館林キリスト教会

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ショート新約 ペテロ第一の手紙

 

生ける望み  ペテロ第一1:1〜5 2002年6月23日

  著者ペテロは、世界に離散し、当時皇帝ネロの迫害のもとで苦難の中にいるクリスチャンたちを励ます為にこの手紙を書きました。ペテロはクリスチャンを、「父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たち」(2節)と記しています。そして、人が新たに生まれさせられるのは、神様の豊かなあわれみによるのであり、その結果、人は生ける望みを持つと言うのです。ペテロ自身、主イエス様が十字架にかかられる時、イエス様を三度も知らないと言う失敗をしてしまいました。その主が復活し、ペテロに新しい力と使命を与えてくださったのです。だから、このイエス・キリストの復活は、ペテロやこの手紙を受け取る大勢のクリスチャンたちに、苦難の中で生きる勇気とキリストの再臨の時における復活の希望の確信を与えるものなのです。(伊藤)
   

救いの恵み ペテロ第一1:5〜12 2002年6月30日

   苦しみの只中にいる時、この苦しみはいつまで続くのだろう、しばらくのあいだ、とはとても思えない、という心境です。しかし視点を移して永遠を考えるなら苦しみも「しばらくのあいだ」です。「さまざまな試錬」のなかで、祈って助けをいただけることは幸いです。試錬によって信仰のテストを受け、金が精錬され純度を上げて価値が増すように、試験済みの信仰は、やがてキリストの、み前に立つとき、賛美と栄光に変えられます。私たちは直接キリストにお会いしたことはありませんが、救われて、主にある喜びを知る者とさせていただきました。この救いについては、預言者たちがたずね求め、御使いたちも見たいと願っていました。私たちは、キリストのゆえにこの尊い救いの恵みに与っているのです。 (市川)
   

神にかかっている信仰と望み ペテロ第一1:13〜21 2002年7月7日

  「キリストの現れるときに与えられる恵み……を待ち望んでいなさい」私たちは今キリストを見てはいないけれど、やがてお会いする時が来ます。その時が、恵みと喜びの時であるために「心の腰に帯を締め、身を慎み」聖なる方にふさわしく待ち望みつつ生活することを教えられます。私たちの信仰と望みは神にかかっているとあります。なぜなら、キリストは預言者や御使いに長い間待たれて、神様の時が来て、この終りの時に十字架で死んでくださったのです。この救いは「きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によった」のですから。神様はキリストを死からよみがえらせてくださいました。一連の救いの御わざは神様によるのです。神様に基づいていますから心強いのです。(市川)
   

生ける御言 ペテロ第一1:22〜25 2002年7月14日

  ここで神の御言は二つの意味に使われています。第一は、「生ける御言」で、人を新たに生まれさせる働きがあるということです。だからクリスチャンとは、朽ちる死んでしまう種から生まれたのではなく、朽ちない種、すなわち、「生ける御言」(23節)によって生まれた者だと言っているのです。第二は、「変わることのない御言」ということです。著者は、この神の御言の働きについて、イザヤ書40章6〜8節を引用し説明しています。即ち、イスラエルの国が捕囚の時、滅亡するような事態であった時にも、神の言である神の約束は変わることなく実現したのです。それに対して人間の栄光は、それが強大なバビロンの権力であっても、草のように枯れ、花のように散っていった、と言うのです。(伊藤)
   

生ける石 ペテロ第一2:1〜10 2002年7月21日

  ペテロは、4節でキリストを「尊い生ける石である」と書いています。その理由は、第一に主が永遠に生きておられるからです。第二は、キリストが命を与えられるお方だからです。しかも5節では、生ける石キリストを土台とするあなたがたも「生ける石」だと言っています。それは主がペテロを「岩」と呼ばれたことを思い起こしたからでしょう。そして、クリスチャンたちに「霊の家に築き上げられ、……神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」(5節)と勧めたのです。それはペテロが、人の手による神殿ではなく、生ける石、即ち生きたクリスチャンによって構成される霊の家、キリストの教会を建て上げることを目指していたからです。(伊藤)
   

おとずれの日 ペテロ第一2:11〜17 2002年7月28日

  英国で鋳掛屋をしていたジョン・バンヤンは有名な「天路歴程」を記しました。一人のキリスト者がいろいろな誘惑や困難に会いながらも天の都を目指す旅が記されています。11節は旅人である信仰者への教えです。12節のように、信仰者が異邦人の中に住んでいるのは、当時も現代も変わりません。一般の人々は信仰者の生活を観察しています。主にある魅力的な、りっぱな行いは、人々の心を耕し感化を与えます。やがておとずれの日に、神様を認め御名を崇めるのです。おとずれの日、すなわち神様が救いのために個人的に関わってくださる時です。このように日々の生活の証しが大きな力なのです。13節には「すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。」とあり、ローマ人への手紙13章と関連のある教えです。 (市川)
   

御足の跡 ペテロ第一2:18〜25 2002年8月4日

  ペテロは、4節でキリストを「尊い生ける石である」と書いています。その理由は、第一に主が永遠に生きておられるからです。第二は、キリストが命を与えられるお方だからです。しかも5節では、生ける石キリストを土台とするあなたがたも「生ける石」だと言っています。それは主がペテロを「岩」と呼ばれたことを思い起こしたからでしょう。そして、クリスチャンたちに「霊の家に築き上げられ、……神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」(5節)と勧めたのです。それはペテロが、人の手による神殿ではなく、生ける石、即ち生きたクリスチャンによって構成される霊の家、キリストの教会を建て上げることを目指していたからです。(伊藤)
   

妻と夫への勧め ペテロ第一3:1〜7 2002年8月11日

  この7節の中で、クリスチャンである妻への勧めが六節を要し、夫への勧めは一節だけです。これは妻が信仰をもった場合、特に多くの困難があったことと、当時は婦人の地位が低い時代であったために配慮したのだと思います。妻に対しては、言葉よりも柔和、しとやかさをもって仕えることが勧められています。一番分かりやすい聖書は、文字に書いた聖書ではなく、生活に訳された聖書だと言われたりします。一、二節に「御言に従わない夫であっても、……妻の無言の行いによって、救いに入れられる」とあるのは、この生活訳聖書の効果を述べているように思います。夫に対しては、妻が弱い存在であると認めることと、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊ぶように勧められています。(伊藤)   
   

神様の目と耳 ペテロ第一3:8〜12 2002年8月11日

 8節の冒頭「最後に言う」は、2章11節からの要点をまとめたもので、すべてのクリスチャンに対して、5つの徳目「心をひとつにする、同情し合う、兄弟愛をもつ、あわれみ深くある、謙虚である」(8節)を勧めているものです。また9節は、ペテロの第一の手紙2章23節に示された、主イエス様の手本を、クリスチャンに適用するように勧めたものです。クリスチャンが敵対する者に対して、報復しないで祝福することは神様のご命令です。なぜ、このような態度で生きるべきかを教えたかと言うと、12節にあるように、神の目が、常に導きを示すため、クリスチャンたちの上に注がれているからです。また、神の耳が、導きや助けを求める祈りを聞くためにいつも傾けられているからです。(伊藤)
   

善に熱心であれ ペテロ第一3:13〜21 2002年8月25日

 善に熱心であることは、御心に適うことで、神様に喜んでいただけます。また自分の良心に対しても、善を行っているという確信をもつことができます。人に対しても、正しい心でいることができます。神様のみこころを求めて熱心に善を行い一人一人が力を尽くすなら、神様のみわざのために用いて頂くことができるでしょう。14節のように、万一義のために苦しむようなことがあっても、神様の前には幸いなのですから、恐れたり、心を乱したりする必要はない、とあります。私たちがどう生活すればよいのか、聖書によって教えて頂けるのは幸せです。15節のように希望について語れる用意が大切です。19、20節は難しい箇所です。いろいろ解釈があるようですが、はっきりとした解釈ができません。 (市川)
   

近づく終り  ペテロ第一4:1〜11 2002年9月1日

 再臨によって生きてキリストにお会いするにしても、死んだのちお会いするにしても、だれでもどちらかの状態でやがてキリストにお会いすることになります。6節も難しい箇所ですが、ある解釈者は「死人」とはこの手紙が書かれた時代にはすでに亡くなった人のことで、生きていたときには、その人にも福音が伝えられたという意味に解釈しています。すべての人は肉体は死ぬけれど、キリストを信じるならキリストにある命をいただき、霊において永遠の世界で生きると。キリストにお会いする時が来るのだから「神の御旨によって過ごし」(2節)、身を慎み、励んで祈り、愛を保ち、与えられた賜物をもって神様と隣人に仕えるように勧められています。(市川)
   

苦難に備えて ペテロ第一4:12〜19 2002年9月8日

 ペテロは再び苦難の意味と、その中におけるクリスチャンの態度について勧めています。その第一は、苦難に伴っている目的を思い出しなさい、ということです。苦難は、私たちをへりくだらせ、目をさまさせ、自らを吟味させるからです。第二は、苦しみによって与えられる関係を覚えなさい、ということです。これは苦難の救い主と栄光を一つとする経験を得られるからです。第三は、苦難のために倒れてしまわないために、それに勝つ力が与えられることを信じなさい、ということです。14節後半の「……その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿る」とは、その約束を述べているのです。第四は、神様の御手に自分のたましいを委ねるようにしなさい、ということです。そうすれば苦難の中でも慰めと安らぎを得られるからです。(伊藤)
   

長老職の心得 ペテロ第一5:1〜5 2002年9月15日

 5章の冒頭でペテロは、「そこで」と言い、今まで語ってきた事柄のまとめとして、この章で幾つかの勧めをしています。1〜4節においては、教会で責任を担っている長老たちに勧めています。それは教会を襲おうとしている火のような試練に対応するためには、忠実な牧会者がどうしても必要だからです。長老の仕事とは、「あなたがたにゆだねられている神の群を牧する」(2節)ことです。決して「長老の群れを牧する」ことではありません。ですから、その務めは金銭的利益目当てではなく、心から、しかも熱心に果たすことが求められます。そして人々に対しては、高慢で威圧的な態度に出る罠に陥る危険あるので、謙遜と清い生活をもって、群の模範となることが大事だと言われています。(伊藤)
   

信仰に立ち ペテロ第一5:6〜14 2002年9月22日

 神様は万物を創造し、私たちを生かし愛しておられます。やがてすべてをお裁きになる方です。私たちは神様のもとにへりくだるべきですが、神様が心配して面倒を見てくださるのですから、思い煩いをゆだねなさいと記されています。悪魔は獲物を求める獅子のように私たちを狙っていますから身を慎み目を覚まし、信仰にかたく立って抵抗するように。ペテロはかつての自分を思い起こしていたかもしれません。苦難によって失望、落胆せず、主を否認することがないようにと。自分ひとりが困難なのでなく、世界の信仰者が主を信じて共に苦闘していることを忘れてはいけないとも教えています。シルワノはこの手紙を口述筆記し、使徒行伝ではシラスと出ています。マルコは福音書を記した人です。(市川)