館林キリスト教会

Contents

ショート旧約史 イザヤ書40〜54章

「ママ会員の活躍」 イザヤ書 40章1〜11

「主は牧者のようにその群れを養い、かいなに小羊をいだき、ふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる(11節)」子供を連れたお母さん方が奉仕のために教会に見えられる。牧師夫妻がその子供の面倒を見ていると「かえってご迷惑ではないですか」とよく言われた。その時牧師は、たびたびこのみことばから、乳飲み子を抱えたお母さんがほかの人と同じに奉仕に預かるのは、聖書的なことで、牧師がそれを助けるのもまた聖書的なことだとお話しした。結婚して子供のできたママ会員が、教会の奉仕の戦列から外れないで、なかなか積極的に活躍しているのは、教会の誇りだ。

「文章読本」 イザヤ書 40章12〜26

わたしは若い伝道者に「説教の訓練にイザヤ書を朗読するといい」と勧めます。イザヤはここで神様のことを話すのに「非常に」とか「絶大に」とか、なまな、抽象的な副詞を使いません。具体的で、生き生きした、目に見えるような描写力で神様のことを、天地の支配者、偶像との対比、空しい人間との対比というように、語ってゆきます。なんとすばらしい文章でしょう。我々の口調が、こういう文体に慣れてきたら凄いと思います。朗読を勧めるゆえんです。聖書は最高の説教教科書で、また最高の文章読本です。せっせと読まねば損ですよ。

「休養、娯楽」 イザヤ書 40章27〜31

「主を待ち望む者は新たなる力を得る」は、英語で「リクリエーション」と訳される言葉だ。これは普通「休養、娯楽」などの意味に使われる。コンピューターなどにインプットしてある情報や指示を消去するのも、クリアーという。いま祈りをもって神を待ち望む者は、疲労、倦怠、マンネリなどをクリアーされて、静かに休息することができる。そして心気溌刺、再び新鮮な命と心に甦ることができる。これはそういう約束だ。世的な娯楽は、しばしば安逸や脱線の機会になる。「主を待ち望む」のは、最も健全で、しかも、最も本質的なリクリエーションなのはすばらしいことである。

「工事現場」 イザヤ書 41章1〜7

「彼等はおのおのその隣を助け、兄弟たちにいう『勇気を出せよ』と。細工人、鍛冶屋、はんだづけする者、釘を打つ者もお互いに『よくできた』と励まし合う」なかなか良い空気で工事が進んでいるようだ。幕屋、神殿の建築の様子も思われる。今日は教会総会だ。教会もまた一つの建築現場だ。今日もお互いに勇気をつけあい、奉仕を励ましあいたいものだ。「神から賜わった恵みによって、私は、建築師のように土台を据えた。他の人がその上に建てるのである。しかしどういうふうに建てるか気をつけるがよい」と使徒パウロもいっている。

「主のお約束」 イザヤ書 41章8〜16

主は、語りたもうたお約束を変えず、お選びになった民を、よし怒り罰することがあっても、見捨てない。二千年の間罰を受けて世界に放浪した、神の選民ユダヤ民族が、徹底的な迫害にも滅亡せず、散らされていた130近い国々から集められて再び国を成した事実はそれを物語っている。我々も、その信仰生活において、間違いも失敗も多かった。それゆえ同じく「われらの滅びざるは主の寛容による」のである。また、「私達は不真実であっても、彼は絶えず真実である」とあるとおりだ。「主なる神は言う『恐れてはならない。わたしはあなたを助ける』と」ありがたいことだ。

「救いの水」 イザヤ書 41章17〜24

日本は「豊葦原の水穂の国」などといわれるくらいで、至るところ植物が満ちて美しい。それが砂漠の国にゆくと、水がないために荒涼として、花も咲かず鳥も歌わず、本当に淋しい景色だ。それは神の祝福を失った人間の心と生活そのままだ。反対に神の救いと祝福は水に例えられる。キリストは「私の与える水を飲むものは永遠に渇かない」と言われたが、ここには同じ真理が、もっと目に見えるように、詩的に、美しく語られている。砂漠に救いの水が湧いて、自由に飲める。洗面、洗濯もできて、きれいになる。立派な植物も生い茂るのだ。

「傷ついた葦」 イザヤ書 42章1〜9

イザヤ書は、救い主の預言に満ちている。キリスト自身もそれを自覚していて、たとえばこの章の預言は、マタイ11章に、12章に、ご自身が救い主である証明として引用しておられる。ことに[2節]以下のみことばは尊い。我々は最近選挙運動の、町中になり響く、身も世もあらぬ叫び声を聞いた。また戦後のイラクで、相も変わらぬフセインが、抵抗するクルド人やシーア派を虐殺するのを見た。キリストには、大声を町中にあげることはなく、また力ずくの強制もない。そして折れ葦のような無価値なもの、ほのぐらい灯心のような弱いものも見捨てず、やさしく丁寧に、救いと生涯の完成に、導いて下さるのだ。

「新しい歌」 イザヤ書 42章10〜17

考えてみると我々には歌がなかった。涙、別れ、雨。そういう言葉が古今集以来現代の歌謡曲に至るまで、日本の歌の最多用語だそうだ。カラオケなどでも、そういう寂しい歌が好まれるそうだ。歌謡曲で明るくなり、希望を歌っても、不自然でそらぞらしくて気が乗らない。やはり嘆き節になってゆく。これが人間生活の基調で自然な心情なのだから仕方がない。しかし我々はクリスチャンになって歌が変わった。つまり新しい歌を歌うようになったのだ。クリスチャンにとっても、人生はきびしい。しかし我々の歌はつぶやき嘆きに終わらない。信仰と祈りの告白があり、神に向う、感謝と喜びの声があるのだ。

「神の嘆き」 イザヤ書 42章18〜25

たびたび学んできたように、イスラエルの滅亡は、彼等の罪が神の裁きを招いたからだ。いったい真心からする忠告が聞き入れられないほど、もどかしく残念なことはない。そしてその結果が現れて、みるみるうちにその人が駄目になってゆくようなことがあれば、悔しいとも悲しいとも言い様がないだろう。ここに書かれた神の嘆きがそれだ。繰り返し示される神の警告も、本当の預言者がいないため、イスラエルには届かない。また語っても彼等は聞き入れない。その滅亡は必至になりつつある。いったい世に、かくも愚かな盲人聾唖者があろうかと、神はなげかれる。

「裁きと許しと回復」 イザヤ書 43章1〜7

神は罪を犯したイスラエルに対して厳しかった。バビロンに滅ぼされただけでなく、AD70年にはローマの総攻撃を受けて滅亡し、亡国の民として、侮辱と迫害の二千年を経験した。しかし「神の慈愛と峻厳とを見よ」のお言葉のとおり、神はその民を最後的には見捨てず、許し回復してくださるのは、現在のイスラエルの再建国の歴史を見ても明らかだ。この章はその預言ともとれる。今朝は礼拝でダビテ王の失敗と神のあわれみによる回復を学ぶ。ダビデもその謙遜な素直な悔い改めによって、恐ろしい罪を許されたのだった。真に「主の寛容こそわれらの救い」だ。

「神の証人」 イザヤ書 43章8〜13

イスラエルは時々「目しい」「耳しい」のようになって、神様を悲しませたが、それでも選ばれた神の証人であることに違いない。ここに「わたしは神である」「あなたがたはわが証人である」と書かれているのはその意味だ。神は自らご自身を示し、自らその栄光をお現しになるが、しかし神を信ずる人が用いられて神を証し、神の栄光を現すのを期待しお喜びになる。イスラエルもそのために立てられ、われわれにもそのことが求められているのは何と光栄ではないか。パウロも「飲むにも食べるにも何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」と言っている。

「新しい信仰」 イザヤ書 43章14〜21

マンネリズムは困り物だ。まして「敗北感」「どうせ駄目だ」式の、癖になった思い込みは困る。亡国を繰り返したイスラエルがこういう敗北感の虜となったのは無理もない。しかし[18節]以下に神は言われる。「済んでしまった先のことを思い出すな、見よ神は新しいことを成される」と。我々も自分の無力、失敗に心を奪われ、大胆に神を信ずることができなくなりやすい。しかし失敗を積み重ねたイスラエルに対してさえ神は激励の言葉をおかけになるのだ。罪は悔い改めよう。失敗は反省しよう。しかし我々は敗北感を払い捨てて、新しい信仰と勇気を奮い起こそう。これこそ常に、神の望みたもうことなのだ。

「偶像礼拝」 イザヤ書 44章6〜20

日本は昔から「八百万(やおよろず)の神」などといって典型的な多神教の国だ。しかも後から後からいくらでも新宗教が誕生する。日本人は大体あらゆる宗教と万遍なく付き合うようだ。これは実は、ボーイフレンドが沢山いて、結婚相手がいないのと同じで、本当の宗教心を持っていないのだ。イザヤのこの章を読めば、子供でも偶像礼拝の愚かさが分かる。しかるに賢明をもって世界に聞こえた日本人が、いつまでも偶像と付き合う気持ちは本当に不可解だ。我々はこれを真剣に悲しみ、祈りつつ伝道に励もう。神の光が心を照らし、彼等が真の神に立ち返る為に。

「神の招き」 イザヤ書 44章21〜28

「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」とは、何という恵み深い神の招きだろう。神は人の罪を最後的にとがめず、キリストの十字架によって許してくださった。そしてこのように全世界に向かい、愛の招きを呼びかけていらっしゃるのだ。総ての人はこの招きを受け入れ、従わなければならない。また総てのクリスチャンは、伝道をもって、この神の招きを人々に伝えなければならないのだ。

「クロス大王」 イザヤ書 45章1〜8

イスラエル人はバビロンに捕囚となって70年を経過した後、そのバビロンを攻め滅ぼして、新しく世界の支配者になったペルシヤのクロス王によって捕囚から解放され帰国することができた。これはイザヤの預言から130年も後のことだ。イザヤの預言の現時点では、イスラエルはまだ捕囚にもならないし、もちろんクロス王もいない。イザヤがまだ出現しない人物をかくも明らかに、個人名をあげて預言したのは不思議としか言い様がない。しかし同じく彼は主イエスのことも明らかに預言した。一方の預言ができたのなら、もう一方も、できないはずがないのだ。

「仰ぎ望む」 イザヤ書 45章18〜25

「地の果てなるもろもろの人よ。わたしを仰ぎ望め、そうすれば救われる」とは何という尊いお約束であろうか。私は重い病床にある方などに、このお言葉を語り、あるいは色紙などに書いてあげたのは何人だか知れない。そしてこのみ言葉によって何人が慰められ、あるいは救われたか知れない。心身がいちじるしく衰弱すれば、あるいは考え、あるいは理解する力も衰えよう。しかし困惑した目を上げて、主を仰ぎ望むことはできるのだ。そこに言葉にならない祈りをこめることはできるのだ。それとともに、理解力のある間にキリストの救いを教えられ、知っていることが、いかに大切であるかと思うのだ。

「白髪になるまで」 イザヤ書 46章1〜13

ロマ書に「神の賜物と召しとは変えられることがない」とあるがここに「生まれ出た時から私に負われた者よ。私はあなたがたの年老いるまで変らず、白髪になるまで、あなたがたを持ち運ぶ」とあるのも同じ意味だろう。万事は推移して留まらない。人間は年をとる。境遇も人間関係も変わる。社会情勢も変わる。ことに今は古いものが迅速に過ぎ去る社会で、会社でも家庭でも、対応しきれない先輩や老人が、早々と不要品扱いされる時代だ。しかし変わることのない主が、人生のあらゆる場面で共にいて下さるのはすばらしい。主は変らず常に、助け導いて下さるのだ。

「豊かさの責任」 イザヤ書 47章1〜11

罪にふけったイスラエルが、神の裁きを受けるのはみ心だった。その裁きのためにバビロン帝国が用いられたのも事実だ。ではバビロンはイスラエルに比べて、神の祝福を受ける価値のあるりっぱな国だったのか。決してそうではない。彼等はたまたま神に用いられた鞭に過ぎないのだ。高ぶり誇り、図に乗って、必要以上にイスラエルを虐待することは許されない。ところが彼等はそれをした。やがて神の裁きはバビロンに望むのだ。いま日本は富み栄え賛沢に耽っている。苦しむ国を見下げている。しかし神はこれを見ておられる。豊かさについて真の神に感謝し、豊かさの責任を全うしているかどうか。

「み名の栄光」 イザヤ書 48章1〜11

主の名をもって選民と称されたイスラエルが、あるいは裁かれて亡び、あるいはあわれみを受けて回復する。これは歴史の神秘とも言える。ある牧師がその仕える王の「神が生きているという客観的な証拠があるか」という質問に対して「サー、ジュー」(ユダヤ人でございます)といったのは有名な話だ。ここにはそれらはすべて神のみ言葉に基ずく神の業であって、このことを運命とか、力関係とか、偶像とか、他のものに帰することはできないし、許されない、ということが語られている。イスラエルに対するあわれみも、ただご自身の栄光を守る、神自らのみ心なのだ。

「利益と幸福」 イザヤ書 48章12〜22

「わたしはあなたの神、主である。わたしはあなたの利益のためにあなたを教え、あなたを導いて、その行くべき道に行かせる」[17節]とあるように、神様はいつも私達を祝福し、私達に益であるように導いて下さるのだ。それはエレミヤが「主がこう言われる『私があなたに対して抱いている計画は私が知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、将来を与え、希望を与えようとするものである』」と言っているのと同じだ。神に従うことは最高に安全であり幸福なのだ。私達は改めて神の愛と真実を知り、生涯主に従って行こう。

「剣と矢」 イザヤ書 49章1〜7

ここに「主に選ばれた者、主に愛される者」の光栄と喜びが歌われている。「あなたはわがしもべ。わが栄光をあらわすべきイスラエルである」とは何という尊い呼びかけであろうか。神は我々を「み手の中にある鋭利な剣、研ぎ澄ました矢」といわれる。つまり悪魔と戦って勝ち、多くの人を悪魔の手から解放する、神の救いの武器として、我々を期待していらっしゃるのだ。弱い無価値の自分を見れば、憶病になるが、どんな剣もどんな矢も、名人の手にかかれば役に立つ。それを信じ期待し、今日の受洗者も神様に用いて頂きましょう。

「救いの安全」 イザヤ書 49章8〜21

「わたしはあなたを忘れることはない。見よ、わたしはたなごごろ(手のひら)にあなたを彫り刻んだ」ここはなんという慰めに満ちた章だろうか。神学で「救いの安全」が、美しい言葉で繰り返し教えられている。一度明確な救いを経験した者は、多少の出入りがあっても、決して失われることなく、結局神のご責任のもとにその救いを完成させることができるというお約束だ。救われたものもその栄光の日まで、困難と誘惑の多い世の荒波にさらされる。危険なこともあり、不信仰に陥ることもある。しかし我々の救いは安全なのだ。

「耳と舌」 イザヤ書 50章1〜9

[4節]に「教えを受けた者の舌と耳が与えられた」と言われている。与えられたその耳があればこそ、我々は朝早く「神の言葉を聞く」ことができるのだ。また「ことばをもって疲れたものを助ける」こともできるのだ。キリストも「わたしが暗闇であなたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言い広めよ」と教えた。耳と舌、聞くことと伝えること、祈りと奉仕は、いつも両立している。我々は選ばれた主の僕として、この特権を与えられていることを感謝したい。

「切り出された岩」 イザヤ書 51章1〜8

私は田舎町の金物屋の長男として生まれた。貧しくはなくても教育なぞに熱意のない商人の家庭だった。途中で家が破産したので、私は毎日自転車で遠い山村に出かけていって金物の行商をした。商人は性分に合わなかったが、高い教育は受けなかったし、境遇から脱却はできず、年少にして世をはかなんでいた。私はクリスチャンになってあらゆる面で救われたのだ。長年牧師の奉仕が許されたのは何という感謝だろう。こういう恵みは総てのクリスチャンの体験だと思う。「あなたがたの切り出された岩と、掘り出された穴とを思い見よ」は本当に感謝のお言葉なのだ。

「信仰の勝利」 イザヤ書 51章9〜20

「わたしこそあなたを慰めるものだ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか」[12節]人間の慰めば気持ちと言葉ばかりで実力はない。しかし神はかつて「海をかわかし、また海の深き所を、あがなわれた者の過ぎる道とされた」[10節]のである。我々も神を深く信じ、人間や人間のなすわざを恐れないようにしよう。「人を恐れればわなに落ち入る」というみことばもある。反対に「わたしたちの信仰こそ世に勝たしめた勝利の力である」とも言われる。信仰の勝利をかち得よう。

「早足自慢」 イザヤ書 52章3〜12

「あなたがたは急いで出るに及ばない。また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、あなたがたのしんがり〈最後部〉となられるからだ」[12節]。我々はもともとせっかちでことを急ぎ、すぐ結果を見ないと承知できない。しかし神様には神様のテンポがあり、神様の時もある。決して神様の先に出たり、またうっかり遅れたりしないように、主に歩調を合わせて、忠実に歩まなければならない。早足自慢が泥棒を追いかけ「泥棒はどこだ」と聞かれると「ずっと後だ」などというのは、古い昔の笑い話のネタですよ。

「悲しみの人」 イザヤ書 53章1〜12

聖画の中にはイエスの肖像も多い。そしてその顔は例外なく「憂い顔」に描いてある。別に世界中の絵書きが相談したわけではないが、キリストの笑い顔はあまり見ない。ここに「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人だった」とある。人の罪を悲しみ、その許しと救いのために十字架にかかられた主は確かに悲しみの人であったのだ。しかも「彼はわれわれの悲しみをになった」ともある。ここに記された救い主キリストの預言は、涙無しには読めない。

「主の契約」 イザヤ書 54章1〜10

神様とイスラエルの民が、夫と妻の関係に喩えられている。神様はイスラエルの罪故に、ほんの暫く彼等を見捨てられる。しかし、イスラエルに対する神様の愛は永遠に変わらない。[9節]にはノアの洪水で与えられた約束が引用されている。これは全人類に対する神様の恩寵の約束であった。イスラエルに対する神様の永遠の愛は、平和の契約でもあって、彼等の功績や状況の変化によって変わることはない。ウィリアム・ケアリは[2,3節]を引用し「神から大いなることを期待せよ。神のために大いなることを試みよ」と語り、自らインド宣教にその生涯をささげた。

「主の賜物と嗣業 イザヤ書 54章11〜17

「これが主のしもべらの受ける嗣業であり、また彼等がわたしから受ける義である」[17節]我々は時に苦しみを受け嵐にもてあそばれることがある。あるいは攻撃を受けて恐れ、非難を浴びて困ることもある。しかし神の約束はこうだ。あなたとあなたの子供たちが神に守られるのは、美しく堅固な宝石の城の中にいるようだ。あなたの子供たちは、主の教えの中に育ち、大いに繁栄する。敵の武器の攻撃、言葉の訴訟、どれもあなたには歯が立たない。これがあなたが神に「義とされ救われた」という意味であり、これこそあなたが「神から受けた賜物、嗣業」なのだと。