館林キリスト教会

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ショート旧約史 詩篇1〜39篇

「ミスター・ハッピネス」 詩篇 第1篇

新約のはじめにキリストの幸福論があるように、詩篇も幸福論で始まる。なぜこの人が、歩む、立つ、座るというすべての行動で、罪と悪を避けるか。それは彼がみことばの中に生きている結果である。さて、みことばに生きるということは、とりもなおさず、植物がその根を水に伸ばすように、神の臨在と祝福の中に魂の根を伸ばして生きることであって、その結果彼は、葉を繁らせ実を結び、生き生きと繁栄の人生を全うすることができるという、この詩篇はまことに美しくすばらしい。

「詩篇の中の黙示録」 詩篇 第2篇

世の権力者、有力者は、神にさからい、その戒めを破り、神を締め出して、この世界を占領したつもりでいる。しかし神は彼らをあざ笑い、天において世界の真の王としてキリストをお立てになった。もし、今の間に悔い改めて神に従わないならば、キリストは世界の裁きの時に、すべての権力を「鉄棒で瀬戸物を砕くように」滅し去り、神を恐れるクリスチャンたちにこの世界を与えるであろう。この詩篇の内容は、そのまま黙示録に照応する。

「夜の詩篇」 詩篇 第3篇

「伏して眠り、また目を覚す」という言葉があるので、この詩は次の4篇とともに、むかしから「夜の詩篇」などと呼ばれている。子供でなくても、夜は暗いさびしい心ぼそい時間である。また、しきりに物の思われる時間である。こういう時に、祈りつつ一日の生活について静かに反省し、また感謝し、自分の弱さや生活の難しさを思っていよいよ主に寄り頼み、主の臨在を感じつつ、信仰によって安らかに眠る。これはダビデだけでなく、すべてのクリスチャンの恵みの経験でしょう。

「食事と睡眠」 詩篇 第4篇

「床の上で静かに自分の心に語りなさい」また「わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのはあなただけです」とはすばらしい。凡人にとっては夜の思いも時にさまざまで、不安や恐怖、怒りや嫉妬のため、心の乱れることも多い。しかし主の前に静かに自分に語り、祈りつつすべてを主に委ねて、安らかに眠れるのはありがたい。三度の食事を安らかに頂き、毎夜やすらかに眠ることができれば、これこそ本当の幸福というものですから。

「朝の詩篇」 詩篇 第5篇

[3節]を、ある人は次のように読む。「主よ。毎朝あなたがわたしの祈りの声を聞き、そして、服従の用意を整えてあなたを待ち望む、そういうわたしの姿をごらんにならないで、朝が過ぎ去ってしまうことは、決してないでしょう」と。人は誰でも新鮮な思いで朝を迎え一日の心備えをする。予定や計画とともに困難や誘惑も予想される一日を迎えようとして、朝ごとに祈り、「主と共に一日の生活の扉を開く」ことができるのは本当にクリスチャンの幸いだ。

「悲しい夜」 詩篇 第6篇

人にいじめられたか、病気や遭遇にいためつけられたか。とにかくこれは、悲しい夜の詩篇である。誰でもこういう時は本当に、ふしどを涙でただよわせつつ祈るのだ。主はその涙を見、泣き声を聞き、その祈りに答えてくださる。「すべて悪を行なうものよ。離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた」こうして心になぐさめと勝利を与えられた以上は、やがて祈りの応えとその結果が、目に見える現実となって現れてくるのは確実なのだ。

「信ずる者を守る盾」 詩篇 第7篇

悪い者が正しい者を攻撃し、しかも正しい者が不利で悪者が優勢であるという場面も、ままあることである。ダビデも若いときから、ずいぶんそういう経験をした。その時にダビデを支えたのは、神の正義に対する信仰と、また自分のとがめのない良心にもとずく「神はわたしの味方である」という確信だった。もとより世に完全な義人はいないが、日々の忠実な悔い改めと、救い主に対する信仰によって、とがめのない良心を持ち、神から与えられる義を確信することは許されるのだ。

「天と月と星」 詩篇 第8篇

神の造りたもうた美しく壮大な天体を見、また神の栄光を思うとき、人は自分の微小なことを感ずる。しかも神はなお、人間の中でもっとも微小な、みどりご乳呑児の賛美を好みたもうという。「(神は)高く聖なるところに住み、また心砕けてへりくだる者と共に住む」とイザヤも言うとおりだ。乾燥したイスラエル地方では夜空は特別に美しい。その空を見上げつつ神をたたえる、王者ダビデの、いつもながらの謙遜な姿もまた美しい。

「なやみの時のとりで」 詩篇 第9篇

昔、世の中が乱れていたころ、領主や貴族はとりでを作り、いざという時立て籠もって、敵や山賎の攻撃略奪から自分と家族の生命財産を守った。主はクリスチャンにとって「なやみの時のとりで」だ。主が彼を「捨てられたことがない」という証しはすばらしい。ダビデは国王として、全国に多くのとりでを築いた。しかし本当のとりでは主ご自身のみであることを、長い生涯の体験から、彼はよく知っていたのである。

「神はない」 詩篇 第10篇

「悪しきものはその思いに、すべて『神はない』と言う」パスカルも言うように、本当に神を信じる人が少ないように、本当に神を信じない人も少ない。人の心には神を恐れ、死を恐れ、裁きを恐れる思いがひそんでいる。悪しき者はむりに「神はない」と自分の心に言い聞かせながら、良心に背いて罪を犯しているのだ。つまり「よこしまな者には平安がない」のだ。〔イザヤ.57:21〕

「神のいますところ」 詩篇 第11篇

「主はその聖なる宮にいまし、主のみくらは天にあり、その目は人の子らをみそなわす」とあるが、新約には「自分のからだは聖霊の宮である」という教えもある。そのいずれの宮においても主は我々の礼拝を受け入れ、みそなわし、祈りを聞いてくださる。そして我々も主に身を献げ主に仕えるのだ。ソロモンが献堂式の時に「この所(神殿)に向って祈る時あなたの住家なる天でお聞きくださいと祈ったのも同じ意味なのである。

「楽器の指定」  詩篇 第12篇

詩篇は賛美歌集であって、もともとさまざまな楽器に合わせ、それぞれの曲で歌われたのである。だからときどきタイトルに、曲や歌いかたの指定がある。「シェミニテ」は新改訳に「八弦の琴」と訳してある。そういう琴つまり楽器の指定かも知れないし、あるいは「第八の弦」つまり低音の弦に合わせて歌う意味で、曲の指定かも知れない。なにしろ昔のことだからはっきりわかりませんが、東洋的で、少し哀調を帯びた歌い方のようです。

「死の眠り」 詩篇 第13篇

人間は暖かい時に居眠りがでるが寒すぎても眠ってしまう。この場合は凍死につながる。クリスチャンも困難と弱さの中に閉じこめられてしまう時、その危険がある。十字架の前夜、ゲッセマネで弟子たちが眠ってしまい、そのあと悪魔に敗北したように。だからなかなか解放の光が見えず「主よいつまでですか?」といわざるを得ないようなとき、「死の眠りに陥ることのないように、わたしの目を明らかにしてください」と祈ることは大切だ。

「おろか者」 詩篇 第14篇

聖書の中に三人のばか者が出てくる。「心のうちに『神はない』と言う」のはその一人で彼の不道徳と迷いはその哲学から出てくるのだ。そのほか「おろか者は戯れごとに罪を犯す[箴言10:23]」といわれ「おろか者よ、今夜なんじの魂取らるべし[ルカ12:20]」と言う言葉もある。神を恐れず、罪を恐れず、未来を考えない者は、よし学識あり成功者であるように見えても、神の目から見れば、ただのおろか者にすぎない。

「礼拝の生活」 詩篇 第15篇

ここに言う「幕屋」は「神殿」のこと。「聖なる山」は「エルサレム」のこと、すなわち礼拝所のことだ。そこに住むというのは、祭司あるいは牧師になる意味ではない。人間が日々無意識の間にも太陽の光の中に生き空気の中に住むように、常に習慣的に神の臨在の中に生活することであり、「絶えず祈れ」とのみ言葉どおり、絶えざる祈りによって日々常に主との交わりに生きることなのだ。いわゆる「礼拝の生活」である。この詩篇にはそういう生活の秘訣の一部が歌われている。

「復活の予言」 詩篇 第16篇

これは昔から「キリストの復活を予書した詩篇」とされていて[使徒.2:22〜31]では、使徒ペテロもキリストの復活を強調する説教の中でこの詩篇を説明している。この詩篇の作者は言う。わたしは「常に主を前に置く」、そして「主はわが右にいます」ゆえに「わたしは動かされることがない」、「心は幸福で体は健康だ」、「主は死後もわたしをよみに捨ておかれない」これらは作者ダビデの経験であると共に、キリストの姿であり、同時に我々クリスチャンに模範を教えている。

「心、思い、行い」 詩篇 第17篇

[2〜5〕に「心、思い、口、言、行い、」また「道」などの言葉が並んでいる。人の生活は確かに「心」から出て、この順で「行動」に現れ、結局それが「生活」から、ひいては人生の「コース」そのものをもを決めるのだろう。ダビデはここで、恐らく不遇な立場に身を置き、苦しい気持ちで祈っている。しかし「心」から順に自分の「生涯」を調べても、悔い改めず従わないため、神にとがめられるような所がないと祈っているのはさすがだ。

「人生の戦争」 詩篇 第18篇1〜17

ダビデは軍人として半生を戦乱の中に送ったので「岩」「城」「盾」「高きやぐら」などの価値を知っていた。それらのものの用意なしには、危険で生きてゆけないのである。しかし彼にとって、神こそはそれらに勝って確かな彼の保護者であり、助け手であった。神がダビデの祈りに答えて、彼の救いのために出で立つ姿を[7〜17節]に見よう。何とすばらしい大仰な神のカの入れようだろう。この神の恵みと力は我々の場合も同じなのだ。

「自然界と聖書」 詩篇 第19篇1〜14

この有名な詩篇は三部に分れる。[1〜6節]は自然界で、その代表として太陽が歌われている。[7〜11節]は聖書だ。その価値は純金以上で、これを学ぶ楽しさは蜂密のようにおいしいと言われている。この二つの啓示によって、我々は神を崇め、光を受け、悔い改め、神に従い仕える。[11〜14節]は我々の心と生活が神のみ心に適うようにとの祈りである。聖書中最も美しい詩篇の中で、19篇は特に美しく、人の愛唱して止まぬ所だ。

「非常時の礼拝」 詩篇 第20篇1〜9

これは戦争などが起った時のイスラエル国民の、礼拝の歌、祈りの詩篇だと思う。そういう時にイスラエルにおいて、最も優先的に、まずしなけれはならないのは「礼拝の規整」であった。神殿も特に清掃され、祭司も容儀を改めたが、恐らく国民全体が反省し悔い改め、心と生活を整え、信仰を振起し、上下一致して祈ったに違いない。馬、戦車その他の武器、兵員の準備はそのあとだった。この詩篇はそういう時の祈りが記されているのだ。

「勝利の感謝」 詩篇 第21篇1〜13

これは祈りに答えてくださる神さまの恵みによって、戦争が終り、困難が過ぎ去ったときの、感謝礼拝の歌、喜びの詩篇だと思う。この前の[20篇]をもう一度読み返してみると、内容の照応がよく分かる。これらの詩篇は国や国家や戦争だけでなく、我々にもよく当てはまる。我々も試験を克服することがあり、病気を克服することもある。「問題と解決」「祈りと感謝」という大波小波を乗り切って、我々の信仰生活もまた前進するのだ。

「十字架の予言」 詩篇 第22篇1〜19

1節をアラム語で言えば「エリ・.エリ・レマ・サバクタニ」である。キリストが十字架の上で、この叫び声をあげたのは誰も知るところである。[7.8節]には人々の、ののしりあざけりが[12〜16節]には苦痛が、[16.17節]には槍で刺されることが[18.19節]には着物をくじ引きにされることが、明らか歌われているのは不思議としか言いようがない。たしかにこれは十字架の予言の詩篇なのである。今朝もう一度、この詩篇を読んで、主の十字架のお苦しみを考えよう。

「羊飼いの詩篇」 詩篇 第23篇1〜6

ダヒデは羊飼いの少年から次第に身を起し、ついにはイスラエルの王位についた英雄である。しかし波乱に富んだその生涯の折目折目には、自分の不遇と弱さに泣いて、一匹の弱い羊のように消然とたたずんだことも多かったに違いない。今、功成り名遂げた王が、自分の生涯を回想して「主はわが羊飼いであって、自分は主の手にある一匹の弱い羊に過ぎない」と歌った。この詩篇にあふれている、彼の謙遜と感謝の心は本当にすばらしい。

「エルサレム入城」 詩篇 第24篇1〜10

ダビデは王位についたときにまず、混乱した礼拝整備の最初の段階として、長く田舎の仮小屋に置いてあった「契約の箱」をエルサレムに移した。そのとき人々に歌わせたのがこの詩篇である。「エルサレムに王として入城されるのも、この国の持主も、ダビテでなく主である」と歌わせた彼の信仰と謙遜はすばらしい。反対に「ドイツは私の私有財産だ」と豪語していたドイツのカイゼルなどは、結局第一次世界大戦を起して、世界を混乱させたのみか、自国をも滅すに至ったのである。

わなに掛った動物」 詩篇 第25篇1〜16

[15節]わなや網に掛った動物の、恨むようなあわれみを乞うような目つきは独特のものだ。それを構わず「つぶつぶと料理した」むごたらしさが忘れられず、出家した話しさえある。人生にもわながあって、そんな時はもがけばもがくほど、絡みつき締つけられてどうにもならない。ダビデはそういう時こそ主を見上げ主に祈った。「わなの中から主を見上げるタビデの目」は主のあわれみを動かし、彼はしばしばそこからも救われたのだ。

「教会を愛する聖徒」 詩篇 第26篇1〜12

誰にでも当てはまって分りやすいクリスチャン生活の秘訣は、忠実に集会に出席することです。反対にどんな天才でも、集会を休んでは信仰生活は成り立ちません。[8節]にダビデが言っているように、主の臨在と主の栄光のある場所、すなわち教会を愛するものは幸いです。詩篇122篇にも「エルサレムのために安きを祈れ。エルサレムを愛するものは栄ゆべし」(文語訳〉とあるとおりです。

「主の顔をたずねる」 詩篇 第27篇1〜14

「あなたは仰せられました『わが顔を尋ね求めよ』と[8節]」クリスチャンでも、時にはお祈りしながら、何だか神さまがそっぽを向いていらっしゃるようで心細く、実感も感激もない祈りになってしまうことがある。これは本当に寂しいものだ。何かみ心に適わぬことがあったのか。自分の信仰が弱いのか。真剣にみ言葉を読み、また考えつつ、根気よく主のみ顔を求める。そしてやがて主とのさらに深いまじわりに導かれてゆく。クリスチャンのそういう経験も、また大きな祝福です。

「苦しみの詩」 詩篇 第28篇1〜9

詩篇は詩歌を集めた聖書である。歌にもいろいろあって、鼻歌などはご機嫌のいい時に出てくる。しかし詩篇には大体苦しい時の歌が多い。あこや貝の中に異物が入ると、特殊な分泌物が出て、だんだんその異物を包みこんでゆく。これは異物の痛さに泣く貝の涙だといわれる。その結果あの美しい真珠ができるのである。クリスチャンの試みも、美しい祈りと歌を生み、多くの悲しむ人のために、すばらしい教えと慰めと励ましになってゆく。

「雷電と暴風」 詩篇 第29篇1〜11

これは激しい雷電、豪雨、大風、洪水の描写だ。美しく静かな自然界に神の愛を感ずるとしたら、嵐に神の力と権威を感ずるのは当然である。ロマ書にも「神の慈愛と、その峻厳とを見よ」とあるとおりだ。しかし、雷雲、洪水の上に座したもうのは、救い主なる神である。イスラエル人がエジプトを出たとき、またカナン人と戦った時、神は大嵐をもって彼等を助けられた。「主は洪水の上に座し、その民に力を与え、祝福される[10.11節]」のは本当だ。

「奉仕のための生命」 詩篇 第30篇1〜12

「わたしが墓に下るならば、あなたのまことをのべ伝えるでしょうか。主よわたしの助けとなってください[9.10節]」使徒パウロは決して死を恐れなかった。むしろ「この世を離れて主とともにある方がいい」と言っている。しかし「伝道牧会の奉仕が必要ならばなお生きながらえることを祈る」というのがパウロの心境だった。自分も戦時中、かっ血をくり返しながら、そんな祈りを捧げていたのを思い出す。凡人の生死超越の経験だ。

「憂いと嘆き」 詩篇 第31篇1〜16

牧師が儀式に使う「祈とう書」というものがある。公式の祈りに不適確な表現や遺漏がないように祈りを助ける、つまり祈りの教書であるが、詩篇にはそういう性格もある。苦しい時、困った時、祈る力もない時、静まって神の前にこの詩篇を朗読するなら、これはすばらしい祈りの代弁者である。そして詩篇にうながされて、次第に自分の祈りが注ぎ出されてくる。これもまた知る人ぞ知る、詩篇のすばらしい効用の一つです。

「悔改めの詩篇」 詩篇 第32篇1〜11

ダビデはバテシバ事件後の深刻な悔い改めの詩を、詩篇の中に七つ残している。これはその第一だ。一時の迷いとはいえさすがのダビデも、当時はバテシバに前後不覚に熱中していた。そのバテシバとの同棲生活の間、愛欲と快楽のただなかにあって、一面ダビデの良心はこれ程の苦しみに悩んでいたのだ。しかし真実な悔改めと告白によって、その罪を許されたとき、彼は「主に罪を許された者の幸い」を、この詩の中に歌ったのである。

「賛美の詩篇」 詩篇 第33篇1〜22

歌謡曲などに出てくる言葉の統計を見ると、涙、別れ、雨、などが絶対的に多く、これは古今集の昔から変らない。希望に満ちた歌などはそらぞらしくて人心に合わず、いつの時代でも流行らないそうだ。いかに悲哀が人間の心の基調をなしているかが察せられる。反対に賛美歌の基調は、救われ、主にあって生きる者の幸福、喜びである。ここに「正しき者よ主によって喜べ。賛美は直き者にふさわしい」とある通りだが、本当にすばらしい。

「浮浪人の集団」 詩篇 第34篇1〜22

ダビデは理由なくサウル王に追われ、国中に身の置きどころのないはめになった。ところがサウル王の悪政のもとで立場を持てない不平分子が、続々と集ってダビデに身を寄せ、ついに四、五百名の集団となったのである。彼らは自暴自棄のアウトロー暴力集団になる恐れもあったのだが、ダビデはよく彼らを指導し、信仰的で勇敢で忠誠な、将来のダビデ親衛隊を養成することができた。これも彼の信仰と祈りと人格の感化によるのである。この詩はその消息を伝える、貴重な一篇だ。

「悪人からの保護」 詩篇 第35篇1〜17

われわれは世にある間、時には悪い人の攻撃や誘惑や策略に出会う。われわれは人を裁き敵対することを好まないが、しかしそういう場合に、人の攻撃や策略に陥ることから守られなければならないのも事実だ。ダビデは半生を、サウル王の攻撃と策略に悩まされてすごした。その他の敵も多く、また自分の王子アブサロムにさえ命を狙われた。それを思えば、ダビデにこの厳しい真剣な祈りの詩篇があったのも、よく理解できるのである。

「神の恵みの姿」  詩篇 第36篇1〜12

天地にあふるる神の恵みは、種々の物にたとえられるが、ここにも親鳥の翼、泉、光などの言葉が出てくる。母鳥がその翼の下に雛鳥をはぐくみ、攻撃するものがあればけたたましく抵抗する姿。砂漠の国で、疲れた旅人の渇きを癒す泉。昔の時代の心細い闇夜に、家族の団欒を照らし、暗い道も迷わず進ませる光。これらの神の恵みを求めずには、人は一日も生きられないのだ。まことに「主の恵みは人を生かす」のである。

「信仰への説得」 詩篇 第37篇1〜17

正しい者が悪を行なう者のために悩み、彼らを妬むとはどういうことだろう。信仰と、いわゆる「悪い奴ほどよく眠る」現実との矛盾に苦しむ結果だろう。「おのが道を歩んで栄える者のゆえに心を悩ますな」とはその意味である。ここではそんな不信仰に誘われないように、ダビデは言葉を尽して説得する、彼は人を説得するのか、あるいは自分を説得するのか。この場合、真の説得者はダヒデなのか、それとも実は神ご自身なのか。

「人の歩み」 詩篇 第37篇16〜26

[23節]に「人の歩みは、主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる」とあるが、人間は「人の歩みは自分が定める。その行く道は自分が喜びたい」と考えている。しかしなかなかそううまくゆかないので、あせったり、悩んだりするのだ。しかし私たちは神さまに祈り、導きを求めながら、神さまに喜ばれているという確信をもつ、このみことばのような人生をおくりたいものです。それがまた、我々の幸福にもつながるのです。

「謙遜の詩篇」 詩篇 第38篇1〜22

これも「ダビデの悔改めの詩篇」の一つといわれる。ダビデは、主から試みを受け、また人から憎嫉、攻撃を受けて悩むことも多かった。その時、彼は主に訴え人をののしるよりも、過去の恐ろしい自分の罪を思い、悲しんだのである。自分の罪を思えば、どんな取り扱いでも安んじて受けられる。もっとひどい目に遭わされないのが、それが神の哀れみなのだ。この謙遜こそ、彼が常に主の祝福の中に止まることのできた秘訣だった。

「セラ(沈黙)」 詩篇 第39篇1〜13

詩篇は礼拝に歌った賛美歌だ。だから曲や調子の指定や、時には歌手の指示もある。この歌はエドトンが独唱した。声はバリトンかどうか。セラという言葉が三ケ所にあるが、これは沈黙の意味である。歌も伴奏もここでしばらく沈黙する。何のためか。歌の深い意味を考え、心と感情に沈潜させるためだ。そして神の声を聞くためだ。人間の罪と、短くはかない人生と、神のあわれみを祈り歌うこの詩篇には、時々のセラはとても大切だ。