館林キリスト教会

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ショート新約 ルカによる福音書1章〜

献呈の言葉 1章1〜4節 2008年1月06日

新共同訳聖書には小見出しが付いている。1節から4節の部分は「献呈の言葉」とある。著者ルカが、テオピロというローマ政府の高官に、救い主イエス・キリストについてよく知ってもらうために献呈したものだからである。歴史家であったルカは、それまで口伝えに流布していたイエス様の物語と教えを文書化する必要を感じるようになった。ルカの記述には、キリスト降誕の書き方に示されているように歴史的配慮がある。書き出しの4行は、新約聖書中で最も優れたギリシャ語だといわれる。テオピロは、このルカの手紙を読んでイエス様を信じて救われた。続いてルカは、次に使徒行伝を彼に献呈している。(伊藤)

ザカリヤとエリサベツ 1章5〜25節 2008年1月13日

ルカによる福音書は、序文の後は、キリストの先駆者となったバプテスマのヨハネの誕生の経緯から始まる。父はザカリヤ、母はエリサベツで、祭司の家系に属していた。この頃、祭司は2万人位いたと言われ、それが24組に分けてあった。ユダヤ三大祭以外の儀式には、年に二度、一週間のつめとが割り当てられた。ザカリヤの属するアビヤの組が当番になった時、祭司職の慣例にしたがってくじを引いたところ、ザカリヤに当り、彼は聖所に入った。ザカリヤが香をたいている時、御使いガブリエルは不妊の妻に男の子が産まれる事を告げた。すると彼は「私は老人ですし、妻も年をとっています」と不信仰だったため、しばらく口が利けなくなった。やがて約束通り、エリサベツは身重になった。(伊藤)

御告げを受けたマリヤ  1章26〜38節 2008年1月20日

祭司ザカリヤの妻でユダの山里に住む老年のエリサベツが身ごもって「六か月目」のことでした。御使ガブリエルが神様から遣わされてマリヤのもとに来ました。マリヤはガリラヤの町ナザレに住んでいました。御告げを伝える御使とマリヤの会話が記されています。穏やかな日常生活のひとこまのような場面です。神殿で御使が祭司ザカリヤに現れた様子は1章に出ていました。ザカリヤは「おじ惑い、恐怖の念に襲われた」(1章12節)のでした。これに対して主とともにあったマリヤの穏やかな様子は印象的です。マリヤは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と応答しました。この時、合わせて老年のエリサベツについて知らされたことも、大きなささえだったと思います。主の恵みでした。(市川)

マリヤの賛歌 1章39〜56節 2008年1月27日

マリヤは大急ぎで山里、ユダの町に向かいました。エリサベツに会うためです。「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった」(1章41節)のでした。御使の言葉のとおりでした。マリヤは救い主の母とされたのだと、さらに確信したでしょう。46節以降は有名なマリヤの賛歌と言われ、サムエルの母、ハンナがささげた賛美がお手本になっています。マリヤは主の御言葉を思い巡らしながら生活していたのでしょう。暗雲立ち込める立場に立たされたマリヤですが、ここには主への賛美と輝くような喜びが満ちています。主に全てを委ね、まことに「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。(1章45節)(市川)

ザカリヤの賛歌 1章57〜80節 2008年2月3日

ユダヤには、生まれた男の子に、父や祖父の名をつける習慣があったが、ザカリヤは一粒種の子に「ヨハネ」と名づけ、神の命じられるとおりにした。さて、ザカリヤは聖霊に満たされて神を賛美する。ザカリヤの賛歌は、最初の「ほむべきかな」のラテン語訳から「ベネディクトゥス」と呼ばれている。この賛歌は、68節〜75節と76節〜79節の二つの部分に分けられる。前半は預言を成就させ、契約を果たし、誓いを実行し、救いをもたらして下さった神への賛美が歌われている。そして後半の76節からは「暗黒と死の陰とに住む者を照らす」方である救い主が救いのわざをなすのに先んじて、今生まれたヨハネの役割が予告されている。「主のみまえに先立って行き、その道を備え」るヨハネの務めは、旧約聖書イザヤ書40章3節、マラキ書3章1節に預言されている事である。(伊藤)

救い主の誕生 2章1〜20節 2008年2月10日

 今日の交読箇所は、クリスマスには必ず読まれるところである。歴史家ルカは、イエス様の誕生が当時の世界史の背景と深い関わりがあった事を明らかにしている。ローマ皇帝による定期の戸籍調査は14年ごとに行われ、徴税と徴兵の二重の目的で行われたと記録に残っている。だからイエス様の誕生がいつ頃かという年代が推測できる。その救い主の誕生を御使いから最初に告げられたのは、貧しい羊飼いであった。御使いの言葉を聞いた彼らは幼子を探しに行き、彼らを見つけると、自分たちに告げ知らされた内容をヨセフとマリヤに語り、「見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、また賛美しながら帰って行った」(20節)。何と美しい光景だろう。 (伊藤)

シメオンとアンナ 2章21〜40節 2008年2月17日

 御使の告げたとおり、幼な子はイエスと名づけられました。律法のとおり、きよめの期間が過ぎたとき、すなわち生後40日目に、両親は幼な子を連れてエルサレムの神殿にやって来ました。幼な子を主にささげるためでした。今も家庭に赤ちゃんが与えられた場合、教会で献児式が行われます。主に感謝をささげ、養育を任せてくださった主の御心にふさわしく信仰を育み、養育するために、主の助けと祝福を願うのです。信仰と聖霊に満ちた高齢のシメオンもアンナも、祈りのうちに救い主のおいでを待ち望んでいました。彼らは、この日、ちょうど神殿にはいって来たヨセフとマリヤ、そして幼な子イエス様にお会いしたのです。主の約束と導きは確かでした。イエス様は、神様が万民のまえにお備えになった救い、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光なのです。(市川)

少年イエス様 2章41〜52節 2008年2月24日

 イエス様の少年時代に関する貴重な記事です。12歳のイエス様は過越の祭を守るため両親に連れられてエルサレムの神殿に出かけました。ナザレから南に徒歩の旅です。帰路についた両親は一日後、旅のグループにイエス様が見当たらないことに気づきました。捜しながら道をひきかえし、とうとう神殿に戻ってきました。イエス様は神殿で教師たちのまん中に座って話を聞いたり質問していました。律法のプロがイエス様の賢さに驚嘆したほど、旧約聖書を深く心に刻んでいました。母の問いに、ご自分が父なる神様によって地上に遣わされたことを思い「わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」とお答えになったのです。(市川)

バプテスマのヨハネ 3章1〜20節 2008年3月2日

 ここで著者のルカはバプテスマのヨハネを公式に紹介する。「皇帝テベリオ在位の第15年…神の言が…ザカリヤの子ヨハネに臨んだ」(1、2節)という冒頭の言葉はヨハネの宣教という前ぶれをもって、イエス様の公生涯の開始を告げる。これはルカがイエス様を世界の歴史の流れに位置づけているからだ。荒野にいたバプテスマのヨハネは集まってきた人々に、悔い改めなければ救われないことを熱く説く。彼は、良い実を結ばない木を農夫が斧で切り倒すように、神様の裁きを告げる。これは脅しではなく、新しい、清い心を作る為である。そしてヨハネは各自が「悔い改めにふさわしい実を結べ」と勧めている。(伊藤)

イエス様の系図 3章21〜38節 2008年3月9日

 イエス様が洗礼を受けられたのは、洗礼を受けることが神のみこころであり、私たちの模範となるからである。23節には「イエスがは宣教を始められたのは、年およそ30歳」とある。それまでイエス様は人々の考えによれば「ヨセフの子」で、その系図をさかのぼれば、アブラハムはおろかアダムにまで達する。ユダヤ人が「われわれの先祖はアブラハムだ」などと考える自慢の種は、どこにもない。全ての人がイエス様と同じ係わり合いを持つのである。全人類はアダムの子孫で、ギリシャの詩人が「われわれも、…その子孫である」(使徒17:28)と言った通り、神様の子孫である。ですから、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見出せるようにして下さった」(使徒17:27)のである。(伊藤)

荒野の誘惑 4章1〜13節 2008年3月16日

イエス様は洗礼をお受けになった後、御霊の導きのうちに荒野で断食と祈りのときを過ごされ40日に及びました。このとき悪魔の誘惑をお受けになりました。イエス様は神であられ、全てをみ手に治め最高の権威をお持ちです。悪魔の誘惑に即刻勝利できる権威をお持ちにも関わらず、人間としての制限のなかで、神の権威や自由を敢えてお使いになりませんでした。救い主の使命を完全に果たすためでした。わたしたちには思いも及ばない誘惑だったのではないかと想像します。悪魔は神様の救いのご計画を無効にしようと誘惑しましたが、イエス様は勝利なさいました。み言葉による勝利のお姿は、信仰をもって主により頼む全ての者に対して、同じように、み言葉によって勝利を得られる、という模範となってくださいました。 (市川)

この聖句は成就した 4章14〜30節 2008年3月23日

27節の「多くのらい病人」を「重い皮膚病にかかった多くの人」に読み替えてくださるようにお願いします。イエス様は、聖霊に満ちあふれガリラヤへ帰られました。安息日に会堂で、会堂司から羊皮紙の巻物のイザヤ書が手渡されました。イエス様はイザヤ書61章をお読みになり「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」とお話されました。旧約聖書で預言された救い主が今ここにいらっしゃるのです。悪魔と罪に縛られた人々に、真の解放と自由を与えてくださる救い主の訪れは、主が与えてくださる恵みのはじまりなのです。しかし、ヨセフの子ではないか、と故郷の人々は言いました。列王紀上17章、列王紀下5章の通り、多くのやもめがいたのに、エリヤはシドンのやもめにだけつかわされ、エリシャの時代イスラエルに重い皮膚病にかかった多くの人がいたのに、他国シリヤのナアマンだけがきよめられた、そのように、信仰によって主を待ち望む者に恵みが与えられるのです。 (市川)

人間をとる漁師に 5章1〜11節 2008年4月6日

これまで主としてユダヤ教の会堂で教えておられたイエス様は、今やゲネサレ湖畔(ガリラヤ湖)に立っておられる。大勢の人々が神様の言葉を聞こうとして押し寄せてきたので、イエス様は、シモンと呼ばれたペテロの小舟に乗り、舟の上から人々にお話をされた。お話が終わった後に、イエス様はペテロに「沖へこぎだし、網をおろして漁をしてみなさい」(4節)と言われた。ペテロはこの言葉に驚いて、漁師の私たちが「夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」(5節)と半信半疑ながら従った。その結果は大漁だった。ペテロは、神様の力と、それを信じなかった自分の罪深さを知らされた。この時、イエス様はペテロを「人間を取る漁師」即ち、伝道者としてお召しになった。(伊藤)

罪を赦す権威 5章12〜26節 2008年4月13日

12節に記されている「全身重い皮膚病の人」の癒しも、その後の「中風の人」の癒しの記事も、イエス様が、地上で罪を赦す権威を紹介する契機として述べている。23節では「あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか」と問いかける。中風の人の癒しの場合、イエス様の言葉には病気を直す力も、罪を赦す力も備わっていることを明らかにされた。だから「『人の子(イエス様)は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために』と彼らに対して言い、中風の者にむかって、『あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ』」と言われた」(24節)。イエス様は、後日弟子たちを世に遣わす時、彼らが罪の赦しをもたらすメッセージを携えて行く事を予告している(24:47)。(伊藤)

新しい歩み 5章27〜39節 2008年4月20日

  レビとは取税人マタイです。マタイは、イエス様に従って新しい歩みを始めました。彼は、取税人時代の仲間たちにイエス様を紹介したかったのでしょう。自分と同じように、彼らも主の愛を知って主を受け入れ、新しい生活に進んでほしいと願ったのでしょう。自分の家で盛大な集まりを開きました。マタイを始め仲間たちは、イエス様の「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。このお言葉を聞いて、どこにも見出せなかった希望の光と真の愛を、イエス様というお方に見たことでしょう。新しい着物と新しい皮袋の譬は、ユダヤの人々が、神に受け入れられようと築き上げたこまごまとした事々から解放されるべきこと、イエス様を信じて始まった新しい歩みは、イエス様の命の充満と、み言葉の光に育まれるべきだと教えて下さったのではないでしょうか。 (市川)

礼拝と愛と善行 6章1〜11節 2008年4月27日

出エジプト記20章に神様がお定めになった、人間が守るべき十戒が記されています。第四戒には「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とあります。イエス様は主なる神様です。安息日を定めて、この日を主を礼拝する日としてくださった方です。しかし、ことにパリサイ人たちは、人間が定めた安息日の規定を守ろうと努力していました。本来の教えである、安息日に主に感謝し、主を礼拝するということを忘れて本末転倒でした。その本末転倒ぶりに気づかせて下さるためにも、イエス様は、会堂で、安息日に、人々の見ている前で、あえて手のなえた人を癒してくださいました。主を愛し、隣人を愛し、善を行うことは御心にかなったことです。彼らはこのことに気がついて、柔らかな心で悔い改め、主を愛し、隣り人を愛し善行に励むべきでしたが、11節のようでした。 (市川)

12使徒の選び 6章12〜19節 2008年5月4日

イエス様は山に行って、夜を徹して祈られた。夜が明けると、弟子たちの中から12人を選び、これに使徒と名づけられた。使徒とは、ギリシャ語でアポストロスと言い、派遣される者という意味である。それは使節あるいは大使の意味に用いられる。選ばれた12使徒たちは、皆平凡な人々である。学者や権力者、財産家や有名人がいるわけではない。性格も職業も様々だ。後に愛の人と言われたヨハネも、短気な雷の子だ。あとでイエス様を裏切るユダもいる。漁師もいれば、取税人や反する立場の熱心党員もいた。けれどもそのような彼らがキリストにあって、互いに愛しあい、互いに仕えあって一つとなって奉仕していったのは素晴らしい。それは彼らが自分で選んだのではなく、選ばれたからである。(伊藤)

4つのさいわい、4つのわざわい 6章20〜26 2008年5月11日

ここには4つのさいわい、4つのわざいが対照的に記されている。20節と24節、21節前半と25節前半、21節後半と25節後半、22節と26節である。「貧しい人」「いま飢えている人」「いま泣いている人」「人の子(キリスト)のために、排斥し、ののしり、汚名を着せるとき」はさいわいである。反対に「富んでいる人」「今満腹している人」「今笑っている人」「人があなたがたをほめるとき」は、わざわいである、という。このような事は、世の常識からでは考えられない。むしろ逆である。しかしイエス様は、こうした世の常識は、物質的尺度、この世の尺度、表面的な尺度であって、罪によって歪められた人間の尺度に過ぎないと言うのであろう。そのような尺度から解放されて、霊的な真理、内面的な現実、終末の到来の見地から見る時、人はイエス様の言われた事が理解できる。(伊藤)

ゴールデンルール 6章27〜38節 2008年5月18日

イエス様が望まれた信仰者の生き方です。わたしはこれを守ることができるか、と問うなら「どうやっても、守ることができません」と答えるほかありません。あるいは形だけ守る、という方法もあります。しかし、イエス様はこう教えてくださいました。31節、「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ」。マタイによる福音書7章12節のみ言葉に代表される黄金律です。これは信仰者の倫理の基礎であり、人間関係の基本です。35節の「そうすれば受ける報いは大きく」とある、大きな報いとは、父なる神様と似た性質の者とされる、という祝福です。「いと高き者」とは天のお父様である神様です。イエス様を信じたことによってすでに神の子としていただきましたが、その立場にふさわしい者、天の御国に住むにふさわしい者と造りかえてくださる、という祝福です。(市川)

恵みの量り 6章39〜49節 2008年5月25日

「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」(コリント人への第一の手紙4章7節)。「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。」(マタイによる福音書10章8節)。主の赦しと恵みによって生かされていることを忘れないように歩みたいものです。そうするなら「自分の目にある梁」を認めることができて、謙遜と愛をもって生きられるでしょう。良い木は良い実をならせます。ですから、造りかえていただいて、良い木にしていただきたいものです。また、心を造りかえていただいて、心の倉に良い物を満たしていただきたいものです。そして主に土台を置いて歩みたいものです。 (市川)

賞賛された百卒長の信仰 7章1〜10節 2008年6月1日

百卒長は、彼の頼みにしていた僕が病気で苦しみ、今や瀕死の状態でした。この時、彼はイエス様のことを聞いてユダヤ人の長老たちをイエス様の所に遣わして、彼の僕を助けて下さるようにお願いしたのです。すると、イエス様は、「行ってなおしてあげよう」と言って、すぐに彼の家に向かわれたのです。そのことを知った彼は、わたしの配下の兵卒は、「行け」「来い」「これをせよ」という一言の命令を必ず実行します。イエス様が来て下さらなくても、最高の権威者であるイエス様の一言で、僕は必ずなおります。だから「ただ、お言葉を下さい」と言ったのです。イエス様は、彼のこの信仰を賞賛したのです。(伊藤)

ナインのやもめのひとり息子 7章11〜17 2008年06月8日

イエス様と弟子たちは、ナインの町に住むやもめの一人息子が死んで、棺に入れられてかつぎ出されるところに出会われた。婦人はすでに、夫に先立たれ、唯一の生きる望み、支え、慰めであった一人息子を失った。イエス様はこの母親を見て深い同情を寄せられて「泣かないでいなさい」(13節)と言われた。さらにイエス様は近寄って棺に手をかけ、「若者よ、さあ、起きなさい」(14節)といわれ、若者を生き返らせて彼の母親の手に返された。死人が生き返るというのは、数多いイエス様の奇跡の中でも特に人々を驚嘆させた。著者ルカは、百卒長僕の癒しに次いで死人が生き返った事件を記し、神の国の福音の力が、病気を癒すだけでなく、死人を甦らせる領域にまで及ぶことを明らかにした。(伊藤)

ヨハネの質問 7章18〜35 2008年06月15

22節を「重い皮膚病にかかった人」と読み替えてください。バプテスマのヨハネの弟子たちは、イエス様がやもめのひとり息子を死から生き返らせた、という驚くべき出来事を、ヨハネに報告しました。ヨハネは弟子を遣わしてイエス様に質問しました。「『きたるべきかた』はあなたなのですか」と。イエス様は旧約聖書イザヤ書のみ言葉を示し、預言されたメシヤがご自身であることを明らかにしてくださいました。イエス様はヨハネについて、尊い働きを担って遣わされたヨハネだが彼にも増して、信仰によって罪を悔い改めイエス様を信じて神の子という立場をいただいた者は、恵みによって救いを受け、ヨハネよりも大いなる祝福を受ける者とされていると、教えてくださいました。 (市川)

シモンと罪の女 7章36〜50 2008年06月22

この女の人は、イエス様がパリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いてシモンの家にやって来ました。香油が入っている石膏のつぼを持っていました。思わず溢れ流れた涙でぬらしたイエス様の足を髪の毛でぬぐい香油を塗ると、香油が部屋に香りました。この人はイエス様のお話をどこかで聞き、イエス様を信じ、罪ゆるされた感謝を表したくてやって来たのでしょう。この時、シモンの考えをすべて知っておられたイエス様は、500デナリの借金をゆるされた人と、50デナリの借金をゆるされた人と、どちらがより感謝するだろうかと、たとえて話されました。シモンの返答は正しかったのです。しかし、罪の女のようにはイエス様に感謝できませんでした。なぜなら罪の自覚とゆるされた喜びを知らなかったからです。  (市川)

福音に仕え、福音に聞く 8章1〜15 2008年06月29

  8章に一貫して流れているものは福音を聞き、その人生を変えられた人々の物語である。イエス様と12弟子たちは神の福音を伝えつつ、町々村々を巡回していた。この伝道団の生活を支え奉仕したのは、婦人たちで、後に彼女たちは復活の証人ともなる。続いて有名な種まきの譬が記されている。弟子たちの質問に対して、イエス様は丁寧に答えた。イエス様は、道ばたに落ちた種のような、かたくなな人ではいけない。また、岩の上に落ちた種のように、表面的な一時的熱狂者であってもいけないし、根のないような幻想家でもいけないという。そしていばらの間に落ちた種のように、二心であってもいけない。なぜなら人は神と富とに兼ね仕える事ができないからだ。要するに、良い地に落ちた種のように、良い心で、御言をしっかり聞く事だ。(伊藤)

イエス様の家族 8章16〜21 2008年07月6

種まきの譬のあとの「あかり」「隠されているもの」「持ちもの」の譬は、三つとも神の国の奥義である神のことばに関係している。みことば、はいって来る人々を照らすべきであり、「隠されている」みことばは、やがて公に伝道されねばならない。また、みことばを聞いただけで「持っていると思って」いてはいけないのである。続いてイエス様の家族について記している。家族はイエス様の存命中には、同調していない。マルコによる福音書3章21節によると、近親の者たちがやって来て、「イエスを取り押さえに出てきた」とある。彼を気が狂った人と思い込んだからである。マタイによる福音書10章36節では、イエス様は弟子たちに「家の者が、その人の敵となるであろう」と警告している。(伊藤)

嵐の中で 8章22〜25 2008年7月13日

   イエス様が「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われましたので弟子たちは主のお言葉に従ってガリラヤ湖に舟を出しました。イエス様も一緒にお乗りになりました。しかし、思いがけず、突風が吹き嵐になったのです。イエス様のお言葉に従って悔い改め信仰生活に進みました。学び、働き、家庭を築き、事業を成し、生活は進んでゆきます。目には見えませんが主が共にいてくださいます。なんという平安と幸福でしょうか。しかし、思いがけない困難に遭遇します。子供たちの健康、勉学、人間関係、家庭や会社での困難、これらは主が共にいてくださってそのうえで出会う事柄です。主が風と荒波をおさめ、なぎにしてくださったとき、改めて、主が共にいてくださった、と恵みを知るのです。願わくは嵐のただ中で、主の愛と真実はいつも変わらない、と信じて御名を呼び求めたいものです。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50篇15節)。(市川)

神のみもとへ 8章26〜39 2008年07月20

嵐を静めたイエス様は、全てを治めておられる全能の神様です。弟子たちはイエス様のみ力に驚きました。この悪霊につかれた人は、自分を救うこともできず、悪霊の思うままに大変な毎日を送っていました。イエス様は彼から悪霊を追い出してくださいました。鎖に繋がれても鎖を断ち切って荒野にいた人が、今は着物を着て正気になってイエス様の足もとに座っていたのです。わたしたちも、悔い改めイエス様を信じ、イエス様に心に住んでいただくまでは、悪霊の支配の元で生きているのです。主はパウロを遣わしこう言われました。「彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである」(使徒行伝26章18節)。(市川)

ヤイロの娘の甦りと長血の女の癒し 8章40〜56 2008年07月27

  ここには、会堂司ヤイロのひとり娘の甦りと、12年間、長血をわずらっていた女が癒された記事が、組み合わされた形で記されています。当時、会堂司が青年宗教家のイエス様にひれ伏すとは異例のことでした。この会堂司にこうさせたのは、12歳になるひとり娘が死にかかかっていたからです。しかし娘は、イエス様が着く前に亡くなりました。途中で、12年間長血をわずらっていた婦人のことが記されています。この婦人もまた何とか病気を治そうとしましたが癒されず、イエス様に救いを求めてきたのです。イエス様はヤイロの娘を甦らせ、婦人の病を癒されました。そしてこの人たちに求められたのは、不可能を可能にする神様に対する信仰です。(伊藤)

12弟子の派遣 9章1〜9 2008年8月3日

イエス様は、弟子たちに特別な賜物をお与えになって派遣された。この派遣は、以前よりも厳しいものだった。イエス様は12弟子たちに、三つの命令を授けている。第一は、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな」。第二は、報いられる権利があるから「どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ」。第三は、迎える家もない町には、「足からちりを払い落しなさい」。この伝道の結果、民衆はイエス様を、ヨハネ、エリヤ、預言者の再来と認めて、新しい時代のしるしを見た。それで領主ヘロデは「ひどく当惑し」「イエスに会ってみよう」と思ったのである。なぜなら、ヨハネ再来説の唱道者は彼自身でしたから、イエス様を危険人物として、この時に抹殺してしまいたかったのかもしれない。(伊藤)

天を仰いで祝福し 9章10〜17 2008年8月10日

弟子たちは神の国を宣べ伝え病気をなおすためにつかわされました。彼らはイエス様にその報告をしました。その後イエス様は弟子たちを連れて、ガリラヤ湖畔のベツサイダに退きましたが、ついて来た人々になお神の国について話し、病気をいやしてくださいました。気づくともう夕暮れでした。解散するように言う弟子たちにイエス様は「あなた方の手で食物をやりなさい」とおっしゃったのです。弟子たちが「パン五つと魚二ひきしかありません」と答えるとイエス様は、群衆を五十人ずつ組にして座らせなさいとおっしゃいました。男の人だけでも五千人いたのですから、百組はできたことになります。イエス様は天を仰いで五つのパンと二ひきの魚を祝福してさき、配らせたのです。人々は満腹し、残りは十二かごありました。    (市川)

ついてきたいと思うなら 9章18〜27 2008年8月17日

イエス様にお従いするのに妨げとなっているのは自我だと言えるでしょう。イエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て」と教えてくださいました。自分の考え、自分のやり方、自分の望み、自分の計画と、イエス様の考え、イエス様のやり方、イエス様の望み、イエス様の計画は異なります。自分の考えに固執しているなら、イエス様の考えには気付かないし、従うことができません。イエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て」と言われました。「日々自分の十字架を負うて」と言われたように、この点について、日々確認と選択が必要、ということでしょう。イエス様はご自分のお考え、やり方、望み、計画でなく、父なる神様の御心を知りその道を選んで歩みました。その結果は十字架の死でした。しかし、それは栄光の復活に繋がっていました。イエス様の十字架の道は、イエス様を信じる者を救う勝利の道でした。(市川)

祈っておられる間に 9章28〜36 2008年8月24日

28節の「山」とは、ヘルモン山ではないかと言われている。これは海抜2,800mを越える高い山である。イエス様は朝早くペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて登られ、頂上に着いたのは夕暮れであっただろう。この記事は、マタイ、マルコの両福音書にもあるが、「祈るために」山に登られ、「祈っておられる間に」み顔の様が変わったということ、またモーセとエリヤが現れて、イエス様と語り合ったことの内容は、イエス様が「エルサレムで遂げようとする最後のこと」であったとは、ルカ特有の記事である。イエス様はご自分で十字架の死を予告されてから、なぜ、すぐエルサレムに行かないでヘルモン山に登られたのか。それは全人類が罪から救われる道は、十字架上で死ぬ以外にない事を確認するためであったのだろう。(伊藤)

弟子たちに欠けていた三つの点 9章37〜50 2008年8月31日

ここでイエス様は、弟子たちに欠けている三つの点を教えている。第一に、弟子たちのイエス様に対する信仰に欠けている点である。ある父親が悪霊に憑かれた息子を癒してくれるように弟子たちにお願いしたが、出来なかった。イエス様は弟子たちに対して不信仰だからと叱られた。第二に、イエス様の二回目の死の予告に対する理解に欠けている点である。「人の子は人々の手に渡されようとしている」(44 節)という言葉にも、弟子たちの耳には空しく響き、悟ることが出来なかった。第三に、弟子たちが謙遜に欠けている点である。弟子たちにとっての興味関心は「だれがいちばん偉いだろうか」ということだった。弟子である道は、自己否定の道であり、イエス様自身も手本を示されたにもかかわらず、彼らは幼稚な議論をしていたのである。(伊藤)

心を定めて 9章51〜62 2008年9月7日

イエス様がエルサレムに向かう途中、サマリヤ人は快くお迎えしませんでした。弟子たちは激しく憤っています。十字架の死が近づいていました。イエス様はいよいよ堅く心を定め十字架に向かって進み行かれました。そのイエス様に、ある人は、どこへでもお従いします、と言いました。しかしイエス様は神の国のためには休む家もない日々です、と念を押しました。言外に、今十字架の死に向かって進んでいるのです、その心備えがありますか、と言っておられるようです。他の二人はいろいろ条件をつけました。イエス様が父なる神様にひと足ひと足従い行くお姿は、死に至るまで従いとおした従順のお姿でした。(市川)

収穫は多い 10章1〜16 2008年9月14日

イエス様は、12使徒とは別に町や村へふたりずつおつかわしになり「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。…」と言われました。主は、人々が飢え渇き疲れ果てて救いを求めていることをだれよりも知っておられました。「目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。」ヨハネ福音書4章35節、とも言われました。弟子たちは主のように人々を見ることができたでしょうか。主はひとりひとりの魂の奥底の飢え渇きを知っていてくださる方です。あなたが主に求めれば、主はあなたの心に住み、生ける水が川となって流れ出るようにしてくださるのです。 (市川)

さいわいな弟子たち 10章17〜24 2008年9月21日

       弟子たちの伝道旅行で最も印象的であったのは、悪霊を服従させたことらしい。「主よ、あなたの名によっていたします」、得意になって語っている。弟子たちの関心は、自分たちが神の国の民であるよりも、力あるわざに向けられていた。しかし主は、彼らが派遣された目的は「神の国はあなた方に近づいた」(9節)ことを人々に知らせることであると、ここで諭されている。旧約の時代は、神の御子から直接神の力も神の国の福音も聞くことは出来なかった。それを考える時、今イエス様といることの出来る弟子たちは、イエス様から与えられている、自分の名が天に記されている喜びと、神の国を知る特権に預からせて下さった主なるイエス様を喜び感謝するという、二重の喜びを与えられているのだ。(伊藤)

良きサマリヤ人のたとえ 10章25〜37 2008年9月28日

「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」(25 節)という問いは、人間にとって最も重大な問いである。人々はイエス様に対して、この問いを一度ならず言っている。この箇所のほかに、同じルカによる福音書18 章18 節から23 節にも記されている。イエス様はこの問いに対して「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読むか」と逆に問い返している。すると律法学者は、神様への完全な愛と、隣人への完全な愛だと答える。しかし、そのように答えたものの、彼は自分が永遠の生命を持っているという強い自信はないのである。彼は隣人を限定しているからだ。彼は、イエス様から律法の記されているとおりに実行せよと言われると「では、私の隣リ人とはだれのことですか」とさらに問い返した。そこでこの有名な「良きサマリヤ人のたとえ」を話されたのである。(伊藤)

マルタとマリヤ 10章38〜42 2008年11月2日

イエス様と弟子たちはエルサレムの東、ベタニヤにやって来ました。そこには弟のラザロを含め三人姉弟の家がありました。旅の途中のイエス様たちをよくもてなす家庭でした。マルタはかいがいしくもてなしの準備をしました。しかし、忙しくして心を取り乱し、座ってお話に聞き入るマリヤをイエス様に言いつけ、イエス様にも憤りの気持ちを向けたのです。主は、マリヤがみ言葉に聞き入ることを取り去ってはいけないと諭してくださいました。マルタも心をみださず主を喜びながら準備に励むことも可能でした。それぞれの心が主に向いているかどうか、ということでしょう。マリヤは座って聞き入ることで、マルタも主に心を向けて仕えることで。 (市川)

祈り 11章1〜13 2008年11月9日

祈りなさい、求めなさい、と招いてくださる主の愛に、わたしたちは生かされています。父が子に良いものをくださるように愛してくださるのです。13節には「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」とあります。祈りが答えられるのは素晴らしいことです。しかし、聖霊なるお方が豊かにのぞんでくださることはさらに素晴らしいのです。主は言われました。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」ヨハネ福音書14章26節。主と共に歩む幸福に、主をお知らせできる幸福に、わたしたちは招かれているのです。  (市川)

神の言を聞いて守る人々 11章14〜28 2008年11月16日

イエス様は悪霊を追い出し、神の国は来たことを証明している。しかし敵対者は信じない。彼らはイエス様を中傷し、悪霊を追い出せたのは、悪霊のかしらとぐるだからだと言いふらす。イエス様はこれに対して「国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう」(17節)と、その矛盾を明らかにした。しかし彼らは全然聞く気がない。結局イエス様に自分を心から変革してもらいたいと思わない者は、悪霊が住みついてしまい、最終的にイエス様の臨在を感じることが出来ず、自分の心の中より締め出してしまうことになるということだろう。こう話していると、一人の婦人が、イエス様を産んだ母親は恵まれた人だと賞賛をした。それに対してイエス様は「恵まれているのは、むしろ神の言を聞いてそれを守る人たちである」(28節)と教えられた。(伊藤)

誰よりもまさった救い主 11章29〜36 2008年11月23日

人々はイエス様に向かって、お前が救い主なら「天からのしるし」(16節)を見せるように求めた。伝えられていた、天からの声か火の柱のようなものだろう。しかし、イエス様はこれを拒み、復活を予告された。その手法は旧約聖書にしるされているヨナやソロモンに起こった出来事を語り、悔い改めと信仰を求めるものだった。ヨナの宣教を聞いて悔い改めたニネベの人々、ソロモンの知恵を聞くために遠い国からやってきたシバの女王。彼らは共に、神の言を聞いて信じ救われた。しかし、今誰よりもまさった救い主がいるのに、人々は信じようとしないのである。33節からは、体が目に依存しているように、生命の光は心に依存している。だからイエス様は、聖霊によって内なる光がいつも輝いているように気をつけるべき事を諭された。(伊藤)

心の内にキリストの光を 11章37〜54 2008年11月30日

41 節42 節のようにパリサイ人は形式主義に陥っていました。外側を整えても心の内の罪のきよめと神様に対する愛が欠けていれば空しく悲しいことです。うん香はみかん科の植物だそうです。44 節、墓に触れれば儀式的に汚れるので目立つように墓は白く塗られていました。墓を避けて通りました。しかしパリサイ人の誤った教えは人目につかない墓のように知らないうちに人々に悪影響を与えている、ということです。46 節、律法学者が作り出したたくさんの律法は、人々に重い荷物を負わせて苦しめているようなものです。そこから救い出そうともしないし、救い出す力もないのです。旧約時代の預言者をはじめ多くの預言者が殉教しました。彼らを記念して碑を立てますが、殉教させたのは彼らの先祖でした。彼らは今も、神様から遣わされた救い主キリストを排除しようとしています。現代においても自分自身も心の内にキリストの光が必要です。   (市川)

おまけのすずめ 12章1〜12 2008年12月7日

おびただしい群衆がイエス様の周りに群がっていましたが、イエス様はまず弟子たちにお語りになりました。11章にも言われていたように、パリサイ人の偽善に気をつけなさい、と。神様はすべてをご存知で、明らかになるときがくるのです。マタイ福音書10章29節には二羽のすずめは一アサリオンで売られている、とあります。そして五羽のすずめが二アサリオンで買えました。一羽おまけになったようです。「その一羽も神のみまえで忘れられてはいない」のです。「その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない」(7節)と言ってくださる主なる神様が共にいてくださいます。「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」箴言29章25節。              (市川)

愚かな金持のたとえ 12章13〜21 2008年12月14日

ある人が、イエス様に遺産問題で助けを求めてやってきた。その時イエス様はたとえで「人のいのちは、持ち物によらない」ことを教えられた。その中でイエス様は、金持ちの農夫に対し「愚か者よ」と言われた。彼は常識のある成功者に見える。彼の仕事は人間が生きていくために必要なものだし、骨身惜しまぬ彼の労苦により豊作だったので、彼は穀物を貯えて将来に備えようとしたのである。彼が、自分の財産によって老後を安楽に暮らそうというのは賢い計画だ。それなのに、なぜ神は彼に「愚か者」といわれたのだろうか。詩篇14篇1節には「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」とある。彼の心には、自分が神様に生かされているという謙虚な気持ちがなかったからである。(伊藤)

そんな小さな事さえ 12章22〜34 2008年12月28日

「そんな小さな事」が「だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」を指しているとしたら驚くべきお言葉です。神様は寿命をも御手に治め、鳥を養い花を美しく装わせ「あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」と言ってくださり、必要を添えて与えてくださる方です。異邦人とは神様に信頼しない人々です。彼らが切に求めるのは生活にかかわる多くの事柄です。クリスマスの時、切に求めていた人々を思い起こします。貧しい羊飼いたちが求めていたのは、救い主のお生まれでした。高齢のシメオンやアンナも救い主のご降誕を待ち望んでいました。東方の博士たちが切に求めたのも、救い主にお会いすることでした。ホセア書6章3節には「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。」とあります。   (市川)

目を覚まして 12章35〜48 2009年1月4日

イエス様の再臨は、主人が婚宴から帰宅する様子に譬えられています。ユダヤの婚宴は何日も続きました。主人が真夜中に帰ってくるのか、明け方に帰ってくるのかわかりません。そのとき「目を覚ましているのを見られる僕たちは、幸いである」と教えられています。また、盗賊が家に押し入る様子に譬えられています。盗賊が家に押し入る、これこそ、いつ、などと、だれにもわかりません。「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」とあります。忠実な思慮深い家令が主人を迎える幸いにも譬えられています。「目を覚まして」再臨の主を待ち望むとは、日々、今、どのように生きることでしょうか。  (市川)

火を地上に投ずるために 12章49〜59 2009年1月11日

聖書で火は裁きや試練をあらわす象徴として用いられてきた。神様はイエス様を人間の罪の身代わりとして十字架につけられた。この事は、時には人々に平和ではなく分裂をもたらすことになる。クリスチャンは自分の家族と仲良くやっていく必要があるのは言うまでもない。しかしイエス様は神様の裁きを身に受けて私たちを救い出して下さったという事実は変えられない。だからこの真理が明らかにされるために分裂が生じることがある。現代の終末的状況は、救い主イエス様を受け入れない所からきている。それを理解するのに最後の審判のたとえを語られる。ある人が裁判にかけられて役人の所に連れて行かれる。彼を待ち受けているのは有罪判決で、ひとたび判決が下されるなら、もう手遅れである。しかし神様は人々を罪から救いたいと願いイエス様を十字架につけられた。でも人々がそれを拒否するならば、尊い救いもその人にとっては無駄になる。(伊藤)