館林キリスト教会

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ショート新約 ヨハネ第一の手紙

この手紙の目的  ヨハネ第一 1:1〜4 2003年1月5日

 使徒ヨハネがこの手紙を書いた目的は、クリスチャンたちが「父ならびに御子イエス・キリストとの交わりにあずかるようになるため」(1:3)であり「喜びがみちあふれるため」(1:4)であり「罪をおかさないようになるため」(2:1)であり「永遠のいのちを持っていることを、悟らせるため」(5:13)であります。一節に「いのちの言」と書いてあるのは、イエス・キリストのことで、このお方が天地創造の時すでに存在しておられた「永遠の神」を現しているのです。そこで使徒ヨハネは、このお方から耳で聞き肉眼で見たと証したのです。そして使徒ヨハネが、このお方の事を伝えたのは、仮説でも空想物語でもない実際に体験した事だからです。(伊藤)

光の神 ヨハネ第一 1:5〜10 2003年1月12日

 ヤコブの手紙1章には「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る」。詩篇104篇には「わが神、主よ、あなたはいとも大いにして誉れと威厳とを着、光を衣のようにまとい」とあります。ヨハネがイエスさまから聞いて告げ知らせることは「神は光であって…」(5節)ということでした。光は夜の暗闇から明るい朝へと世界を変えます。光と闇は共存できません。光が差し込むと、ほこりや汚れがよくわかるように、光は罪を明らかにします。罪人である、わたしたちは「罪はない」と言うべきでなく、罪を認めて、流れに洗われ続ける小石のように、御子イエスさまの血にきよめられ続け、光の中を歩み続けるべきなのです。(市川)

義なるキリスト ヨハネ第一 1:13〜21 2003年1月19日

 「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。」コリント人への第一の手紙1章30節には、キリストご自身のお姿と、キリストにある者は、キリストの義と聖さのゆえに受け入れられた、尊い恵みが教えられています。旧約聖書にも「義の上衣」に覆われる幸いが教えられ(イザヤ書61章10節)、新約聖書にはキリストのたとえ話に、王子の婚宴に招かれた人々に、王様が婚礼の服を用意してくださる招きの教えがあります(マタイ福音書22章)。キリストにある義の衣を着せられ、義という立場を与えられた者たちのために、主がとりなしていてくださるのですから、信仰を強めていただき主を見上げつつ歩み続けましょう。    (市川)

古くて、しかも新しい戒め ヨハネ第一2:7〜11 2003年1月26日

 ヨハネは7、8節で要約すると「古くて、新しい戒め」を書き送ると書いています。その「戒め」は6節に示されているように、イエス様にならって生きるということです。「古い戒め」とは、旧約聖書にあったものという意味で、事実レビ記19章18節には隣人愛の戒めが記されてあります。「新しい戒め」とは、イエス様がその愛の模範を見せてくださったと言う意味で新しい戒めです。イエス様が最後の晩餐の席で弟子たちに「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)とお命じになりました。この「イエス様の愛の戒め」こそヨハネが言う「古くて、新しい戒め」なのです。(伊藤)

世を愛するな ヨハネ第一 2:12〜17 2003年2月2日

 ここでヨハネはクリスチャンが、恵みにより、信仰によって、罪がゆるされ、初めからおられる方を知り、悪しき者に勝った者であることを再確認するように勧めたのです。そこでクリスチャンに、「世と世にあるものとを愛してはいけない」(15節)と命じたのです。なぜなら「世」は、神様に対立するものであり、サタンの支配下にあるからです。人は二つを同時に愛することは出来ません。世を愛するか、神様を愛するかです。サタンは人間を「肉の欲、目の欲、持ち物の誇」(16節)をもって誘惑し、罪に陥れようとするのです。だから私たちは、永遠に生きるために、「世」に対する十分な警戒が必要なのです。(伊藤)

光と闇の共存の時代 ヨハネ第一 2:18〜23 2003年2月9日

 「終りの時」については旧約聖書に預言されていました。「終りの時」は、キリストご降誕によって始った時代を指します。初代教会時代も、現代もそこに含まれます。やがてキリスト再臨によって新しい時代が到来するまでは、この世の闇が共存する時代です。反キリスト(18節等)、偽り者(22節)とある「イエスがキリストであることを否定する者」(22節)について警告されています。その出現によって終りの時であることがわかります。私たちは、光と闇が共存している時代に生きています。しかし、キリストを信じる者は「聖なる者に油を注がれている」(20節)のです。ですから、すべてのことを教えられ導いて頂けるのは幸いです。 (市川)

キリストにとどまっていなさい ヨハネ第一 2:21〜29 2003年2月16日

 御子を告白する者、すなわちキリストを救い主として信じ従う者は、父なる神様にも、知られています。反キリスト、偽り者である人々はともかく、キリストを信じている者は、初めから教えられている主キリストの教えを心にとどめていなさい、そうすれば、御子キリストと父なる神様のうちに常にとどまることになります。また、御子キリストを告白する者は「キリストからいただいた油」(27節)すなわち、「真理の御霊」である聖霊が、すべてのことを教えてくださるのです。キリストのうちにとどまり、聖霊が教えてくださるとおりに歩むことがとても大切だと教えられています。日々キリストを見上げて歩み、またキリスト来臨の時、御前に恥じ入ることなく喜びをもってお会いできるために。 (市川)

神の子の生活 ヨハネ第一3:1〜7 2003年2月23日

 使徒ヨハネは一章と二章において神と交わる者が「神の子」であることを示し、三章では「神の子の生活」が、具体的にいかなるものであるかを述べています。まずそのために「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えて見る」(1節)ということです。次に、私たちは神の子としてどうなるのか(2節)、そして私たちが神の子として、今、この世をどのように生きるべきか(3節)、という事をよく考えるように勧めたのです。それはこれらすべてのことが神の愛から出ているからです。即ちこの神の愛は、イエス様の十字架の贖いの死を通して、信じる者の罪を赦し、新しい人と生まれ変わらせることにより、その人を「神の子」とされたからです。(伊藤)

罪を犯さない生活 ヨハネ第一 3:8〜12 2003年3月2日

 ヨハネは「すべて神から生まれた者は、罪を犯さない」(9節)と述べています。一方では、著者自身がこの手紙の1章10節で「もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とする」ことだと言っています。これは表面的には矛盾していますがそうではありません。「罪を犯さない」とは、すべての罪から全く自由であるという意味ではないからです。クリスチャンも罪を犯してしまうことがあります。しかし故意に罪を犯すことはなく、常習的に罪を犯し続けてしまうことは絶対にないのです。なぜなら、クリスチャンには「神の種が、その人のうちにとどまっている」からです。「神の種」とは「神の生ける御言」(第一ペテロ1:23)のことです。(伊藤)

主の愛 ヨハネ第一 3:13〜18 2003年3月9日

 イザヤ書53章には「ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」と黙々と神様の御心に従うキリストのお姿があります。ガラテヤ人への手紙3章13節には「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった」とあります。コリント人への第二の手紙5章21節には「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた」とあります。キリストは、父なる神様の御前に罪そのものとして断罪され、呪いと裁きを受けて十字架で死なれました。主はわたしたちが受けるべき呪いと裁きを受けてくださいました。主を信じる者は裁かれることなく永遠の命を受けるのです。  (市川)

兄弟のために ヨハネ第一 3:16〜24 2003年3月16日

ここに厳粛な教えが記されています。「兄弟のためにいのちを捨てるべきである」という教えにたじろがない人がいるでしょうか。私たちは自分の弱さのために、この教えに忠実に生きる難しさを抱えています。いいえ、できない可能性のほうが格段に大きいと思います。神様のあわれみによって、少しでも御心に従って、与えられた人生を全うしたいと願うのですが。しかし、我が子を愛するお母さんお父さん方は、日々このように生きていらっしゃるのだと思います。日々、自分のいのちを削るようにして、我が子を育んでおられるのです。そしてわたしたちも、まだ救われていない人々のために、救いに導かれつつある方々、悩みを抱え疲れている方々のために、日々の信仰生活、教会生活、ご奉仕と証し、祈りと親切な言葉や行いによって仕えたいと願わされます。 (市川)

イエスは主なり ヨハネ第一 4:1〜6 2003年3月23日

 「」ヨハネ第一、4:1〜6
 信仰の熱心さは、しばしば慎重さと知性とを無視する恐れがあり、熱狂的になりやすくなる傾向があります。パウロは「彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない」(ローマ10:2)と間違った教えの熱心に対して警告しています。初代教会は、聖霊の働きの活発な時代でしたが、同時に深い聖書の知識によらない熱狂的な信仰に悩まされた時代でした。そしてサタンは、今も熱狂的、神秘的な信仰を看板にして人々を惑わしているのです。そこでヨハネは、正しい霊の人とそうでない人を見分けるには、「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊」(2節)を持っているか否かを見るように教えたのです。パウロが「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』ということはできない」と教えたのも同様です。(伊藤)

神の愛の源泉 ヨハネ第一 4:7〜12 2003年3月30日

 著者ヨハネは、ここで兄弟愛の根拠として愛について語っています。7節に書いてありますように「愛は、神から出たもの」です。あらゆる愛の源は、愛なる神様です。神様の愛は、ギリシャ語でアガペーといいます。自分を犠牲にし、愛するに価しない者を愛する愛です。これは人間の世界には存在しない報いを求めない愛です。その具体的な神様の愛のわざが、9節に書いてある「神はそのひとり子<イエス:キリスト>を世につかわし」てくださったということなのです。ある人は「人の愛は神ご自身の反映である」と言っています。ですからクリスチャンが愛を実践する時、自分の中に聖霊様の臨在による神様の助けを感じるのです。人間の力では、イエス様の犠牲的な愛はとても実行できません。それを可能にしてくださるのは、神様を信じる者の中に働きかける神の力なのです。(伊藤)

神と人への愛 ヨハネ第一 4:13〜21 2003年4月13日

  「イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである」(15節)。イエス様への信仰は私たちと神様を深く結び、神様が常に共にいてくださるという幸福に入れてくださいます。その人は神様の愛を信じて歩みます。「神は愛である」(16節)、8節にも記されたこの短いおことばは、私たちにとってどんなに大きな救いでしょうか。たといどんなことがあっても、神様は愛なる方であり、私たちを愛し続けていてくださるのです。たとい悲しみの嵐に遭遇しても、愛なる神様を信じて歩むなら幸福です。迷ったときも、私たちを愛し続けていてくださる神様を愛して、お喜び頂ける道を生きていけば安心で、幸福です。そして、神様が私たちに求めておられることは、主にあって互いに愛し、助け合うことです。「この戒めを、わたしたちは神から授かっている」と21節にはあります。  (市川)

勝利の力 ヨハネ第一 5:1〜5 2003年4月20日

 「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである」(3節)。イエスさまは「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節)と教えてくださいました。ヨハネはこのお言葉、イエスさまのお姿を思い起していたことでしょう。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(5節)。これは主にある者への現在から未来にかかわる勝利の約束のお言葉です。パウロは「わたしたちは…死にかかっているようであるが、見よ、生きており、…悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている」(コリント第二、6章9、10節)と記しています。(市川)

水と血による証 ヨハネ第一 5:6〜12 2003年5月4日

 ヨハネは6節の冒頭で、イエス様の歴史的事実を、イエス様の御生涯のうちに極めて重要な二つの出来事に要約し、象徴して、「このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである」(6節)と書いています。ここで「水によって」という言葉が象徴しているのは、洗礼のことです。この時、神様は「これはわたしの愛する子」と宣言されました。こうしてイエス様が神の御子キリストと証されたのです。また「血によって」という言葉が象徴していることは、十字架の上での死のことです。イエス様は十字架にかかって死ぬことによって、購い主としての務めを成し遂げられ、ご自身がキリストであることを証されたのです。そしてこの二つの歴史的事実を私たちの心に絶えずあかし続け、わからせてくださるのは聖霊様なのです。(伊藤)

三つの確信 ヨハネ第一  5:13〜21 2003年5月11日

 ここには神の子が持つべき三つの確信が書いてあります。第一の確信は、永遠のいのちを持っているという確信です。13節の「神の子の御名を信じる者」とは、クリスチャンのことです。著者の目的は、彼らに「永遠のいのちをもっていること」を悟らせることです。即ち、永遠のいのちを持っているという事実に確信を持ち、その上で「世に勝つ」(4節)歩みをしてもらいたいのです。第二の確信は、祈りの確信です。神様が私たちの祈りに耳を傾けて聞いてくださるという確信です。そしてただ自分のためにのみ祈るだけでなく、兄弟のためにとりなしの祈りを勧めているのです。第三の確信は、自分は神のものであるという確信です。自分が神によって生まれ、神から出たものであるという確信こそ、罪に対する勝利の原動力だからです。(伊藤)