館林キリスト教会

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ショート旧約史 イザヤ書1〜19章

「罪のレプラ」 イザヤ書 1章1〜20

今日からイザヤ書に入る。彼は開巻まず神に背いた人間の罪と、罪を犯したままで捧げるそらぞらしい礼拝の、神に憎まれることを指摘する。罪のために人間が呪われ、また社会が害毒を受け、さながらレプラ患者のような状態にあることを、まずイザヤは訴えなければならないのだ。名医はまず患者の病気を、正確に診断しなければならない。そしてこれを癒さなければならない。「仏心鬼手」といわれるくらいだ。そしてイザヤは18節以下で、いかなる罪も許し清め、受け入れてくださる、神の救いの約束を告げるのだ。これは長いイザヤ書のメッセージの要約で、おのずから、その序文をなすものである。

「愛と正義」 イザヤ書 2章1〜22

[6〜11節]には神に背いたイスラエルの裁きが[12〜22節]には同じく周囲の国々の審判が記されている。しかし[1-4節]は主の再臨の日に、罪を悔い改め、許されたイスラエルの回復と祝福が記されている。そこではイスラエル、及び教会が今の政府や権力や、軍隊などに替わって、神と聖書の光に従い、愛と正義と公平をもって世界を指導する。世界もこれを喜び、歓迎、服従し、その結果、世界に平和と、幸福と、喜びの日が来るのだ。[11節]に、「高ぶるものは低くせられ、おごる人はかがめられ、主のみ高くあげられる」とあるのがその理由だが、同じ条件なら今でも、家庭、教会、社会に、平和、幸福、祝福が満たされるのだ。

「良い指導者」 イザヤ書 3章1〜17

神に背いて裁かれるユダヤ人は、あらゆる物に欠乏するが、ここには彼等が有力な責任者、指導者がいなくて困惑する様が描かれている。これはパンや水の欠乏より困った事態なのだ。誰かに頼んでも指導者になりてがない。また信頼し安心して指導を任せる人材もいない。信仰のないものに神の家の指導はできない。良い感化力を持たないものも指導者にはなれない。信仰と霊的な力を失えば、もうその教会には人材はいなくなるのだ。我々は良い責任者、リーダーに恵まれている。しかし安心ばかりしていないで、力ある良いリーダーがさらに続出するように祈り、また心がけねばならないと思う。

「救いの日」 イザヤ書 4章2〜6

イザヤの心は、神に示されてイスラエルの罪と滅亡を預言する時沈鬱(ちんうつ)となり、反対に神の憐憫(れんびん)と救いを語る時には昂揚する。ここに「その日」というのは、主の救いの現れるときだ。「主の枝」はキリストのことだ。その日には主のみ名に栄光を帰せられる。イスラエルの救われた者に、誇り、光栄となるほどの豊かな産物が与えられる。キリストによって罪が許され汚れが清められるからだ。そして昔のようにイスエルは神の臨在の象徴である「雲の柱火の柱」に覆われ、これは祝福のテントのように、暑さからも雨からも、彼等を守るのだ。

「葡萄畑の歌」 イザヤ書 5章1〜7

ここに「愛するもの」と歌われているのは神様である。イザヤは神の示しによって、また神様のみ心を察して、この歌を歌う。ここではイスラエル、人類全体は葡萄畑にたとえられている。イザヤは神と共に、彼等が神の祝福とご期待に反して、堕落してしまったことを嘆くのだ。今誰ひとり、この世を美しい花が咲き乱れ、甘美な果実の実るすばらしい天国と、感じるものはいない。不潔と混乱と闘争の恐ろしい社会だと思っている。しかしそれは神のご責任ではない。人間が神に背き、堕落し、神の祝福を失った結果なのだ。しかも神はその人間を哀れみ、イエス・キリストによる救いを、設けてくださったのだ。

「貧富の差」 イザヤ書 5章8〜17

キリストは山上の説教の序論で、「幸いなるかな」の言葉で、祝福の条件を七つ挙げた。ところがイザヤの4、5章には「わざわいなるかな」という神の呪いの言葉が七回出てくる。六回までは5章に、当時のイスラエルに対する裁きの言葉としてあらわれ、また6章には、預言者イザヤが神に示された自分の罪を嘆く言葉として出てくるが、これも意味深いことだと思う。イスラエルの罪とは何か。権力者が限りもなく財を増やし、贅沢と歓楽に明け暮れ、貧しいものが困苦のうちに放置される状態はその一つだ。これは資本主義社会の罪悪として指摘されるところだが、いまや、共産主義社会の同病もまた明白だ。

「罪の社会」 イザヤ書 5章18〜30

[19節]には神とその裁きに対する大胆な侮蔑の言葉がある。[20節]はいわゆる詭弁だ。[21節]には独特の自信、ふてぶてしさが言われている。[22節]は快楽に明け暮れする様子が、[23節]には賄賂の横行が書かれている。これがイザヤ時代のイスラエル社会の、実態だったのだ。しかしこれをこのまま現在の日本に置き換えても通用するようだ。人間の罪の姿は、昔も今も変わらないと見える。しかしイザヤは続いて[24節]以下に、イスラエルに対する神の裁きを語らなければならない。東方の強大国アッシリヤはすでにイスラエルに対して食指を動かし、虎視耽々と狙っている。彼等の凶暴な軍隊が襲いかかって来るだろう。

「聖なる臨在」 イザヤ書 6章1〜13

イザヤは神殿の礼拝において常ならぬあざやかな主の臨在に触れた。すばらしい経験だったが、かえって、ここでイザヤは深刻に自分の罪を自覚する。今までイスラエルについて「わざわいなるかな」と警告したのに、実は自分も彼等の仲間で、程度の差こそあれ「わざわいなる」存在であるにかわりがないことを告白するに至った。ここで主の取扱いを受けたイザヤは、いよいよ本格的な預言者として立ち上がることになった。しかし彼が預言すると、かえって人々の心が堅くなるような、苦しい辛い奉仕も、覚悟しなければならなかった。

「処女懐胎」 イザヤ書 7章1〜17

イスラエルの王ペカが異邦のスリヤ王と結託して、同胞ユダを攻める。しかもその計画が、異邦の王家タビエルの子をもって、ユダ王家の血統に換えようという陰謀のためだった。まことに言語同断だ。イスラエルでは悪政と革命の結果、王家はいくつも入れ替わった。やがて救い主が生まれる予定のユダの王家の方は、一統連綿としている。これを憎み妬んでの戦争だった。怯えたユダ王にイザヤは語る。「恐れてはいけない。神は約束の血統を守り給う。ユダの一処女が男子を産む。これがその標だ」と。やがてこの預言はマリヤとキリストとにおいて、完全な成就を見るのだ。

「国土の荒廃」 イザヤ書 7章18〜25

イスラエルはもともと遊牧民だが、次第に農業に進んできた。農業は遊牧に比べて50倍の生産があり、それだけ生活も向上し、文化も発達するというものだ。いまイスラエルは、シリヤと一緒になって、同胞ユダヤを攻めたので、神の怒りを買うことになった。やがて彼等の裁きのために、さらに東方の強大国アッシリヤの、蝿のように群がる軍隊が全地を攻撃し、国を荒しまわることが預言されている。即ち耕された畑も再び荒野と化して、弓矢で狩猟するようになる。わずかな家畜の乳で満足するほど、生活程度は下がるのだ。まるでイスラエル王と全国民は、敵国の剃刀で髭を剃られた、捕虜のようだと。

「預言のしるし」 イザヤ書 8章1〜22

イザヤは続いてダマスコ(シリヤの都)サマリヤ(イスラエルの都)。ひいては必要以上に震え上がっている不信仰のユダにも、襲いかかろうとする、アッシリヤ軍の攻撃を預言する。[16節]以下は、この警告の預言が、同胞に受け入れられないイザヤの悲しみの言葉だ。今は後日の証のために、この預言を集め、記録し封印して、預言者の結社、つまり弟子たちの中に保存して置こうと言うのだ。「主は不信仰、不従順のイスラエルに対し、そのみ顔を隠しておられるが、我々はあくまで主に祈り、主を待ち望もう。我々こそが、やがての救いのために、証としてこの国に留めて置いて下さる、わずかな『しるし』なのだ」と。

「救いの光」 イザヤ書 9章1〜12

イザヤ書のような預言書は「詩」の形で書かれている。従って「挿入文」が多い。裁きの宣告の間に救いの約束が挿入されたり、キリストの栄光の叙述の間に、その苦難の預言も語られる、という調子だ。ここではイスラエルとユダの罪を指摘し、その罰としてアッスリヤの攻撃を預言する間に、やがて与えられる救い主キリストを示している。罪も罰も、呪いも暗黒も、救いの光を受け、平和と繁栄と喜びに満たされる。キリストは一人のみどり子としてお生まれになるが、やがて神の栄光を受け、ダビデの位について世界を支配するのだと。

「罪の山火事」 イザヤ書 9章13〜21

南米あたりの広大な地域では山火事もけた外れに恐ろしい。逃げるも走るも間に合わない。人も動物も町も村も焼き尽くしてしまう。しかし罪の山火事はもっと恐ろしい。神を恐れる心が失われ、不潔、低級、不道徳が蔓延する。そしてわざわざ神様が天から火を降らせないでも、人間同士の愛が枯渇し、自己中心と貧欲と、他人に対する冷酷から、闘争、戦争と、弱肉強食の火が社会全体に燃え広がる。仏教にいわゆる「火宅」だ。実はこれは今現在の社会の現実とも受け取れる。ペテロはペンテコステの説教の中で人々に警告して言う「この曲がった世から救われなさい」と。

「権力の不正」 イザヤ書 10章1〜11

権力者の不正はいつの時代でも目に余るものだ。強国の小国に対する横暴も、幾らでも数え上げることができる。この世では結局弱いもの小さいものはいつでも泣き寝入りだ。しかし神はこの事態をいつも見ておられる。民を守り養うために権力を託された人々が、本来の役目から逸脱し、極端な弱いものいじめをすれば、ついには神の罰を受ける。ヒトラーもムッソリーニもスターリンも最後には裁かれた。ここでいま、イスラエル、ユダが裁かれようとしている。その裁きの使者として派遣されるアッスリヤも、いい気になっていばり、極端な乱暴を働けば、やがて同じように神の裁きを受けることになるのだ。

「斧の誇り」 イザヤ書 10章12〜19

興隆の絶頂期のアッスリヤは、神の裁きを執行する器として、選民イスラエルを攻撃することを許された。しかし「斧が用い手に対して誇る」ように誇るならば、今度は逆に自分が神の裁きに遭って滅ぼされる。時代は移り、権勢も凋落する。終末の時が来ると今度は反対に、悔い改めたイスラエルが神の祝福を受けて、諸国を支配するようになる。あくまでも神に逆らうならば、今度はイスラエルが神に代わって諸国を裁くことになる。しかし、[13,14節]は、うっかりすると我々も言い兼ねない、恥ずべき傲慢の言葉だ。「自分が自分の力でやったのだ」と誇らぬように、注意深く主だけを崇めてゆきたい。

「中間時代」 イザヤ書 11章1〜16

この章の最初の部分は、キリスト誕生の預言で、よくクリスマスに勉強するところだ。後半はキリストの再臨と栄光、再臨によって完成する神の国の平和、イスラエル民族の許しと救いと勝利、繁栄が預言されている。ここにはキリストの召天から再臨までの中間の時代の記述が抜けている。この間こそ、異邦人の教会が全世界に伝道するいわゆる教会時代なのだ。ユダヤ人はこのことを深く理解できなかった。そのため救い主はいきなり栄光の王としてお いでになると期待しすぎ、実際の主の受難の姿に失望し、排斥したのだった。

「救いの喜び」 イザヤ書 12章1〜6

自分たちの先祖の罪のためとはいいながら、ユダヤ人は長い間神の裁きを受けて、亡国の民として全世界に放浪し、多くの苦難を経験してきた。しかし最後には罪も許されて、再び神にえらばれた選民としての、栄光と使命に回復する。これはイザヤ書に繰り返される一つのテーマだ。しかしそれと同時に、ここに歌われている救いの感謝と賛美はそのまま異邦人の中から救われた、我々クリスチャンの賛美である。「見よ、神はわが救いである。私は信頼して恐れることはない」とは、なんとすばらしい信仰の告白であろうか。この信仰が我々にも与えられたことは、何とすばらしく、尊い神のあわれみだろうか。

「バビロン滅亡」 イザヤ書 13章1〜16

人の世の栄枯盛衰ほど定めなきものはない。「驕る平家は久しからず」という言葉のとおりだ。バビロンはBC600年ごろから栄えた最初の古代帝国で、その版図はペルシヤ湾から地中海に及んでいた。ユダヤが完全に滅びたのはこの国の攻撃を受けた結果だった。しかし全世界を占領して大帝国となり、奢り高ぶったこの国もやがて滅亡する時が来ると、彼等が他国攻撃の際に行った残虐行為を、今度はそのまま、自国民が受ける運命に見舞われるのも仕方がない。これが神の裁きであって、歴史に繰り返された事実だ。イザヤはここで、やがて来るバビロン滅亡の様子を、目にみるように預言しているのだ。

「無欲の強さ」 イザヤ書 13章17〜22

バビロンはメデヤに滅ぼされるというがそのメデヤについて「しろがねをも顧みず、黄金をも喜ばないメデヤ」と言っている。これはその強さの理由だった。昔の平家は、無欲で強い軍隊の力で天下を取った。しかし間もなく彼等は、京都宮廷の、貴族公卿の文化を見習い、柔弱になっていき、今度は東国の、無欲で強い、野武士集団の源氏に滅ぼされた。西郷隆盛は金も命も名もいらぬ人間ほど始末に悪いものはない。しかしそんな人間でなければ、共に天下を語るに足りない」と言った。聖書にも「金銭を愛することはすべての悪の根である」とあり、これが少なくもクリスチャンの霊的な力を失わせることは事実だ。

「強国と弱小国」 イザヤ書 14章1〜11

イスラエルは自分たちの罪のためにバビロンに滅ぼされた。彼等はその後も、数千年の間亡国の民として世界に放浪し、迫害を受けた。ナチスドイツによる数百万人虐殺のような悲惨なケースもあった。これは神の裁きである。しかし強い民族と国家による、弱い民族の圧迫は、世界的、歴史的な一般現象だ。さてやがて世界に終末がくる。その時神は強大国の横暴を裁きたもう。弱小な民族もその時には所を得るのだ。特にイスラエルの審判の期は満ちて、彼等の回復と祝福と勝利の日がくる。選民に対する神の約束は成就する。これは繰り返し語られるイザヤのテーマだ。

「悪魔の堕落」 イザヤ書 14章12〜21

傲慢と贅沢に耽るバビロン王が、たちまち神の裁きのもとに滅亡し、敗北と恥辱にまみれるさまが、ここにも預言されている。しかし、バビロン王の預言にしては異常に大きく強い表現になっている。そこで昔から「これは合わせて悪魔の堕落の事が言われているのだ」という解釈が行われて来た。悪魔は最初は最高の天使だった。しかし彼は神に対する傲慢と反逆に陥って、ついに神の裁きを受け、天を追われ地獄に落ち、ついに神に逆らう存在となったのだといわれるのである。「神は高ぶる者をふせぎ、へりくだる者に恵みをたもう」とあり、真に心すべきことだ。

「火事場泥棒」 イザヤ書 15章1〜9

火事場に紛れ込んで泥棒をするのは最低だ。イスラエルの国力が衰えて、アッスリヤ、バビロンに滅ぼされた時、近所の劣等民族が一緒に攻め込んでイスラエルを略奪した。彼等について、14章でペリシテ、この章ではモアブ、続いてシリヤ、その他の国の裁きが記してある。大戦の末期、当時の中立国ソ連を通して、米英に降参しようと斡旋を頼んだ日本に、いきなりソ連軍が攻撃をかけて来た。これも一種の火事場泥棒だから、その後長く日本人のソ連不信を招いたのも、仕方がなかったと思う。

「傲慢と涙」 イザヤ書 16章1〜14

[6節]にモアブの傲慢な態度が書いてある。いわゆる「中身のない、自信傲慢」だ。[9節]には神の裁きを受けて、衰亡に陥った時の彼等の涙が記してある。まるで「涙の洪水」のありさまだ。しかも[12節]にあるように、その時「聖所にきて祈っても」その祈りは聞かれないから効果はなく「ただ疲れるだけだ」という。これは悔い改めない罪人の姿だ。黙示録にも、最後の裁きの日に神の怒りにさらされるよりは洞窟に隠れて、山や岩に向かい「我々の上に落ちかかって、主の怒りの顔から隠してくれ」と叫ぶ王侯貴族が出てくるのだ。

「鳴り轟く諸国」 イザヤ書 17章1〜14

シリヤの首都ダマスコは、世界で最も古い町の一つだといわれているが、イザヤはこの町についても滅亡を予言している。この辺はほとんど諸国滅亡の予言が繰り返されているのだ。「ああ多くの国は大水のように、鳴りとどろく。しかし神は彼等をもみがらのように、塵のように追いやられる」と[13節]に言われている。ソ連はもとより、東ヨーロッパも鳴りとどろき、日米構造協議も、空母ミッドウエイも爆発で鳴りとどろき、日本の株主総会も鳴りとどろいている。「しかし神は(やがて)彼等を懲らしめられる。夕暮れには恐れがある。夜の明けないうちに彼等は失せた」[14節]。ああこれでさっぱりした。

「落魄(らくはく)のエジプト」 イザヤ書 18章1〜7

イザヤの預言はほとんど全篇美しい詩である。声に出して朗唱するとよく分かる。ここと次の章にわたってエジプトに関する預言がある。[1,7節]のエジプト人の描写などはすばらしく、古いエジプトの壁画か彫刻を見るようだ。[4〜6節]には独特のエジプトの気候や収穫、またその果樹園も荒れはてて、そこに動物がごろごろしている様子なども、みごとに描かれている。しかしこれは文学ではない。繁栄し、のさばっている国に対する、主の怒りの預言だ。いまエジプトに行けば、この預言が成就した結果をよく見ることができる。昔の栄光と、いまの貧しさを比較すれば、誰しも感慨なきを得ないでしょう。

「深い因縁」 イザヤ書 19章1〜15

昔イスラエルは、エジプトに寄留して、農業技術や社会組織、学問芸術を学んだ。その反面迫害を受けて絶滅の危機にさらされ、神の干渉によって救われた。その後もイスラエルは、南方の強大国エジプトと、北方のスリヤ、バビロンなどの強大国に挟まれた小国の苦労を長く経験してきた。その因縁は浅くない。戦後も両国はシナイ半島を戦場に何回も戦った。今はサダト大統領等の尽力で国交が回復し、経済的にも立ち直りつつある。しかし行ってみるとやはり両国境の警備は厳しく、将来の予断は難しい。でもこの章の終わりにイザヤが、やがて両国も共に神に仕えるという預言を語っているのは嬉しい。