館林キリスト教会

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ショート新約 ヤコブへの手紙

信仰による忍耐  ヤコブ1:1〜8 2002年3月10日

 2節の「いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」というお言葉は、一般の考え方に逆行しています。ローマ人への手紙5章3、4節にも「…患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである」とあり、信仰による忍耐は錬達、希望に繋がるとあります。錬達とは円熟した性格、試験済みの信仰と、試練を経た真実を意味します。人生において、試練や患難を避けられないとしたら、秘訣は、信仰による忍耐を持って歩み続けること、と教えられます。ヨセフは遭遇も人格もキリストに最も似た人と言われます。試練を通って彼に円熟した人格が与えられたからでしょう。「充分に成長を遂げた人」それが4節の意味です。 (市川)

神からの知恵 ヤコブ1:5〜11 2002年3月17日日

 ヤコブの手紙は、初代教会をつくり上げてゆく過程にある時代に書かれました。だんだんとキリスト教会が成立し、前進してゆこうとする時、当然のように迫害の手が伸びてきました。そして、様々な試練が当時の教会の人たちに及んだのです。その試練の中で、ある人たちには神様を疑う気持ちが起こってきたのです。そうした試練への対処の仕方について教会に送られた手紙なのです。そこでヤコブは、聖霊に導かれつつ「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与えられる神」(5節)に知恵を願い求めるようにと勧めたのです。なぜなら、こうした状況は皆が「神からの知恵」を与えられなければ、乗り越えることが難しいからです。(伊藤)

誘惑に関する教え ヤコブ1:12〜18 2002年3月24日

 神様が試練を送られるのは、私たちの中に忍耐を生じさせ、成長させるためですが、人を誘惑して、信仰と人格を訓練するということはありません。ヤコブは、ここで誘惑に関して3つのことを教えています。第一は「だれでも誘惑に会う」(13節前半)ということです。イエス様でさえ誘惑に会われました。自分は大丈夫などと思うのはとても危険で、常に信仰の武装をしていなければなりません。第二は「神は…誘惑…なさらない」(13節後半)ということです。だから誘惑に会った時、信仰によって神からの力をいただいて、サタンに勝利することが大事です。第三は「誘惑を甘く見るな」ということです。それは結果的に死を生むことになるからです。15節には「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」と書いてあります。だから私たちは誘惑に対して「思い違いをしてはいけない」(16節)のです。(伊藤)

みことばを行う人に ヤコブ1:19〜27 2002年4月7日

 人の怒りは、神様が望みまた要求しておられる義を実現しません。怒り腹を立てるのはおそくしなさい。心に植えられて根を張った御言は、あなたがたの魂を救う力を持っています。御言を聞くだけでそれに従わない人は鏡に映った自分の生まれつきの顔を見てそこを立ち去るのですが、たちまち、自分がどういうものであったか忘れてしまいます。不注意に聞くだけで、あとですぐに忘れてしまうのでなく、積極的にそれに従って行う人は、その行い、すなわち従順の生活によって祝福されるのです。御言を行う人になりなさい。「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない」27節。 (市川)

自分を愛するように ヤコブ2:1〜8 2002年4月14日

 イエス様は有名な「親切なサマリヤ人」のお話をしてくださいました。ユダヤ人とサマリヤ人の間には歴史的にも宗教的にも根深い対立と偏見がありました。「親切なサマリヤ人」はそういうユダヤ人の旅人を助け介抱しました。やがてイエス様は選民ユダヤ人だけでなく、全ての人のために十字架で死んでくださいました。イエス様は、分け隔てのない愛を示してくださいました。主が私たちを分け隔てなくお取り扱いくださっているのですから、私たちはなおさらそのように歩むべきで、ここにありますように、経済的に豊かだという理由で人を優遇し、貧しいという理由で人を冷遇することは全くみ心ではありません。どちらも、救われなければならない、主に愛されている人々なのです。8節の教えは、律法の最高の教えです。  (市川)

さばきに勝つあわれみ ヤコブ2:9〜13 2002年4月21日

 ヤコブは、「もし分け隔てをするならば」(9節)とのべて、分け隔てに対する罪を指摘しています。なぜなら神様の律法についての原則は、律法のどの部分を犯しても、その人は律法の違反者となるからです。他の面でどんなによかったとしても、たった一つ、兄弟を分け隔てするならば、神様の律法を破ったことになり、罪を犯した人となるのです。人は誰でも、自分の蒔いたものを刈りとることになります。そして、終わりの日に、神様はあらゆる人々を律法によって厳重な刑罰に定めることになるのです。しかし人々が、自分は神様に罪を赦されたゆえに、他の人を赦し、主のあわれみを感謝し、他人に対してあわれみの心を示していくならば、神様はご自身の栄光の中に入れてくださるのです。こうして、あわれみはさばきに勝つのです。(伊藤)

行いと信仰 ヤコブ2:14〜26 2002年4月28日

 この段落は、この手紙の中で最も重要な点としてあげられる箇所です。教会の歴史においても様々な波紋を呼び起こしてきたところです。人は信仰によってのみ救われることを強調したルターは、ヤコブの手紙が、信仰に対して行いを強調しているので、この手紙を「藁の書簡」と呼んで非難したのは有名です。この段落を一言で言い表すならば、行いの伴わない信仰は意味がない、ということです。もちろんパウロの言った信仰による救いを非難したわけではありません。ただ「信仰、信仰」と言っている事に対する反動として、この頃には行いを軽視する人たちがいたのです。イエス様を信じたといいながら、その生活や行いに信仰が生きていない人たちがいたのです。ヤコブはそういう状態を大変心配し、行いを強調して書いているのです。(伊藤)

甘い水、苦い水 ヤコブ3:1〜12 2002年5月5日

 神様は謙遜に罪を悔い改める者をゆるしてくださる愛なる方です。一方、聖書には教師は他の人たちよりも厳しい裁きを受けることが明記されています。私たちは皆多くのあやまちを犯す者ですが殊に言葉において過ちのない人はなく「舌を制しうる人は、ひとりもいない」(8節)とあるほどです。さらに聖書には、舌は火であり、不義の世界、制しにくい悪であり、死の毒に満ちている、とあります。このような状態からの救いは神様による以外にはありません。「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」(詩篇119:11)(市川)

真の知恵 ヤコブ3:13〜18 2002年5月12日

 真の知恵、賢さは、柔和な行いを伴う生き方に表れます。柔和こそ知恵ある人の生き方で、よい生活によって柔和を表すよう勧めています。イエス様は柔和な方で「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」と言われました。ねたみや党派心とは無関係な清い心、神様との平和に与った者が人との間に築く平和、それを実践する道は人に対する寛容な心、み心にかなった生き方という実は、平和をつくりだす人が平和のうちに蒔いて収穫されるのです。(市川)

キリスト者の敵 ヤコブ4:1〜10 2002年5月19日

 この箇所は、現代の新聞記事を見るような気がします。「戦い」「争い」「欲情」「人殺し」「快楽」等のことばが次から次に出てきます。そこで著者ヤコブは、ここにおいてキリスト者が心に留めておかなければならない三つの敵がいることを示し、その解決の道を教えたのです。第一の敵は「世」(4節)です。「世」とは、神様を認めない、受け入れない、それに従おうとしない人間世界のことです。第二に敵は「悪魔」(7節)です。神様と神様を信じる私たちに反対して働いている、霊的な存在です。悪魔は今も私たちに働きかけて、私たちを陥れようとしている敵です。第三の敵は、「罪」(8節)です。欲望とか戦いとか争いは罪からくるのです。この3つの敵に対する対処は次回に学びましょう。(伊藤)

敵に勝つ道 ヤコブ4:7〜10 2002年5月26日

 著者ヤコブは、キリスト者には様々な敵がいることを示すと共に、その解決の方法をはっきりと命じています。第一の命令は「神に従いなさい」(7節)です。神に従わないことが罪ですから、罪に勝つ方法は神に従うことであることは当然です。第二の命令は「神に近づきなさい」(8節)です。神様に近づくとは、礼拝に出ること、聖書を読むこと、祈ることなどもそうですし、また自分の罪を悔い改めて、キリストの十字架により頼むことも神様に近づくこととです。第三の命令は「主のみまえにへりくだれ」(10節)です。人の前にではありません。あの人は謙遜な人だ、腰の低い人だと言われることはそう難しくはないでしょう。しかし聖書は「主のまえに」と言っています。これらの命令に従うことはキリスト者が敵に勝つ道なのです。(伊藤)

のちの日の喜び  ヤコブ5:1〜11 2002年6月9日

 アブラハムを始めとする族長たちは、羊などの多くの家畜と豊かな財を所有していました。イスラエル王ソロモンは「栄華を極め」、国は平和で繁栄しました。ソロモンが王になったとき、神様は、願い事を求めるように、と言われました。ソロモンは王として民を正しく指導するために知恵を求めました。これに対して神様は、知恵に加えて、彼が求めなかった富と誉れをも与えてくださったのです。富は神様の祝福です、心が神様に向いているなら。しかし、蝕まれ錆びて朽ちる富を拠り所とするのは大きな誤算です。後半の農夫の忍耐と収穫の喜びは、終りの日に生きる者たちのよいお手本です。ヨブは信仰と忍耐をもって待ち望み、最後には何倍もの祝福を受けました。ヨブの最後を見れば、主がいかに慈愛に富んだ方か、わかるのです。(市川)

お祈りの条件 ヤコブ5:12〜20 2002年6月16日

 この箇所には、三つの良いお祈りの条件が記されています。その第一は、主の御名による祈り(14節)です。それは、父なる神様と私たちの仲保者であるイエス様が、私たちの祈りを父なる神様にとりなしていてくださるからです。第二は、信仰による祈り(15節)です。神様は聞いてくださるかどうかわからないというような不信仰な祈りではなく、神様は全能のお方なのだから、私たちの祈りを聞いて答えてくださるということを信じて祈るからです。第三は、義人の祈り(16節)です。義人とは、神様によって罪を赦されて義とされた人のことです。著者ヤコブはエリヤを例にあげて、彼は私たちと同じ人間でしたが、彼が祈ると雨が降らず、再び祈ると雨が降るほど、彼の祈りには大きな力があったと言っています。(伊藤)