館林キリスト教会

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ショート旧約史 エゼキエル書

「災いの言葉」 エゼキエル2章1〜10 1994/07/10

1章1〜3節に、序言の形で、エゼキエルの預言した時と場所が明記してある。また1章は余りにも難解で交読に適しない。交読は2章から始めよう。ここで神は彼に困難な使命をお与えになった。エレミヤと同時代のことだから、イスラエル人は彼のメッセージを受け入れず、反対にいばら、あざみ、さそりのように彼を迫害するだろう。しかし「彼等が聞いても拒んでも」エゼキエルは神の言葉を語らねばならないのだ。その言葉は祝福よりも裁きの宣告に満ち、語る者にも聞く者にも悲しみと嘆きと災いの言葉なのだが。

「ダイヤの額」 エゼキエル3章1〜15 1994/07/17

心のうちに甘い神の言葉を食らい、出て行ってこれを人々に語る。これが預言者の務めだ。彼はそのメッセージを捕囚されてこの地に来た、ユダヤ人の地域コミニューンに語ろうとする。しかし先祖伝来聖書を聞き続け、不服従を続けてきたユダヤ人の心は堅い。その「厚顔で強情な」ユダヤ人に対してエゼキエルは、岩よりも堅い、ダイヤモンドのような額を与えられなければならなかった。恐れずめげず、はばからず、徹底的に彼等に伝道するように命じられたからだ。伝道に案外、遠慮や気取りが邪魔をすることがある。伝道するためには大胆と忍耐と執拗が求められるのは、昔も今も変わらない。

「血の責任」 エゼキエル書3章12〜21 1994/07/24

エゼキエルは神秘的な傾向を持っていた。この日も彼は霊に導かれてテルアビブに行ったのだ。ここで彼は「神のみ旨を知り、しかもそれを語るように託された者の責任」について語る。彼が警告を与えないままで罪人が滅亡した場合には、彼はその滅亡の責任を問われる。彼が注意を与えないために信者がつまずくならば、指導者はそのつまずきの責任を問われるのだ。「その血をわたしはあなたの手から求める」とは何という強烈、厳粛な主の言葉だろうか。我々は今改めて、伝道の義務に対して忠実であることを祈りたい。

「象徴的行為」 エゼキエル書4章1〜17 1994/07/31

昔の子供は、駒を使ったり絵を書いたりして、敵陣を攻める遊びをした。エルサレムの滅亡を思い、かつ語りながら、エゼキエルはそれをやってみたり人にも見せて警告したのだろう。また彼は苦しい「片寝」を続け、配給の粗食を食べわずかな水を飲みながら(その水も最小限の配給)、エルサレム滅亡後の人々の苦しみを、先に実験したのだ。多くの預言者はよく「たとえ話」を使ったが、彼の場合は特に神に命じられて、こんな「象徴的行為」で人々を警告した。これも彼に与えられた特別な使命だったのだ。

「焼かれる毛髪」 エゼキエル書5章1〜12 1994/08/07

イスラエル人にとって、髪の毛やひげを剃るのは、犯罪人や捕虜だけが受ける恥辱の印だった。エルサレムが罪のために恥辱と滅亡を受ける前に、エゼキエルは例の象徴的行為で、そのことを強烈に預言し、警告することを命じられたのだ。剣で撃たれ、風に散らされ、火に焼かれる毛髪(その焼ける匂いは人体の焼ける匂いそのものだ)。彼は泣きながらそれをしたろう。ライス博士は説教中よく泣き「滅亡の説教は、泣かずには話せない」と言った。

「偶像の季節」 エゼキエル書6章1〜10 1994/08/14

夏になるとお祭りやお盆で日本は偶像の季節だ。彼等は何となく昔からの習慣の通り、偶像に「国家安穏」「五穀豊饒」などを祈っている。しかし偶像が祈りに答えることも保護や祝福をもたらすこともない。戦争中には神社もお寺も焼かれ、ある場合はその境内も死体で埋まったのだ。イスラエルもなかなかこれを悔い改めずついに滅亡した。日本人も何やかや言いながらその状態は改まらない。やがて主の裁きの日に、偶像の前に死体が累々と横たわるのを、恐れなければならないのに。

「難解な預言書」 エゼキエル書7章1〜13 1994/08/21

エゼキエル書は難解で親しみにくく、多くの人にとってなじみの少ない預言書だと思う。実は旧約の専門家のつもりの私も、この預言書はまだしっかりとは読んでいない。しかしこの交読の機会にみなさんと一緒に、たとえ一通りでも通読できるのは感謝だ。この章のメッセージは激しい。エレミヤよりもエルサレムの滅亡が近いからだった。この旧約最高の激しい発言も、象徴的な行為や多くの神秘的な異象と共に、エゼキエル書の特徴をなすものだ。長い預言書ゆえゆっくりと読んで行こう。

「空中飛行」 エゼキエル書8章1〜14 1994/08/28

イスラエルの末期には、ここに記されたような偶像礼拝が神聖な神殿で行われたらしい。もしエゼキエルの情報がなければ信じられない、恐るべき事態だ。彼等に対する神の怒りと裁きもやむを得ないと思われる。エゼキエルは神の力による神秘的な方法で神殿の内部を視察したが、これは彼が物理的に空を飛んでいったのか、霊的にそれを経験したのか分からない。何回も言ったが、エゼキエルは神秘的な経験に富んだ人だ。これも神の特別な賜物で、どの預言者もそうだった訳ではない。

「まず聖所から」 エゼキエル書9章1〜11 1994/09/04

ある者は偶像礼拝にふけり、ある者はそのありさまを悲しみ嘆く。神はその実情を知っていたもう。エリヤの時代の「バアルに膝をかがめない七千人」のように、裁きのみ使いは彼らに印をつけ、裁きの日に彼等が救われるように準備をするのだ。いまもみ使いは同じような準備をしているだろう。それにしてもその準備が「まずわたしの聖所から始めよ」と命じられているのはきびしい。我々クリスチャンも教会員も、うかつにしてはいられないのだ。

「鍋と肉」 エゼキエル書11章1〜12 1994/09/18

10章はあまり難解なので交読を省略する。11章で預言者は、神殿の東正門の広場に集まった25人以上の指導者の会議の様子を記している。彼等は「町が破壊されて家を建て直すような事態は起こらない。エルサレム城は堅固なこと鍋のようだ。鍋は強い火の熱を調整して、中の肉をちょうど良く煮えるくらいに守るのだ。だからこの市民は安全だ」と言っている。しかしエゼキエルは「実は罪の満ちたエルサレムは肉を煮る鍋のようだ。その中の累々たる肉こそは、バビロンの攻撃によって殺される市民の死体なのだ」と言う。または彼等はそこから取り出されて諸外国でも捕囚の恥を受けようと。

「実感と預言」 エゼキエル書12章1〜20 1994/09/25

いかに主のご命令だとは言え、エゼキエルが荷物をまとめ、これ見よがしに夜逃げをする様子を見て、エルサレム市民は驚きまた不快を禁じ得なかったろう。彼等は罪を犯しつつ、また主の警告を聞きつつ、なお神を侮り、自分たちの安全を期待してのんきに暮らしていたからだ。彼はまた捕虜として連れ去られる旅中の人のように、戦々競々としてパンを食べ水を飲んだ。別に演出をしたわけでもないが、神の警告を信ずる彼は、やがて来るその恐ろしい場面を実感できたのだろう。「実感」これは口先だけの、決まり文句の、マンネリ説教者に対する警告でもある。

「水増し預言」 エゼキエル書13章1〜16 1994/10/30

エゼキエルの時代にも神の言葉を語ると自称する偽預言者がいた。彼等は神のお示しを受けないのに、自分の心のままに預言し、また預言者の義務をも怠っていた。戦いの時には引っ込み、工事に際しては怠けている。彼等の働きは、塀を築く時「水しっくい」を塗るようなものだと言う。本来しっくいは、粉末にした石灰石に粘着剤を混ぜるのだが、手抜きして水だけのしっくいを塗れば、その塀は嵐に遭うと崩れてしまう。偽預言者の奉仕は「水増ししっくい」のようで、人の救いにも教えにも役に立たない。それは神の保証と祝福を伴わない空しいものだからだ。

「占いの女」 エゼキエル書13章17〜23 1994/11/06

[17〜19節]にあるように、当時のイスラエルには、占いや口寄せをし、人の禍福のために祈る女が多くいて、神に背き人の生活と魂を害する業務に従っていたらしい。その大げさで思わせぶりで芝居がかりな仕方も、ここに描写されている。彼等は人の悩みや迷いにつけ込んでそれを餌とし、自分の利益を計るのだ。それは結局「偽りをもって正しい者(迷信的だが積極的な悪人ではない)の魂を悩ます」事になる。当然、彼等は神の裁きを受けるのだ。

「偶像と躓き」 エゼキエル書14章1〜11 1994/11/13

捕囚地のイスラエルの長老がエゼキエルのもとに集まった。もちろん神の祝福の言葉を求めるのだ。エゼキエルは言う。「あなた方は偶像を持ち、また罪のつまずきになる物も所持しつつ、悔い改めてそれを除こうとはしない。それなのに真の神が彼等に祝福の言葉を与えるだろうか。それゆえ神みずから裁きをもって彼等に答えるだろう」悔い改めを勧めない当時の一般預言者を当てにする者は、預言者もろとも裁かれる。しかしそれは、人々が真の神がどういうお方かを知り、やがて霊的に回復し、本当の祝福のもとに約束の地に安住するようになるためなのだ。