館林キリスト教会

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ショート旧約史 ネヘミヤ記

「エルサレムの荒廃」 ネヘミヤ記 1章1〜11

ネヘミヤ記 の物語は、エズラに導かれて帰国したユダヤ人によって、エルサレムに再び神殿が建てられてから、約95年後に始まる。 ネヘミヤはペルシャの王宮で、王の侍従長という要職にあった。90年前、せっかく帰国して故国に住むようになったユダヤ人も、またせっかく再建されたエルサレムの神殿も、城壁のない無防備のありさまで、かつ行政的には、無責任という以上に、反ユダヤ的傾向の強い、サマリヤの管轄下に編入されていたらしく、しばしば異民族の攻撃略奪を受けた為、今は恥辱と荒廃のうちにあった。 ネヘミヤは常々これらの報告を耳にし、心を痛めていたが、ついに放置できない限界に来ていることを悟り、今真剣に祈り始めたのである。

「出発」 ネヘミヤ記 2章1〜10

憂い心にあれば、色おのずから面に出る。ネヘミヤの憂色はついに王の目に止まった。 アルタシャスタ王と、王妃とネヘミヤとの間には、ただの君臣以上の友情が通っていたらしい。 ネヘミヤの希望を聞くと王は、ネヘミヤが必要とする期間を確かめ、ネヘミヤのユダヤ出張を許してくれた。しかもペルシャの任命を受けたユダヤ総督という資格で、関係地方の知事たちに対しては「ネヘミヤの通行を保護し、便宜をはかるように」またユダヤ周辺地方の知事に対しては「資材の供給その他の協力をもって、ネヘミヤの事業を助けるように」との親書を与えられた。しかも軍隊さえも共に派遣したのであった。 ネヘミヤは言っている。 「これらは、神がよく私を助けられたからだ」

「視察」 ネヘミヤ記 2章11〜20

さてエルサレムに到着すると、ネヘミヤは早速、エルサレム荒廃の様子を視察した。 彼がわざわざ夜を選び、少数の伴を連れ、幾分か秘密行動を取ったのは、妨害を避けるためであった。 しかしそれと共に、人まかせの報告などでなく、自分の眼で確かめ、また静かに主と共に見、主と共に思い、祈りつつ観察したかったのであろう。 このように、誰にとっても、どんな事業にとっても、観察、考慮、研究は大切だ。しかも、いつも祈りつつ、主と共にそれをなすことが必要だ。主は常に困難、絶望から我々の心を守り、知恵と確信と力を与えてくださるからである。

「工事開始」 ネヘミヤ記 章3章1〜14

ネヘミヤは、エルサレム城壁再建工事に際して、国民総動員で工事に当ること、責任の分担、仕事の分業などを、根本方針とした。 またこれに対する、人々の服従と協力はすばらしかった。 たとえば宗教家である祭司達、役人であるエルサレムの知事たちとその一族、金細工や製香などの技術者や職人たちが、なれない手に道具を持って、本職の指図を受けながら、汗まみれになって働いた。 区域外の遠方の人々も応援し、人手の少ない家族では、娘たちまで工事に参加したことが記されている。 まことにめざましく、けなげな有様で、これは今日の教会の奉仕の模範である。 しかし中には、テコアの貴人たちのように、これ程の事業にさえ参加しない人たちのことも記されているのだ。

「妨害工作」 ネヘミヤ記 4章1〜14

周囲の民族は、ネヘミヤの指導のもとに、エルサレム城壁が再建されようとするのを見ると、嫉妬、不安、怒りに駆られた。 最初はあざけり、ケチをつけ、イスラエルの人々のやる気をなくさせようとして「あんな城壁は、狐が一匹のぼっても崩れるさ」などと言っていた。 しかるに工事が着々と進み、城壁が予定の高さの半分ぐらいまで行くと、彼らもあわてた。 そこで工作員を放って、ユダヤの人々に混乱を生じさせ、その一致を妨害しようとした。 そのせいか、あまりの難工事と資材、労働条件の不備に不平を言う者も出て来るし、紛れ込んだ敵の工作員に殺されるとか、奴らが攻めて来る相だ、とかの流言におびえる者もいる。その時ネヘミヤは言った。 「彼らを恐れてはならない。ただ大いなる主を恐れ、依り頼みなさい。自分の家と家族のために戦うのだ」と。

「突貫工事」 ネヘミヤ記 4章15〜23

いよいよ昼夜交替の突貫工事となった。 それだけでなく、敵の不意の攻撃も予想されるので、現場には工事をする人々のほか、武装兵と指揮者を配置することにした。またラッパの合図と共に、すぐ兵士が場所に集れるようにした。 本当に人々は「片手で工事をなし、片手には武器を取った」という有様だったのである。 ネヘミヤ、その一族、その護衛兵などは、夜も武装を解いて休むことがなかった、と記してある。 本当に彼らの姿は、今、教会というエルサレムを建てようとする我々クリスチャンの励ましだ。

「生活問題」 ネヘミヤ記 5章1〜19

この間、人々の生活も大きな問題だった。 この国民的大工事の間に、人々の生活は苦しくなって来た。それも全部の人が同じように貧乏になり、同じように欠乏に耐えるのなら我慢もしやすい。 ところが実際は、貧しい人が心ならずも食物を借りると、貸す方ではいつものとおり、抵当を要求し、利子を取る。結果的にはこのドサクサの中で、結構もうける人が出はじめたので不平が出た。 さて改めて調査して見ると、ネヘミヤ自身の貸しについても事務員たちの手で、通例どおり計算によって、利子が取られていたのである。普段だったらこれは事務的な計算で、別に悪事ではない。 ネヘミヤは言う。 「これは自分の兄弟同胞を売るようなものだ。勿論私の利子も、すぐ事務員に命じて止めさせる。諸君もこの際、お互いの間で利子を取るのを止めなさい」 人々は素直に、このネヘミヤの勧告に従った。 実はネヘミヤは、ユダヤ総督としての就任期間の12年間、総督の報酬を受け取らなかった。否、総督の役所の維持、官吏役人の生活費、多くの役職の人々の会議や接待など、莫大な費用は、すべていわゆる自腹を切っていたのである。 恐らく誰の目にも明らかな、このネヘミヤの無欲、清廉が、この時の発言の強い説得力、影響力となったに違いない。

「悪巧み」 ネヘミヤ記 6章1〜14

敵は、城壁工事が進み、門扉(もんぴ)を設置するところまで行ったのを見て、妥協の相談に見せかけて、某所でネヘミヤと会見しようと申し入れて来た。 ネヘミヤは答えて言った。 「どうしてこの大いなる工事を差し置いて行き、その間工事を中断できるでしょう」と。 これは恐らくネヘミヤ暗殺がねらいであって、ネヘミヤの拒否にもかかわらず、この提案はしつこく、4、5回もくり返された。 とうとう「ネヘミヤとユダヤ人の、ぺルシャに対する反乱、謀反の噂が広がっている。我々と相談しないと、ぺルシャ王の嫌疑を受けて、大変なことになるぞ」とおどかすに至った。 またあるユダヤ人は「あなたは命をねらわれて危険だから、しばらく神殿にかくれよう」とすすめた。これはネヘミヤに、宗教上の禁を犯させて人々の信用を失墜させようとの悪巧みで、この男は敵に買収されていたのだ。同じように、買収されて敵の手先きになった人の事を、ネヘミヤはほかにも挙げている。 この間ネヘミヤが守られたのは「あなたがたが善に熱心であれば、だれがあなたがたに危害を加えようか(第1ペテロ3章13)」というお言葉のとおりであったと思う。

「工事の完成」 ネヘミヤ記 6章15〜7章4

いよいよ城壁は完成した。今まで妨害して来た異邦人もこれを見ると「恐れ、また面目を失い、神の助けのすばらしさをみな悟った」のであった。 しかしまだエルサレムの住民は少数で、家も少なく、依然反対と策謀を続ける異邦人にかこまれた孤立の状態で、しかもイスラエル内部にさえ内応者、裏切り者の心配があって、まだまだ油断はできなかったのである。 夜は城門をきびしく閉ざし、番兵を立てるなど、城壁建築中と同じように、全住民総がかりで部署を定め、警戒に当ったのであった。

「特別礼拝」 ネヘミヤ記 8章1〜8

エルサレム城壁の建築は何のためか?主の民が住むためである。故に城壁建築完成の記事に、7章以下の住民数調査の記事がつづいている。神殿再建は何の為か?主の民が礼拝を守るためである。故にここにエズラの指導のもとに行なわれた、特別礼拝の記事がある。礼拝は聖書朗読が中心であった。聖書が開かれると、人々は起立して「アーメン」と言った。エズラを始めとする指導者たちは「聖書を明瞭に読み、その意味を解き明かして、人々に悟らせた」のであった。

「感動の涙」 ネヘミヤ記 8章9〜18

この礼拝において人々は泣いた。罪の深刻な自覚と悔い改めのためであろう。エズラは「いつまでも泣いていてはいけない。信仰と感謝をもって主の恵みをうけ入れ、共に喜ぼう」とすすめた。その時感謝と喜びも、また涙であったろう。 そしてそのあとに、聖書の定めに従って「仮庵の祭り」が行われ、人々の喜びは更に大きかったのである。 ここに記された「主を喜ぶことはあなたがたの力です」というみ言葉を記憶したい。これは今の我々にとっても、信仰生活の秘訣であることに変わりない。

「エズラ先生の祈り」 ネヘミヤ記 9章1〜15

ここに人々が6時間聖書を学び、つづいて6時間祈ったと記されてあるのを見れば、その精励が思いやられるのである。とても「水上聖会」どころの話ではない。 そして彼らの祈りは、いつか個人の祈り、今の問題の祈りから進んで、次第に「なぜ我々の先祖の時代に神の祝福を失い、国が滅びるような事態を招いたのか?」そのことを考え研究し、かつ反省し、再びそんな事にならないように、自粛し自戒してさらに熱心に祈るようになった。 以下に記されたエズラの長い祈りもまた、今でも我々の祈りの模範である。

「あわれみ深き神」 ネヘミヤ記 9章16〜25

エズラの祈りは、聖書に記された先祖たちの悲しむべき行為とその裁きと、神のあわれみの歴史を、そのまま神に申し上げているようだ。これが同時にエズラたちの悔い改めであり、また神の恵みに対する感謝なのだ。 先祖たちは出エジプト以来、たびたび神にそむいた。カデシバルネヤでも、金の子牛事件の時でも。しかるに神はその罪をゆるし、一方的に神の約束を実行して、荒涼たる砂漠の旅行中にも、彼らを導き、必要を供給し、勝利を与え、やがて乳と蜜の流れる約束の地に彼らを導き、そしてそこを占領させて下さったのだった。

「反逆と忍耐」 ネヘミヤ記 9章26〜31

くりかえし行われたイスラエルの反逆について、エズラは祈りの中で様々な形容の言葉を用いている。その時「彼らは、肩をそびやかした」「高慢でかたくなになった」「神のおきてを破った」「神の言葉を後に投げ捨てた」「預言者の言葉に耳を傾けなかった」これらは言わば、霊的な病人の病状書だ。 しかしそれは決して昔のイスラエルだけのことではない。我々の心の中にそのいくつかがあらわれたら、警戒が必要である。 これらは癌、心臓病の症状より、もっと危険なのだ。

「奴隷の民」 ネヘミヤ記 9章32〜38

バビロンに補囚となったユダヤ人は、ペルシャ時代にだいぶ帰国することが出来たものの、そのころから今に至るまで、いわゆる「ディアスポラ」と呼ばれて、国外に離散移住をつづけるユダヤ人は多かった。「イスラエル共和国」建国後の今日でも、その人口の5分の4は外国に住んでいる。 また本国に住むユダヤ人といえども、昔からいつも強力な国の支配のもとにあって、民族的には「奴隷状態」だった。 イスラエル民族と、その国家の真の復活、回復こそ、先祖代々のユダヤ人の悲願だ。いま、主のしもべであると共に、同胞愛、愛国心にみちたエズラもまた、このために祈っているのである。

「神との契約」 ネヘミヤ記 10章28〜39

前章の終わりでも見てきたように、再び先祖のような罪を犯して神の裁きを受け、国を滅亡に導くことがないようにとは人々の堅い決意だった。この決意を人々は神の前の堅い契約にあらわした。そして代表としてレビ人たちと祭司たちがこの契約に捺印した。 次に契約の内容が記されている。異邦人との交際に一線を引いて、絶対に異邦人との結婚関係などに入らないこと。安息日と礼拝をきちんと守ること。神殿や祭司を維持するための負担、献金は、必ず実行し、決してなおざりにしないこと、などが定められている。

「エルサレム居住」 ネヘミヤ記 11章1〜14

指導者たちは勿論エルサレムに住むが、その他の国民の中からも、エルサレムに住む人々の割合を定め、くじ引きでそれを義務づけ、また自発的にエルサレム居住を申し出た者が賞賛されているのは面白い。 恐らくエルサレム居住者は神殿、城壁城門の警護、その他の義務負担が多く、逆に農業など収益をあげるには不便であるほか、この町はなんとなく窮屈で、しかも敵の攻撃の危険も多かったから、あえてこの町に住もうというのは、とにかく忠実で勇敢な人たちだったのだ。

「感謝会」 ネヘミヤ記 12章27〜40

ネヘミヤ記 は一口で言えば、エルサレムの城壁再築の記録である。今までに彼らの出会った困難と、その克服の記事を読んで来た者にとっては、この落成感謝式の喜びも察せられるのである。 彼らは2組の行列を作り、それぞれ反対の方角から出発し、賛美しつつ、城壁の上をまわった。積まれた石のひとつひとつさえ、辛苦の思い出のこもらぬものはない。やがて行列は合流して神殿の感謝礼拝にのぞんだが、その喜びの声は近隣の地方にまで聞こえた。

「喜びの声」 ネヘミヤ記 12章40〜47

ここに「彼らはその日、大いなる犠牲をささげて喜んだ」とある。これはこの日の感謝礼拝で献げた犠牲が多かったことを言うのは勿論であるが、しかし実は神殿の再建も、城壁の再築も、人々が主のために喜んで捧げた犠牲にほかならない。 人々はそれらの犠牲が神様のために役立ったのを見て喜びの声を上げたのだ。これは今も、主に献げ主に仕える者の共通して抱く喜びなのだ。どうか教会においても、献げる喜び犠牲の喜びが、遠くまで聞こえるようであってほしい。

「ルーズの罪」 ネヘミヤ記 13章1〜14

ネヘミヤはユダヤでの仕事が一段落した機会に、一時バビロンに帰国していたが、その留守中のことである。 神殿の部屋を管理する責任者のエリアシブがその特権を利用して、有力者である異邦人、自分の義父トビヤの為に、多分宿泊の目的で神殿内に一室を設けて便宜を計った。エリアシブは異邦人と結婚していたから、これは二重の罪だった。 またそのころ、祭司その他の神殿奉仕者に、必要品が供与されなかったため、彼らが奉仕に専念することが不可能になっていた。 暫く留守にしたネヘミヤは帰任してこの事情を知ると、テキパキと処理してこれらのルーズを改めたのであった。我々もルーズを警戒せよ。

「ルーズときよめ」 ネヘミヤ記 13章15〜30

誰でも安息日に仕事や商売を休まなければ、礼拝が守れるはずがない。また神の民でありながら異邦人と結婚し、家庭生活も子供たちの教育も、異教と半々ということでは、家庭における神の祝福もおぼつかない。 これらも同じく信仰生活のルーズである。ネヘミヤはそのルーズを正した。 ここにネヘミヤは「彼らは・・・を汚した。私は彼等を清めた」と言っている。我々も信仰生活の中に、いつか忍びよるルーズ、また汚れから、常に清められねばならない。