館林キリスト教会

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ショート旧約史 エレミヤ記16〜30章

「涙の預言者」 エレミヤ書 16章1〜13

エレミヤは主の裁きの近いこの緊迫した時代に、結婚や家庭の喜びを禁じられたらしい。また目前のわずかな悲しみに、大げさに泣いたりしないように命じられた。いつも彼は、イスラエルの滅亡を見つめ、それを悲しむ人でなければならなかった。それが預言者というものなのだ。それなのに「わたしたちになぜそんな災いが襲いかかって来るのか」と尋ねる者さえあるのだ。エレミヤは「それはあなたがたの先祖と、あなたがたの罪が招く神の裁きにほかならないのだ」と話し続けた。そして繰り返し悔い改めを勧めたのだ。本当に彼こそ「涙の預言者」だった。

「許しと救い」 エレミヤ書 16章14〜21

イスラエルは度々の反逆のため、アッスリヤ、バビロンの侵略に敗れ、国は滅亡し、国民は捕虜として連れ去られる。しかしやがて彼等の悔い改めと許しの時がくる。その時はバビロンから解放され、彼等は再び帰国を許されるのだ。昔エジプトから救われたのが彼等の信仰の誇りだったが、その以後はバビロンからの解放が、神の恵みに対する信仰の誇りになるだろうというのが、[14,15節]の意味だ。主の許しと救いは、常に我々の信仰の誇りだ。

「罪の記憶」 エレミヤ書 17章1〜8

罪を犯していい気持ちの人はいない。みな多かれ少なかれ、いわゆる良心のとがめを感じるのだ。しかし問題はすぐそれを忘れてしまうことだ。だからけろりとして罪を繰り返すのだ。罪とは「積み重ね」の意味だというが、本当にそうだ。しかし実は[1節]にあるように、罪は神の前(祭壇の角)に、また我々自身の潜在意識のうち(心の碑)に、深く強く記憶されるのだ。裁きの日には、神によって我々の罪は明らかに開陳され、我々の記憶、自覚も明確に呼び覚まされて、一言もなく裁きに服するのだ。いつも厳粛にそのことを思い、恐れ慄いて罪を避けましょう。

「ころころ」 エレミヤ書 17章9〜18

[9節]人間の心は底の知れない不気味な深淵だ。またラッキョウのように幾重もの偽善の皮に包まれているが、奥底に根を張るのは罪の本質だ。だから思いがけない時に思いも寄らぬ物が出てきて本人さえまごつくのだ。日本語の「心」は「ころころ」から来ていると言うが、ころころする心の動きは自分でも制するのが難しい。しかし[14節]にまた言う「主よ、わたしをお救い下さい。そうすればわたしは救われます。」わたしたちが謙遜正直に罪を悔い改め、祈りと信仰をもって主の救いを受け入れる時、キリストの血と聖霊は、私達の罪を許し、根底から、その全人格を造り替えて下さるのだ。

「聖日礼拝」 エレミヤ書 17章19〜27

「安息日には一切の仕事を止めて心身を安め、心静かに礼拝を守りなさい」という、神の恵みの規定がエレミヤの時代にはルーズになっていたらしい。一事は万事だ。これを手始めに、彼等は生活の万端において神の教えを軽んじ無視し、ルーズな生活に堕落していたのだ。エレミヤはその生涯に多くの面から、多くの説教をしたが、ここでは「安息日の規定の無視混乱」を指摘し警告を発している。これは今日のクリスチャン、教会にとっても重要なテーマだ。忠実に聖日礼拝を守らず、何かというと他のものを優先させて礼拝を欠席し、それがあらゆる面に影響するのは、昔のユダヤ人だけではない。

「陶器師と粘土」 エレミヤ書18章1〜11

エレミヤが陶器師の仕事を見ている。うまくできないと、粘土の柔らかいうちに、何度でも壊しては、気にいったのができるまで、また造り替える。エレミヤは陶器師の仕事を見ながら考えていた。これと同じように、人が罪を犯して、神様の怒りを買うことがあっても、柔らかい素直な心で悔い改めれば、神様は何度でも許して彼を受け入れ、祝福の器として造り直して下さるのだと。やがて彼は人々の前に陶器を持ち出して、実物を示しながら、悔い改めを勧める説教をした。しかし彼等は強情でなかなか悔い改めないのだ。

「壷の破壊」エレミヤ書19章1〜13

神様はもう一度エレミヤにメッセージを語るようにお命じになった。エレミヤは、またみんなの前に陶器の壷を持ち出した。「まだ粘土が柔らかい製作の途中なら、失敗をしてもまたなおせる。われわれも柔らかい素直な心で悔い改めれば救われる。しかし失敗作のままで固まってしまったら、どうだろう。その壷は砕くしかない。そのように、頑固で悔い改めないものは、救われることなく、滅亡するのだ」エレミヤはそう言うと、壷を地面に落として粉々に砕いた。これは感銘的な説教だったが、イスラエルの心は堅かった。

「恐れが周囲に」 エレミヤ書20章1〜6

エレミヤの説教は人々、ことにイスラエルの宗教的指導者を激昂させた。祭司の子で神殿の主事、パシュルはその一人だった。彼は下僚に命じて、懲らしめのため、エレミヤを鞭で叩かせ足かせをはめて、人の出入りの多いベニヤミンの門につながせたのだ。エレミヤは主の裁きを語ることが多かったので「恐れが周囲にある」とあだなされた。いまエレミヤは言う。今後主の裁きが現われ、バビロン軍に荒らされる時が来ると、パシュルのエレミヤ迫害が思い出されて、彼が「恐れが周囲にある」と呼ばれるようになるだろうと。

「真情の告白」 エレミヤ書 20章7〜12

エレミヤは神様から召されて、いなむことができずお従いしてきた。これは勿論大切で光栄ある職務だが、実際は祝福よりも裁きを語ることが多く、人々に憎まれ嘲られ、本当に立つ瀬のない思いで奉仕してきたのだ。いっそ、語るのを止めようかと思うこともあるが、人々に対する神のみ思いがこみ上げ、メッセージが切迫して「燃える火が骨に閉じ込められたようで」、沈黙にもまた疲れ、結局再び困難な奉仕に立ち上がる。まことにこれこそ、エレミヤの真情の告白とも言うべき章だ。

「敗戦と亡国」 エレミヤ書 21章1〜11

強大国バビロンの脅威が現実のものとなってくると(これはイラクがアメリカの攻撃を受けるようなものだ)ゼデキヤ王も不安になって、エレミヤに祈りを求めた。普段の不信仰や悪行は棚に上げて、この際神の祝福とか保護とか、勝利の宣告を聞きたかったのだ。しかし、エレミヤは、悔い改めないものに神の祝福がないことを改めて宣告する。バビロンの脅威は、悔い改めの機会だ。悔い改めなしに神の祝福は期待できない。いまのままでは、恐ろしい敗北亡国に終わるだろう。エレミヤは、敗戦の恐るべきありさまを描写して、今こそ王に悔い改めを迫るのだ。

「預言者の苦衷」 エレミヤ書 22章1〜9

何か困った問題が生じて、牧師に相談にくる人がある。実は牧師も人間だから、簡単に人を助ける力はない。ただその人が、神様に結びついて、祈るならば、神様はその人を助けて下さる。これは間違いがない。そこでその困った具体的な問題を、一応棚にあげて、悔い改めと信仰によって神を信じ、受け入れ、祈るように勧める。実はこれが最も近道なのだが、なかなか分かってもらえない。それより具体的な問題の解決だけを期待するのだ。私はエレミヤではないが「悔い改めて神に立ち返ることを除いて、祝福を期待できない」と、繰り返し王様に語らねばならない彼の苦衷も、充分に察するのだ。

「バブルの結末」 エレミヤ書 22章13〜19

バブルの最中には、日本人も随分調子づいて贅沢をした。老人も小娘も怖いもの知らずだった。実はこれは正味のない泡だった。泡がはじけて、いま我々は正味に合った生活を強いられている。しかしあまり膨らみ過ぎたから、正味に戻るショックも大変だ。高速道路から出た車が普通の速度に戻るショックと似ている。イスラエルの王も、贅沢が自分の値打ちを上げたと思い込んでいた。先祖が、貧しい中に正義を行った功績も忘れていた。やがて神の裁きを受けて人々が嘆くとき、悲惨な自分の家族を悲しむ者はいても、王様のことなど、気の毒に思うものは一人もないだろう。エレミヤはそういう。

「悪い牧者」 エレミヤ書 23章1〜8

イスラエルの王や祭司は神に立てられた人民の牧者だ。しかし彼等は特権に甘んじ、贅沢三味な生活を楽しむだけで、人民を守り指導することをしない。人々がこの悪い指導者に見習って、偶像礼拝と不道徳に陥っていても、その裁きが近づいても、王や祭司はその責任を感じないのだ。しかしやがて時がくると、神に立てられる真の牧者が現れるだろう。そのとき人々はこの牧者のもとで、安んじて祝福の生活を送ることができるだろう。この預言はキリストにおいて成就した。主はいいたもう。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と。

「大事故」 エレミヤ書 23章9〜15

暗闇の道がある。おまけにその道はすべる。あとから群集が無理やりに押すので、雪崩を打って人が倒れ、その道に折り重なって死ぬ。そういう悲惨な事故がある。イスラエルの指導者である祭司、預言者、それに一般民衆は、まるで事故のような、恐ろしい罪と滅亡に落ち込もうとしている。エレミヤは幻のように、その恐ろしくも悲しい場面を見るのだ。恐怖のためにエレミヤの心臓は破れ、骨々は震える。酔っぱらった人が正座できないように、彼はふらふらになっている。聖なる神の言葉と人々の罪と無関心の間にいて。

「にせ預言者」 エレミヤ書 23章16〜22

にせ預言者たちは、自分の主観や、また人の気持ちにおもねって、適当な言葉を語っていた。主の言葉を軽んずる者に向かっても、忠告することなく、「あなたがたは平安を得る」と言い、強情に自分勝手な生活を送り、神に従わないものにも「あなたに災いは来ない」と、調子のいいことを言うのだ。彼等は神に遣わされもせず、神の示しも受けていない。神は彼等の言葉に責任をお取りにならない。それゆえ「彼等に聴いてはならない」と言われる。誤った案内人は、誤ったところに人を導く。盲人が盲人の手引きをすれば危険が見えず、ともに穴に落ちるのだ。

「削岩機」 エレミヤ書 23章23〜32

[26節]以下に「主の言葉」について教えられている。「誠実に語られた主の言葉は麦のようだ」それは人の魂の養いなのだ。しかし人の思いで語る場合は、栄養にならないこと藁のようだ。「主の言葉は火のようだ」。火は、寂しい、沈んだ心、無為憂鬱な生活を燃え上がらせる。彼は明るさと熱気を取り戻すのだ。み言葉はまた「岩を打ち砕く槌」のようだ。頑固な高慢な心も、誠実に語られる主の言葉によって、砕かれ謙遜にされ、やがて彼は信仰によって主を受け入れるのだ。まるで「削岩磯」のようだ。そこに掘られた穴から、人格の根底に、神様の、恵みと力のダイナマイトが仕掛けられるのだ。

「いちじく」 エレミヤ書 24章1〜10

「果物」の語源は「腐す(くだす)もの」だというが、おいしい果物は腐りやすい。バビロンとの敗戦の結果、多くの技術者その他が捕虜になって敵国に連れて行かれた。しかしこの苦しい経験を通して彼等の中に強い悔い改めが生じ、後のイスラエル回復の萌芽となった。しかるに、捕囚を免れて本国に残った幸運なイスラエル人は、結局反省が足らず、バビロンに反抗を続けた結果、さらに過酷なその攻撃を受けて、徹底的な亡国を招くことになる。エレミヤはその両者を、まだ食べられるいちじくと、腐り果ててもう食べられない、いちじくとにたとえたのだ。

「70年間」 エレミヤ書 25章1〜14

エレミヤはすでに23年間預言を語った。しかしユダの王も国民もそのメッセージに従わなかった。それゆえ[8〜14節]の宣告的メッセージを伝えなければならなかったのだ。しかし彼はここに「この地は70年の間、バビロンの王に仕える」という、有名な予言をも語った。これは、捕囚になったダニエルたちを励まし、さらに多くの「回復の予言」が現れ、結局、70年後には、クロス王によるイスラエル解放令、帰国許可となり、ユダが再び国を形成するまでに至るのである。エレミヤは本当に息の長い預言者だった。

「裁きの杯」 エレミヤ書 25章15〜27

神はエルサレムに対して「裁きと滅亡の杯」を飲ませる。そのエルサレムを攻撃するバビロンにも、強大なエジプトにも、その他の諸国にも、遅かれ早かれ同じ杯が突きつけられる。ここに神の裁きを「杯と酒」に例えたのは面白い。酔っぱらった人はだだ威勢がいいばかりで、誘惑には勝てない、喧嘩はする。支離滅裂だ。あらゆる悪徳と危険にさらされながら、自分ではそれに気が付かない。酔っぱらいはみずから裁きと滅亡を買っているのだ。エレミヤは、贅沢と戦争に奔走する世界に向かって、このように警告するのだ。

「外道の逆恨み」 エレミヤ書 26章1〜15

犯罪人が自分を逮捕した警官を恨むような場合を、昔から「外道(正しい道に外れた人)の逆恨み」と言う。エレミヤは神に遣わされて「今のままではあなた方は滅び、この神殿も、先に滅亡したシロの神殿のように荒廃するだろう。しかし今でも悔い改めれば神は許したもう」という恵みの言葉を語ったのだ。国の司、祭司、預言者などがこれを怒り、エレミヤを逮捕し、裁判にかけ、できたら殺してしまおうという、何と情けないことだろう。神の選民であるのに。これこそ「外道の逆恨み」もいいところだ。エレミヤは一切を神の手に委ね「私の命はあなたがたの手中にある。好きにせよ」という。

「長期預言者」 エレミヤ書 26章16〜24

当時の宗教家、祭司と預言者は、この際、エレミヤを殺してしまおうとしたが、一般人や、その代表者の司はこれに反対した。結局アヒカムが責任をもってエレミヤを助けたのだ。エレミヤは度々生命の危険に会いながら、その都度助けられた点でも不思議な預言者だ。エレミヤに関しては、長期にわたる奉仕を神は望まれたのだろう。ここに引用された、シマヤの子ウリヤなどは、わざわざエジプトまで捜索隊を出して殺されているのに。新約でも、兄のヤコブは12弟子中最初の殉教者となり、弟のヨハネは100才まで生き延びた。それもこれも、神のみ心だ。

「綱とくびき」 エレミヤ書 27章1〜11

ユダが度重なる背きの罪のために戦争に負け、バビロンに捕虜として連れてゆかれるのは、もはや免れ得ないことだった。しかしにせ預言者たちは、神の保護と助けを言い立てて、バビロンに対する抵抗戦を呼びかけた。いかにも威勢のいい愛国的言動に見えるが、実は今は罪を悔い改めて、一時の神の裁きを受け入れるのが、みこころであり、更生につながる道だったのだ。エレミヤはそのことを悟らせようと、例の如く、実物教訓のため関係者に綱とくびきを送り、彼等を警告したのだ。

「神殿の器物」 エレミヤ書 27章16〜22

神殿に置かれた礼拝用の器物は、イスラエルがその富を傾けて作成し献納した、彼等の宝物であるとともに、敬虔と愛国心の象徴だった。その大部分がバビロンによって略奪されたのは、残念至極なことだった。ある預言者は威勢良く「それらはすぐに返される」といい、エレミヤは「今は悔い改めて神の裁きを受け入れ、バビロンに恭順しなければならない。そうでないと、残された器物さえも、あらいざらいバビロンに持ってゆかれますぞ」と警告する。しかし同時に「イスラエルの悔い改めが認められ、神の裁きの期限が過ぎ去ったとき、これらの器は再びエルサレムに返されるだろう」と教えた。

「象徴のくびき」 エレミヤ書 28章1〜10

真の神の示しを求めず、ただ大勢の喜ぶ威勢のいい予言をし、かえって人々に道を誤らせる預言者の中で、ハナニヤは親分格の人物だった。はしなくも今、神殿でエレミヤとハナニヤの論争対決となった。この頃エレミヤは警告の象徴の「くびき」を、自分の首にかけたまま生活していた。これも無言の説教だったのだ。ハナニヤは「バビロンのくびき」からの解放を華々しく語ったあと、エレミヤの首から「くびき」を奪い取って人々の前で砕いた。民衆は歓声をあげて喜んだかも知れない。しかしエレミヤは黙々と立ち去った。

「平安と希望」 エレミヤ書 29章1〜14

罪を犯して神の罰を受けた場合、これも絶望ではないことを信じなければならない。真実に悔い改めて、甘んじて主の罰に服し、主の憐れみによる許しと回復を信じ待ち望むことが必要だ。エレミヤがバビロンに捕囚になったイスラエル人に求めたのも、この態度だった。「焦らずに、当分は捕囚の地に安住し、忍耐をもって主の許しと解放を待ち望め」と。かくて有名な「七十年後の解放」の予言が語られる。そして、よしんば主が時に人の罪を裁きたもうにせよ、その真意は「わざわいを与えるのでなく、彼に、平安、将来、希望を与えるにある」と告げるのだ。

「言論の混乱」 エレミヤ書 29章15〜28

バビロンの攻撃と略奪は何回も行われ、その度にイスラエル人は捕囚となった。また捕囚を免れて本国に残される者もいた。さてエレミヤはと言うと彼は最後まで本国に残されたのだ。それは平素の言動から、彼がバビロン人から「親バビロン派」と見なされたからだが、ここにも思いもよらない彼の悲劇があった。さて捕囚地バビロンにも本国にも、多くの預言者がいて、ほとんどが、愛国的、激励的な予言をして、人心を振起しようとする。エレミヤは相変わらず、バビロン恭順を勧める。これに対する反発も激しく、まさに、言論の混乱と言わざるを得ない。

「記録預言者」 エレミヤ書 30章1〜11

ここに「わたしがあなたに語った言葉を、ことごとく書物にしるしなさい」とある。昔の預言者、エリヤ、エリシャなどは、こういう命令を受けなかった。彼等は主としてその時代の人々に向かってメッセージを語ったのだ。しかしイザヤ、エレミヤの時代には、メッセージを聞く人々が頑固で、彼等の裁きと滅亡は確実となりつつあった。それゆえ、彼等後期預言者のメッセージは、書き残してはるか後代の人に読まれ、その確実性が証されることを期待しなければならなかった。彼等を区別して「記録預言者」などと呼ぶが、彼等はつらい奉仕を命じられたのだ。

「いやし包む」 エレミヤ書 30章12〜20

[12〜15節]には、罪のために神の祝福と保護を失ったイスラエルの、国は滅び、外国の捕囚になって、異邦人の虐待と嘲笑にさらされている様子が、瀕死の病人のようなあわれな形容で記されている。しかしかくもイスラエルをしいたげた異邦諸国は、いつまでも安泰であろうか。いや、思い上がった彼等にも裁きの日がくる。彼等の裁きの日はイスラエルの回復の日だ。[16〜20節]にそのことが記してある。これもまた神の約束なのだ。ホセアも言う。「さあわたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを撃たれたが、また包んでくださるからだ」 。