し手として主の前に立ちふさがっていた。神は常に彼らの祈りに答え、イスラエルに祝福を注いで居られた。実に彼らは主の知己だったと言える。本当に光栄ある3人だと思う。

「奉仕と喜び」 詩篇100篇1〜5

「喜ぴをもって主に仕えよ(2節)」。熱心な奉仕者と話し合うとき、いつも聞くのは「教会の無報酬の奉仕は、会社の仕事と違って不思議な喜びです」という言葉だ。自発的で自由な、喜びに溢れたその奉仕こそ、主のみ心であり、また主がこの地上にみ業を行うために、強く期待したもう教会の力なのだ。こ れが即ち「主ば教会の頭で、教会はその手足だ」と言われるゆえんだと思う。

「主の公義」 詩篇101篇1〜8

「私は直き心をもって、家のうちを歩きます」ダビデは一家の家長であり、岡時に一国の王であった。神に代わって一家、一国に「主の公義」を行うのが彼の務めだったのだ。それ故、家の中の個人的な生活でも、神の前に謹みと正しさをもって行動し、その身をもって家族にも国民にも「主の公義」を示すように心がけたのだった。「上のなす所、おのずから下これに習う」といわれる。父たる者、指導者たる者の責任は重いといわなければならない。

「落込みの祈り」 詩篇102篇1〜18

作者は落ち込んだ時にこの詩篇を作ったようだ。だから落ち込んだ時にこの詩篇を読むとそれだけで慰められる。なぜなら、それは自分の心境を偽らず飾らず神の前に申し述べた祈りだからだ。「心の低いものとともに住みたもう神」は、この祈りに耳を傾けるられる。そして折りは次第に信仰の励ましに導かれ、最後には「主を誉め称える」に至るのだ。詩篇は実に賛美と祈りの聖書だ。しかもその中に、苦しい祈りと賛美が多いと言われるのもまた本当だ。

「賛美の詩篇」 詩篇103篇1〜14

「落込みの詩篇」の後に「賛美の詩篇」が続くのもみこころだ。「さあ神を賛美しよう」と自分に呼びかけ自分を励ますこの有名な詩篇は、いつ読んでもすばらしい。「イスラエルの賛美の中に住みたもう神」という言葉もあり「主を喜ぶことは汝等の力なり」という言葉もある。賛美は我々の魂のカ、そしてサタンに対する勝利の力なのだ。これに対して「つぶやきは実行的無神論だ」などと言われるのも、尤もだと思う。

「自然界の歌」 詩篇104篇10〜31

これは自然界の壮大な美しさを歌った最高の詩だ。神の造られた山や野、空や海に、神の養い守られる生物が満ち満ちて、それぞれ喜々として生活している。何とすばらしい世界だろう。神は花を咲かせまた散らし、生物は生まれ生活しやがてその生を終わって行く。彼らは神の摂理の中で、思い煩うことなく逆らうことなく、感謝と賛美に明け暮れつつ、日々を豊かに生きている。自ずから「空の鳥、野の花を見よ」という、キリストの言葉も思われるのだ。

「契約の神」 詩篇105篇1〜15

これは「神がいかにその約束を忠実に守りたもうか」ということを、イスラエルの歴史の回顧によって確認する詩である。アブラハムを始め先祖たちは一片の土地も持たぬ遊牧民として、カナン、エジプトの間に放浪した。弱く心細いその日々、神はご自身のお約束通り忠実に先祖たちを守りたもうた。その神の恵を思う時に、いつでも我々の信仰と勇気は新しく回復するのだ。

「失敗の歴史」 詩篇106篇1〜23

イスラエルの歴史は、ある面では失敗と忘恩、また神の憐れみと許しの歴史だ。この詩は丁 にその事実を歌っている。それ故真に聖書を読むイスラエル人は決して民族的優越感や選民意識を持つはずではなかった。彼らに謙遜な悔い改めを勧めた、ヨハネ、キリスト、ステパノなどを、プライドにこだわって殺したユダヤ人は、実は聖書に対して盲目だった。そしてその高慢はついに国を失わせるに至ったのだった。

「五つの歌」 詩篇107篇17〜31

この詩篇は「どうか彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみ業とのために、主に感謝するように」という折り返しによって区別される五つの歌からなっている。交読される部分は、病気と死の恐れ、また海で操業する漁師たちの、恐しい遭難からの救いが歌われている。生活のために止むを得ず危険な仕事に当る者もいる。しかしそれを避けて安全な家にいたとしても病気には襲われる。誰でもいつでも常に主の保護を祈る必要があるのだ。

「再臨の備え」 詩篇108篇1〜13

「我が心は定まりました。私はしののめ(明け方の空)を呼び覚まします」というのは、主の再臨を迎える準備が整った魂の歌だと昔から言われる。神を信ずる者でも再臨の時主にお目にかかることを思えば、恐れと恥を感ずる。しかし心と生涯の準備のできた詩人は、キリストにお目にかかる光栄と愛と喜びと期待に心燃え、祈りによって証によって、あるいは伝道によって、むしろ「再臨の日を早める」努力をするのだ。「アアメン主よきたりたまえ」と。

「呪いの詩篇」 詩篇109篇1〜15

世のなかは混乱を極めて、所謂「石が流れて木の葉が沈む」「善人は若死にする」ような現実がいかにも多い。そういう世の中で横暴な者の被害を感ずる人が、自分には神の恵を求め彼らには神の裁きを訴えるのも正義感の表われである。この詩篇に旧約特有の「呪いの言葉」が多いのも、その心境の結果なのだ。やがて新約の啓示において初めてキリストの「あなたの敵を愛し、彼のために祈れ」という崇高な修正と、教えが与えられることになるのだ。

「救い主の予言」 詩篇110篇1〜7

(1節)はキリストの復活の予言として使徒行伝2章に、(4節)は復活昇天後のキリストの執り成しの祈りの予言として、ヘブル書7章に引用されているなど、これは救い主を予言する有名な詩篇だ。また(2、3節)にはキリストの再臨の栄光と世界のご支配が歌われている。昔も今も神を信ずる者にとって、何と心踊る詩篇だろうか。

「知恵の始め」 詩篇111篇1〜10

「主を恐れることは知恵の始めである(10節)」という言葉はすばらしい。日本人は「学校マニヤ」といわれるくらい勉強が好きだ。あらゆる学校、教育機関は完備し教育産業は途方もないスケールに膨れ上がっている。その結果原子力や遺伝子まで管理対応するようになったが、さて自分自身の管理、家族の管理、また人生への正しい対応はどうだろう。それらの最も大切な点で失敗者が多い現実は、教育が真の知恵の基礎を教えない事実を物語っている。

「悪いニュース」 詩篇112篇1〜10

昔は「電報です」という声にどきっとした。今も深夜の電話などはいやなものだ。我々は悪いニュースに脅えている。ここに神の保護と祝福の一つに「彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない」とあるのももっともなことだ。新約にも「敵対する者どもに狼狽させられないのは、われらの勝利の印だ(ピリピ、1:28)」とある。

「貧しきものの主」 詩篇113篇1〜9

この詩篇のテーマは「その栄光は天よりも高い」主に対する賛美だ。しかし同時にその栄光の主は「貧しいもの、乏しいもの、子を生まぬ女」など、弱く淋しいものを見そなわす。そして彼らを高く挙げて王侯と共に座しめ、また子なき婦人を多くの子の母として幸福な家庭を与えるなど、貧しく謙遜にして祈るものを顧みたもう恵み深い主だ。ここでキリストの「心の貧しいものは幸いである」という教えも思い合わされる、本当に素晴らしい詩篇だ。

「すくいのよろこび」 詩篇114篇1〜8

ある年配の人が教会に来て「私は娘の喜びの理由を知りたくてきました」と言ったことがある。救われたクリスチャンには目立つほどの不思義な喜びがあるのだ。「イスラエルがエジプトを出たとき、異言の民を離れたとき」というのはクリスチャンが救われて、罪の、また世俗的な生活を離れたときという意味だ。その時主はクリスチャンのうちに住みクリスチャンは主のものとなる。この経験の結果、すべてみな新しく、感謝に踊るようにさえ見える。

「真の神と偶像」 詩篇115篇1〜18

長く中国伝道をしていた宣教師に「日本は教育が進んでいるが、いったい高度の教育を受けた日本人は、人間が手で造った、室内に安置されたまま動かない神々が、祈りに答えてくれると本気で信じているのでしょうか。現代の日本に依然とそういう神々が祭られているのは不思議だ」と聞かれて困ったことがあった。皆さんどう思います?。

「神の助け」 詩篇116篇1〜19

「あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足をつまずきから助け出されました(8節)」これはクリスチャンの日々の経険だが、詩篇のこの表現は美しい。「死からの助け」は救いを「涙から」は悲しみの中の助けを「足をつまずきから」は誘惑からの助けを言っていると思う。こういう神の恵みを思えばこそ、詩人は言う「わが魂よ、おまえの平安に帰るがよい。主は豊かにおまえをあしらわれたからである(7節)」と。

「もろもろの国民」 詩篇117篇1、2

これは一番短い詩篇で、しかも次の次には最も長い119篇が侍っている。さてクリスチャンとして神を崇めるものは今も依然として少なく、神の愛と恵みに溢れた世界は神を知らない国や民族の手に泊められている。それ故戦争その他の悲惨が世界を覆っている。世界の国民が神を崇めるに至る様に我々は祈りつつ伝道に励み、また主の再臨の早からんことを、祈り待ち望むのだ。

「蜂と火と」 詩篇118篇1〜14

11節に「彼らは蜂のように君を囲み、茨の火のように燃え立った」とあるが、日本の昔の伝説の「すさのをのみこと」も、迫害者のために蜂の室に追い込まれたり、野原で火をかけられて焼き殺されそうになったそうだ。私達も迫害やら、事故やら、誘惑やら、さまざまな危険に出会うことも多い。ただこの詩篇のように、絶えざる神の保護の中に守られて、お互いに毎日ことなく過ごせるのは本当にありがたいことだ。

「清潔な生活」 詩篇119篇1〜16

これは詩篇だけでなく聖書全体で最も長い章だ。所々にある「アレカ」「ベス」などはヘプル語のアルファベットで、各グループがその文字ではじまっている。全章のテーマは「聖書」だ。11節に「あなたにむかって罪を犯すことがないように、心のうちにみことばをたくわえました」とクリスチャンの心をぴったり言っている。多くのクリスチャンホームの子供たちが不思議に誘惑から守られている秘密もこれだ。

「聖書の奥義」 詩篇119篇17〜32

聖書の勉強は大切だが、聖書には常識では悟れない深い意味もある。また信じ従う心がない場合、聖書の真理はその人に隠されしまうこともある。キリストが「神は真理を智者学書に隠して幼子に現わされた」とおっしゃったのもその意味だ。どうか謙遜と信仰と服従をもって、聖書の奥義に対して我々の心が開かれるように。聖霊が心の目を開いて、聖書の隠れたすばらしい真理を味得させて下さるように祈ろう。

「慕わしい聖書」 詩篇119篇33〜48

「見よ私はあなたのさとしを慕います」エドワード・グレーは「幸福の条件」の一つに「明確な道徳基準を持っていること」を挙げている。車を運転していても、道を良く知っていれば快適なドライブ、安全な運転ができる。反対に道を探し探しの運転などは、近所迷惑も甚だしい。人生のドライブもまたしかり。それ故クリスチャンは聖書の教えを慕いそれを学ぶことを楽しむ。教会の集会にも喜んで出席するわけなのだ。

「深夜の思い」 詩篇119篇49〜64

「62節」夜中にふと目を覚まして物を思うことも多い。来し方行く末を思うこともある。寝る前考えていた事に良いヒントが与えられることもある。またみことばを与えられ、その結果不安や思い煩いを主に委ねてぐっすり眠ることもある。あるいは励ましを受けて心が静かな興奮に誘われもする。ともあれ、みことばに心を守られているのは、朝でも昼でも夜中でも、本当に幸いだ。

「貴重な経験」 詩篇119篇65〜80

「苦しみにあったのは私によいことです。私はあなたのおきて(聖書)を学ぶことができました」(71節)中国の聖人孔子は「朝に道を聞かばタベに死すともよし」と言った。苦しい経験であっても神の言葉の真実を実感するために有益だったらそれもまよし。これはクリスチャンの実感だ。人間関係でも、幸福よりむしろ苦労の中でお互いの愛と真実を確かめあって「あの苦労はお互いに貴重だった」ということが多い。

「創造の言葉」 詩篇119篇81〜96

「あなたが地を定められたので地は堅く立っています。これらのものはあなたの仰せにより堅く立って今日に至っています」(90,91)始めに神はみことばによって天地をお造りになったとは聖書の教えだ。そのみことばによって今も天地は定まっている。我々が信じ依り頼み従っている聖書は、まさに同じ神の言葉なのだ。我々の救いも祝福も日々の助けも、みことばの真実と力、とりもなおさず神の真実と力にかかっている。真に頼もしい限りりだと思う。

「わが足のともしび」 詩篇119篇97〜112

ユダヤの昔の風俗で、夜道を行くとき仕掛けのある靴をはき、足のつまさきに小さな灯をつけて歩いたそうだ。現代の夜景で自転車に乗る人が足を光らせて行くのと似て、なにかユーモラスな人間の知意を感じる。暗い道は恐ろしいが人生の道はもっと暗い。正しく安全な道に人を導く「足のともしび」が必要だ。これは聖書のことをいっているが、ここで自然「私は世の光である」というキりストの言葉を思う。本当に聖書とキリストこそ真の光なのだ。

「みことばと希望」 詩篇119篇113〜128

特別集会を目前にした私はすぐ「私はみことばによって望みをいだく」(114節)また「今は主の働かれる時です」(126節)などの句が心に入ってくる。特別集会の勝利のために我々はみことばの約束に頼っている。我々を励ましてこの事業に当たらせて下さった主がいよいよ集会において立上り、勝利と栄光を現わして下さると、期待するのだ。

「真理を求める」 詩篇119篇129〜144

ちょうどいま勉強したいテーマに関する善い本を見つけて買うと、はじめから1ページづつ読むのがもどかしくて、一度にムシャムシャ食べてしまいたいことがある。ここに神の言葉の真理に対し、咽喉の渇いた獣が必死に水を求めるように「口を広く開けてあえぎ求める」とあるのは何という真実な態度だろう。神は求めに答えてみことばの真理と祝福をもって彼の心を満たして下ざる。そして「みことほが開けると光を放ち、無学な者は知恵を得る」のだ。

「祈りとみことば」 詩篇119篇145〜160

(145,146)には、祈りとみことばの関係が美しく歌われている。詩人は神の約束の真実に頼って、祈りの答えに深く期待している。だが同じように神も祈る者に、神の、さだめ、あかし、すなわちみことばに対する真実な信仰と従順を望んでおられることを彼は知っている。神が祈りに答えたもうという信仰と、みことばに対する神の期待どおりの真実な態度の告白。この二つは実は切り離せない祈りのセットなのだ。

「七回の祈り  詩篇119篇161〜176

(164節)に、一日に七回神を賛美するとあるが、イスラエル人にとってこれは祈りの時でもあった。外国人にまでその習慣を認められたダニエルや、使徒行伝3章でペテロ、ヨハネが午後3時、つまり一日五番目の祈りのために神殿に入った模範もある。我々も起床、朝食、午前、昼食、午後、夕食、就眠の各時に一日最低七回の祈りはしたい。