館林キリスト教会

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ショート旧約史 出エジプト記

「新しい王」 出エジプト記1章

前に記したように、エジプトの総理大臣だったヨセフはその頃、外来王家であるヒクソス王朝の、エジプト完全支配のために貢献したのだった。 ところが今や、いわゆる王政復古が行われて、エジプト人の王朝が立てられると、国の形勢は変わった。イスラエル人は追放したヒクソスの片割れとして憎まれる。しかも優秀で繁殖力が強く、国境近くに一大勢力を維持しているので、なおさら警戒された。警戒は憎悪に、また迫害に進展する。 次第に彼らは人権を奪われ、強制労働に駆り出された。しかも最後には非人道的な人口削減政策を強制されたのだ。 これが神様の干渉によってうまくゆかないと、王様はいら立って「イスラエル人の男の子は、みんなナイル川に投げ込んで殺してしまえ」などと言い出す始末だった。 しかしまさかこんな感情的な発言が厳格に励行されたとは思えないが、当時のイスラエル人にとっては深刻な恐怖で、ある程度子供が犠牲になったことと思われる。

「解放者モーセの誕生」 出エジプト記2章

ここに「信仰によってパロの命令をも恐れず、生れた男の子を救おう」とした若い夫婦がいた。「生れてくる幼子が、救い主である」という預言は、もちろんキリストを指すのだが、今のような絶望状態の中で「誰か知らぬが、我々の中の一人の男の子が、我々を救う望みがある」と信ずるのはイスラエル人にとって、自然である。だから「男の子皆殺し」の命令は、救い主の約束に対する挑戦だったのだ。この若い夫婦が命がけで幼児を守ろうとしたのも、父母の自然な人情だけではなく、たしかに「信仰の業」だった。 神様の摂理の中に救われたこの幼児は、これから数奇な運命をたどることになるが、結局彼こそは、神に立てられてイスラエルの解放者、指導者、建国者となる、旧約聖書中最大の人物、モーセその人なのである。

「モーセの激越」 出エジプト記2章

モーセは不思議な神の摂理によって、エジプトの王宮で育った。そして世界最高のエジプト文化の中で学問教養を身につけた。成人してからは軍隊を指揮して実際に戦争をしたこともあった。これらは神によって彼の将来のために備えられた準備であった。 やがて40歳になると、同胞のイスラエルを救わなければならない自分の使命を悟り、このために献身する決意を固めた。 しかしその生れつきの短気のため、ある日、イスラエル人をいじめるエジプト人を不用意に殺害してしまった。その為に王の捜索を受けることになって、危険を避けて今はひとり、ミデアンに亡命しなければならなかった。以後40年間、失意のうちに黙々と羊飼いの生活を送ることになったのである。 この長い失意と単調な生活こそ、モーセのためには更に大切な訓練の期間であって、彼はここで謙遜と忍耐と従順を学んだ。その結果後年「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人に勝っていた」といわれるに至ったのである。

「モーセの派遣」 出エジプト記3章

今日もモーセは羊の群れを連れてシナイ山の麓にいた。わたしもイスラエルの旅行中羊飼いの仕事ぶりを見た。携帯ラジオも聞かず、岩波文庫も読まず、まるで羊と同じように黙々と、羊の群れにつきそっている様子は、とても日本人には耐えられない単調な生活だ。 しかし今こそ神の時が来たのだ。神は「燃える柴(シェキナー)」の中からモーセを呼び、使命を授け、今こそイスラエルの救いのために彼をエジプトに派遣して下さるのである。 彼はここで、旧約中最大の啓示の一つを受けることになった。すなわち「ヤーウエ」という神のみ名の啓示だ。天地を造り、救いを与える真の神は、これ以後、長くこのみ名で呼ばれることになった。

「しるしの奇跡」 出エジプト記4章

蛇を捕らえるのはサタンに対する勝利を、ライ病を癒すのは罪を清める力を暗示している。いずれもモーセがイスラエルを救うために奇跡を行う力を与えられたことの象徴だ。 モーセは謙遜になった変わりに少し臆病になったと見える。自分が訥弁で説得力がないと心配している。神様が「お前の口を造ったのは誰か」と説得なさるのに、なかなか承知しない。そこで兄のアロンをスポークスマンとすることを許された。 モーセがエジプトに来て、このことを同胞に話すと、人々も感激してうやうやしく神を礼拝した。

「パロとの交渉」 出エジプト記5章

モーセが最初にパロに交渉したのは、砂漠に退いて真の神を礼拝し、犠牲を捧げること、いわば礼拝の自由、信仰生活の自由を求めたのであった。 しかしパロは「そんなことを言う前に、お前等も働け」などと言って、てんから受け付けない。そればかりか、これをイスラエル人の怠慢とみなして、一段の労働強化をもってのぞむことになった。 すなわち、煉瓦を焼くのに、今までと違って材料の藁の供給を受けられなくなり、今度は藁も自分で集めなければならず、しかも製産量、ノルマは前と同じ、という命令である。 困惑したイスラエル人の中の軽率な者は、モーセに向かって「余計な御節介の結果だ」などと文句を言う。 こう言う軽率な連中は、今後ずっとモーセの重荷になるのだ。

「約束の確認」 出エジプト記6章

仕事が始まったばかりで、困難は内外から起こり、事態は複雑である。このとき神は、モーセの祈りに答えて、エジプトの解放の約束を繰り返しお与えになった。 その理由、目的は第一に、これはかねて神の与えたもうた契約である。第二、エジプトから解放されたイスラエル人はこれによって更に深く主を知るようになる。第三、以後イスラエルは主の民となり、主はイスラエルの神となる。こういうことだ。 またこの章には、モーセの家族と、先祖が記されている。モーセはその信仰において、両親の影響を強く受けたが、実はそれは先祖譲りでもあったのである。

「ナイル河の異変」 出エジプト記7章

強情なパロの前で、最初にモーセ達が見せた奇跡は、エジプトの魔術師もまねをした程度のものだったが、ナイル河の異変は重大である。 なぜなら、エジプト人の生活は、ナイル河流域の豊富な生産物に依存していて、ナイル河はエジプトの神として、大切に礼拝されていたからである。 毎年六月ごろのナイル河の溢水期には、パロが国民を代表してナイルを礼拝し、感謝と共に一年間のナイルの恩恵を祈る、重要な国家的祭典が行われた。おそらくこのときに王や高官の面前で、モーセはナイル河を血の流れに変えたと思われる。ここで事態は、エジプトの王権と、奴隷状態のイスラエルの対決に留まらず、真の神と、ナイルというエジプトの地方神との宗教的対決となってきたのだ。 「私はパロを破って誉れを得、エジプト人に私が主であることを知らせるであろう」14章4節

「かえる、ぶよ、あぶ」 出エジプト記8章

パロはもともと誇りと自信に満ち、強情頑固な人物だった。 そのためにこれから次々と十の災害がエジプトを襲うことになる。 しかしこれらのものは、実はそれぞれこの地方に特有の自然現象で、普段から見なれたものなのだ。 ただ次々と大量に発生して、非常に大規模、深刻な災害になったこと。災害が、神の言葉に従い、明確な目的をもって発生したことは、誰の目にも明らかな奇跡だった。 然るにパロは、駆け引きをしたり、災害に参って一度約束したことまでもまた変更したり、依然として強情だった。

「災害の期間」 出エジプト記9章

モーセが最初にパロに交渉したナイルの溢水期(6月頃)から、緊張の間にも一年たち、今は大麦が穂を出し、亜麻が花咲く4月になった。つまり災害はもう足掛け2年。正味10ヶ月に及んだのだ。困るのは国民だが、パロの態度は依然として、災害に遭っては譲り、災害が経過するとまた突っ張ることの繰り返しで、なかなか解決の見通しはつかなかった。 このように絶対権力に慣れた者は、譲ることも折れることも知らない。パロのごときは、最後に神の手で紅海に沈められるまで、ついに悔い改めることがなかった。 ちょうど、愛に満ちた神の救いの勧めを断り、最後の滅亡に陥る罪人のイラストのようだ。

「パロの優柔不断」 出エジプト記10章

打ち続く災害に、エジプトの国民も弱り果て、家来たちもパロに忠告して「イスラエル人と彼らの神にこのまま巻き込まれればエジプトは滅亡しかねません。彼らはエジプトのわなです。今はイスラエルを解放すべきです」と言った。 しかしパロはこの章だけでも、災害に困惑して礼拝のために男子だけ出国させると妥協案を出し、次の災害にあうと「私は罪を犯した。神に私の罪の許しを祈願してくれ」と頼んだりする。しかし、すぐ気が変わり、今度は「動物は残せ」と言ったり、最後には結局出国を拒絶するなど、頑固、狡猾、優柔不断だった。 ここに至って、ついに交渉は決裂する。

「長子の死」 出エジプト記11章

やがてモーセの言葉のとおり暗黒がエジプト全土を覆った。しかしイスラエル人のところには光があった。 エジプト人の目にもイスラエルに対する神の祝福は顕著で、みんな彼らに敬意を示すようになった。またモーセ達の姿も偉大な人物と映ったのである。 ここで神は最後の決定的な災害として、全エジプト人の長子の死を宣告された。これは神には全国民を滅亡させる力があることを示すものだ。(事実、最後まで神に反抗し、イスラエル人を追跡したパロとその軍隊は、紅海に沈んで全滅する) 人間には神に従うか、あるいは滅亡するかの二者択一しか許されない。神の忍耐強いお勧めにいつまでも無制限に甘えるのは危険だ。 同時にいよいよイスラエル人にエジプト脱出の準備が命ぜられる。

「過越の夜」 出エジプト記12章

この章には、モーセを通して神が命じられた(1)この夜すぐに実行すべき命令(2)エジプト脱出後に実行すべき命令(3)これを記念して後代に至るまで守るべき「過越祭」の命令、などが合わせて記録してあるようだ。 全地が暗黒に覆われている間に、イスラエル人はモーセの命令に従って家ごとに一頭の傷のない子羊を選んだ。そしてそれを殺して血を絞り、その血を家の入り口の、柱とかもいに塗った。これはイスラエル人の家であることの印となった。 その夜エジプト人の長子を撃つために全国を行きめぐる天使たちは、この印のある家は、害を与えることなく過ぎ越したのであったが、これは後々まで「キリストの血による救い」の型となったのである。 同じ夜、イスラエル人はモーセの命令通り急いでエジプト脱出の準備をした。あの羊の肉を焼き、明日のために用意したパンも、大急ぎでまだ生地が膨れないまま焼き、野菜はその辺に野生の苦菜で間に合わせた。しかも、「腰を引きからげ、靴をはき、杖を取って」急いで食べた。 その夜、全エジプトに叫び声が上がった。あらゆる家庭、家畜小屋、牧場で、人間と動物とを問わず長子が死んだのだ。 人々はイスラエル人の家に来て、それぞれ金銀の宝物を差し出し「さあこれを持って早くエジプトから出て行ってください。私達の迫害を許し、私達を呪わないで、あなたがたの神に憐れみを祈ってください」と頼むのだった。 今となってはパロもそれを承認しないわけにはいかなかった。 それだからイスラエル人は解放奴隷のようでなく、まるで戦争に勝った凱旋軍のように多くの戦利品を携え、意気揚々とエジプトを出発したのだった。 これはイスラエルにとって一種の建国日であって「過越祭」として長く守られる記念日となった。

「エジプト脱出」 出エジプト記13章

 この出来事がいつの事かについてはいろいろ議論もあるが、今日では「エジプト第19王朝、ラメセス2世のとき迫害を受け、その子メレンプタ王のとき脱出した」というのが定説のようである。大体BC1235頃にあたる。 先祖ヤコブの時エジプトに移住してから430年、その頃70人だった家族も、今は百数十万人の一民族に成長していた。 彼らがエジプトを出ると、すぐシェキナー(目に見える印をともなう父なる神の臨在)が現れて彼らを導いた。これは昼は雲の柱、夜は火の柱のように見えたという。以後シェキナーはイスラエルの陣営を離れることはなかったのである。人々はどんなに心強く感じたことだろう。 彼らはシェキナーの留まるときはそこに宿営しシェキナーの進行するときは旅路に進んだ。こうして彼らは砂漠の道に入っていった。

「紅海の奇跡」 出エジプト記14章

 パロはイスラエル人が立ち去った後、時間がたつとまたむらむらと腹が立ってきた。エジプトの王ともあろう者が、むざむざと奴隷どもに負けたのだ。 そこにイスラエル人たちの情報が入ってきた。彼らは紅海の岸に沿って南下し、山地と紅海の間に進んで、自ら袋の鼠になったように見えたのである。 剛腹なパロはすぐ軍隊に命令し、自ら戦車隊を率いてイスラエル人を追跡した。 イスラエル人の方からも、砂煙を上げて追跡して来るエジプトの戦車隊の大軍が見える。前は紅海で前進はできない。進退はきわまった。人々は泣き叫び、はてはモーセに向かって食って掛かるありさまだ。  激しい東風とシェキナーに妨げられて、エジプト軍はその夜は近づけない。 モーセは夜を徹して祈っている。神はモーセに「あなた方は恐れてはならない。主が今日あなた方のためになされる救いを見なさい。主があなた方のために戦われるから、あなた方は黙していなさい」と言われた。 翌朝、神のご命令のようにモーセがその杖を紅海の上に差し伸べると、見よ、紅海は二つに分かれ、イスラエル人は水のない海底を通って、全員無事に対岸に渡った。 あとを追ってきたパロとその軍勢は、今度は流れ戻った海水に巻き込まれて全軍海に沈み、紅海の藻屑と消えた。

「勝利の賛美」 出エジプト記15章

 エジプトの王、パロとその軍隊が、紅海の藻屑となったありさまを、対岸からイスラエル人は目撃した。 そこでモーセの姉で、女預言者と呼ばれていたミリアムは女たちを引き連れ、タンバリンを取って神に感謝賛美を捧げた。全民族はこれに唱和して、シナイの山々もとどろくようだったろう。これが15章である。 こうして彼らは、神の臨在の象徴である、雲の柱火の柱と、指導者モーセに導かれてシナイの荒野に入っていった。 道は険しく、水も少ない。三日歩いてとあるオアシスにたどり着いてみると、その水は苦くて飲めなかった。モーセは神に示された木の枝で、この水を甘く変えて人々に飲ませた。すなわちメラ(苦い)の泉である。 次にエリムのオアシスに着くと、ここはうって変わったすばらしいところで、人々はゆっくり休むことができた。

「マナ」 出エジプト記16章

 彼らは次第にシナイ半島の南部山岳地帯に進んだが、ここはもともと1600メートルに及ぶ岩山が連なり、道はその間の狭い谷を縫っていて、旅行は困難を極めた。 岩塊、砂礫が多くて、食糧の産出は極端に少なく、現在もようやく六、七千人を養うに足る程度の地方だ。そこにに二百万人のイスラエル人が入ったのだから、食糧飲料の不足は言うまでもなかった。 ここで神様は奇跡のマナを与えて人々を養ってくださったのである。マナは毎日集めるように命じられた。ただし安息日の前日には、二日分を集め、翌日の安息日に休むことが許された。 ある人はこれが神によって定められた、最初の有給休暇だという。

「レピデムの戦い」 出エジプト記17章

 レピデムはすばらしい魅力的なオアシスであったらしい。この地方の地理に明るいモーセはレピデムを目指して、疲れた人々を励ましつつ旅を続けて来たと思う。ところが、普段はこの地方の遊牧民だが場合によっては馬賊に早変わりもするアマレク人が疲労困憊した足弱連れのイスラエルを襲撃略奪しようと、先回りしてレピデムのオアシスを占領してしまったらしい。 イスラエル人はこの様子を見て困惑し、大騒ぎとなり、またまたモーセに食って掛かる。モーセは彼らを宥め励まし、また神に祈った。この時ホレブの岩において再び奇跡が起こり、モーセの杖に打たれた岩が割れて水が流れ出し、その水を飲むことができたのであった。 翌日、イスラエル人とアマレク人との間に激しい戦闘が行われたが、ついにイスラエルの勝利に終わった。この時ヨシュアは戦闘を指揮し、モーセは山で祈っていた。モーセの祈りの手が垂れると負け戦になり、モーセの手が上がると勝利になったというのもこの時のことだ。

「責任の分担」 出エジプト記18章

 モーセはエジプトでの奉仕開始以来、その家族を妻の実家であるミデアンの祭司エテロに託してあった。今家族と再会し、これからまた一緒の生活ができるのは大きな喜びであったに違いない。 全イスラエルといえばなかなかの大人数だから、処理事項も、起こってくる紛糾も多く、モーセはその処理、指導、場合によっては審判と、休む間もないくらい多忙で、その激務から健康を損なう心配もあったらしい。 モーセの家族を送り届けたエテロが、しばらく滞在するうちにこの様子を見て、責任と仕事の分担ひいては民族の組織化をモーセに勧めたのは良いことだった。 一人でやっていては、人間の能力にも体力にも限界がある。また、多くの人材も活かされないし育たない。この原則は、今の教会でも同じだと思う。

「エル・ラーハの野」 出エジプト記19章

 彼らは出エジプト以来三ヶ月でエル・ラーハと呼ばれる谷に到着した。正面には三つのピークを持ったシナイ山がそびえ、全イスラエル人がテントを張ることのできる広い高原だった。彼らはここに約一年間滞在し、神様から「十戒」その他の律法を頂き、また神様の示しに従って「礼拝の幕屋」すなわち「移動式、テント造りの神殿」を建設することになったのである。 すなわち彼らはここで、まだ国土も産業も政府もないままに、神と律法と礼拝を中心とした宗教民族、宗教国民、むしろ宗教団体として発足したのだった。 人々は充分な備えをして神の臨在を待ち望み、神の祝福の約束と命令を受けた。シナイ山は全山シェキナーに覆われて鳴りとどろいた。 彼らはモーセを通してまず「十戒」を頂くことになった。

「十戒」 出エジプト記20章

 「十戒」はあらゆる民族が守るべき基本的な神の戒め、律法である。前半は「宗教戒」つまり神と人間の関係の規制。後半は「道徳戒」すなわち人間相互の関係の規制である。 またこの戒めは「何々してはいけない」という否定語で成り立っている。なぜかといえば、神を離れた人間はもともと罪の中に生きているので、まずそこから正しい生活に出発しなければならないからである。 また抽象的、包括的な表現でなく、具体的代表的な一つ一つの罪を挙げている。あらゆる道徳を包括すれば、勢い抽象的で分かりにくいものになる。カントは全道徳を「汝の意志の格率が普遍妥当的であるように行動せよ」と包括したが、それは一般人にはわからないのだ。包括してなくても、もし律法を霊的に守る真剣さがあれば、「殺してはいけない」とおっしゃった神様は、憎むことも、ののしることもお嫌いだろうと、自然に知ることができるはずなのだ。またこれは出発点だから、その到達するはずの完成点については、キリストの教えを待たなくてはならない。すなわち「殺してはいけない」という律法は「主は私たちのために命を捨ててくださった。これによって愛ということを知った。私たちもまた兄弟のために命を捨てるべきである」という教えに到達しなければならないのだ。

「愛の奴隷」 出エジプト記21章

 創世記から申命記までは、モーセが著者であるから「モーセの五書」といわれるが、また「トーラー(律法)」とも呼ばれる。「これは『律法』に加えて、律法の成立の経緯、また律法の主旨の説明、及びその律法が守られた場合と守られなかった場合の判例、などを付記したもので、所詮は『律法の書』なのだ」という解釈が成り立つからだ。 21章には人間関係、社会生活の律法が記してある。その最初にいわゆる「愛の奴隷」の定めが見えるのも意味が深い。 解放される奴隷が、主人に対し妻子に対する愛から、自由を望まず、自発的に続いて主人の家に留まることを希望した場合の規定だ。この後彼は生涯「愛の奴隷」と呼ばれて、立場は終身奴隷でも、家族や隣人の尊敬のうちに幸福に生活することができたのだった。 また社会秩序を維持するために、犯罪人を処罰する必要も生じてくる。その場合、反射的、感情的に過剰な刑罰を行うのを禁じたのが「目には目を」の原則だ。  後にキリストが「許しが最も大切だ」という教えの中で、この原則が決して最高の理想ではないことを注意されたのは有名だ。

「民事訴訟」 出エジプト記22章

 我々が社会生活を営む間には、利害関係の衝突や誤解から、隣人との間に悶着や争いが生ずることが多い。この間の調停や裁判がいわゆる民事問題だ。この章には多くの民事問題のケースが記してある。 寡婦、孤児、寄留の他国人をいじめてはいけないという規定から、誘惑されて犯された少女の権利の保護。貧しい人に金を貸す場合に利子を取ることの禁止。生活必需品を質に取った場合に求められる配慮。などの行き届いた律法には感心する。 その反面、魔法使いや偶像礼拝者に対する厳しい刑罰もまた記憶されるべきであろう。

「母の乳と子やぎの肉」 出エジプト記23章

 ここには続いて民事の問題と、安息日の規定、及び年間に行われるはずの三つの祭について書かれている。(その詳細はレビ記に記される) 「子やぎをその母の乳で煮てはならない」という規定は昔から難解だった。 ある人は「異教の中にこういう宗教儀礼があったので禁じられた」といい、ルターは「子やぎを乳離れする前に料理してはならない」という意味にとった。 しかし肉食を常とする遊牧民に対して、極端な無情、酷薄な行為を禁じた律法と考えるのが自然だと思う。ちなみにユダヤ教徒は今でも、乳製品と肉料理を一緒にしない。 鍋や皿やナイフの置場まで区別している。

「旧契約の成立」 出エジプト記24章

 イスラエル人は先祖のアブラハム以来、選民として神との特別な交わりと祝福の関係を許されてきた。 それがアブラハム一家の人格や功績によるものではなく(もちろん彼らは立派だったが失敗もあった)ただ神の一方的な愛と恩恵の選びによることは自明のことだった。 しかし今ここで、イスラエル人の代表者は、モーセを仲介者として、改めて神と契約を立てた。彼らは何回にもわたって「私たちは主が仰せられたことをみな従順に行います」と誓約した。これに基づいて神とイスラエルの間に契約が結ばれた。これがいわゆる「旧契約」と呼ばれるもので「新約聖書」に対して「旧約聖書」の語源となり、エレミヤがエレミヤ書で、パウロがガラテヤ書やヘブル書で論じているテーマだ。 ここで詳細の説明をすることはとてもできない。

「幕屋建設の命令」 出エジプト記25章

 この章から31章までは、モーセがシナイ山で神から受けた「幕屋」建設の命令と「幕屋」の設計である。 この記事は詳細を極め、言葉、あるいは文章による設計図の趣きがある。 「幕屋」は一口で言えば「テント式の礼拝施設」だ。主が「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」「その所でわたしはあなたに会い、わたしが命じようとするもろもろのことをあなたに語るであろう」と言われた通りだ。 ただ当時イスラエル人はテント住いの旅行者だったからこれも移動式テント造りに設計され、それで「幕屋」と呼ばれたのだった。 その材料や費用の拠出も、技術の提供も、労働の供与も、ただイスラエル人の奉仕のみに期待された。そして彼らはそれを立派にやり遂げたのだった。 続いて幕屋内部に置かれる、言わば調度類。すなわち「契約の箱」「燭台」「パンの机」などの製作が命じてある。 いづれも純金でカヴァーされなければならなかった。

「エジプトでの学習」 出エジプト記26章

 この章には骨組みとなる木材の部分。またそれにかぶせるカヴァー部分、及びカーテン類の製作が命じてある。 建築の素材として、砂漠では得難い多量の木材、多量の毛皮、多量の毛織の生地。金、銀、また沢山の宝石を必要とした。いったいどうして彼らはそれを手に入れたか。 第一に彼らはエジプトを出る時、まるで戦争に勝った凱旋の将兵のように、沢山の宝物を得て出発した。これは想像以上の量であったと思われるので、宝石、貴金属に不足することはなかった。同時にそれは豊富な資金となり、必要なものを周囲の民族を通して手に入れるのに役立った。 金銀宝石の細工や、いろいろな織物の技術も、優秀な彼らはエジプトで充分に習得したのだ。世界最大の富強国、文明国に住んだ300年の学習経験は、今この砂漠で神のため、礼拝のために献げられたのだった。