館林キリスト教会

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ショート新約 コロサイ人への手紙

「恵みと平安」 コロサイ人への手紙1:1〜8

 今のトルコにあったコロサイ教会は、パウロが程近いエペソに伝道した時、その伝道の波及の結果、近くにできた教会でした。しかしパウロ自身はこの教会を訪れたことはありません。その後パウロは獄中で、兄弟エパフラスからコロサイ教会の様子を聞いたようです。そしてコロサイ教会の信仰の励ましと指導のために手紙を書き送りました。それがこの聖書です。冒頭にパウロが、祈り心のうちに挨拶を記しています。2節「父なる神から、恵みと平安とがあなたがたにあるように」。私たちは「恵みと平安」を作り出すことは出来ません。それは神様が下さる賜物です。私たちの幸福は、その賜物の平安によるのです。平安が失われれば誰も幸福ではいられないでしょう。それゆえにこそ、パウロはこの冒頭の祈りを捧げたのでしょう。 (市川)

「パウロの祈り」 コロサイ人への手紙1:9〜14

活動的なパウロは今獄中にいます。彼はその時その場で出来ることに専心し、主に仕えていました。彼は訪ねて来る人に説教し、教会に手紙を書き、人々のために祈りました。12節まで続くこのパウロの祈りは、コロサイ教会に対する2つの嘆願を記しています。第一は、「神のみこころを深く知るように」という祈りです。私たちは、神を聞き従わせるような祈りに陥り易いので、祈る時に、神様が私たちに何を願っているのかに気づいて行くことが大切です。第二は、「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせるように」と言う祈りです。具体的には、「あらゆるよいわざに実を結び」、「神を知る知識を増し」、「神の力で強くされ」、「父なる神に感謝する」ように努めることです。(伊藤)

「神の栄光の啓示」 コロサイ人への手紙1:15〜20

 私たちは神様を見ることはできません。しかし神様はキリストによってご自身を現されました。ヨハネ福音書1章18節には「神を見た者はまだひとりもいない。…ひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」。第二コリント4章6節には「キリストの顔に輝く神の栄光」とあります。キリストはもともと神ご自身であられ、万物の創造者です。万物はキリストにあって結び合わされ、秩序が与えられています。また頭が体の隅々に指示を送り体を生かしているように、キリストは教会のかしらです。キリストは十字架によって神と人のために真の和解と平和をつくり、また最初に死から復活して死に勝利を得られました。それゆえに彼は教会のかしらとなられました。尊いことではありませんか。(市川)

「神との和解の目的」 コロサイ人への手紙1:21〜29

 私たちが救われたのは、私たちが立派で善い行いを積んだからではありません。私たちは「かつては悪い行いをして神から離れ」(21節)ていた者でした。しかし、神様は、このような私たちのために御子を死に渡すことで赦し、神様と和解させてくださったのです。それは私たちを「聖なる、傷のない、責められるところのない者」(22節)として神のみ前に立たせるためです。また、この救いの恵に預かった私たちが、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、人々の救いを願って宣教するためです。ローマの獄中でこのように記したパウロ自身も、口先だけで愛する者ではなく、身をもってキリストのからだなるコロサイ教会のために、喜んで様々な苦難を引き受け、主に仕えていたのです。(伊藤)

「信仰の絆」コロサイ人への手紙2:1〜7

 クリスチャンの歩みは信仰の絆でしっかり結びついていることが大事です。パウロはコロサイ教会の人々が、常に心を励まされ、お互いの愛によって固く結ばれるように、熱心に祈り勧めているのです。信仰が健全に成長していくと愛に満ちた交わりを生み出していきます。さらにこの交わりは信仰の確信へと導き、神の奥義なるキリストを知るに至らせるのです。だからパウロは、「キリストに根ざし」(7節)て歩むようにとも言ったのです。先日の聖地旅行で、荒涼としたシナイ半島の砂漠を通った時、アカシヤの木だけが道沿いにまばらに生えていました。この木は自分の高さの5,6倍にまで根を伸ばし、地下水から水を供給しているのだそうです。信仰の成長の秘訣を教えてくれるようです。(伊藤)

「無効の証書」コロサイ人への手紙2:8〜15

 神様は、私たちを責める証書を、規定と一緒に、キリストの十字架によって無効にし「わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった(13節)」のです。これは「キリストの割礼(11節)」を受けたと表されています。同時に洗礼(バプテスマ12節)に象徴される霊的な意味があります。第一は、キリストを信じる以前の古い自分は死んだということです。「肉のからだを脱ぎ捨てた(11節)」「彼(キリスト)と共に葬られ(12節)」たのです。第二は、キリストの命に新しく生まれたということです。「信仰によって、彼(キリスト)と共によみがえらされた(12節)」のです。第二コリント5章17節「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」の通りです。 (市川)

「キリストとの結合」コロサイ人への手紙2:16〜23

 パウロはコロサイ教会に対して、ある人々の禁欲主義に警戒するように言いました。それは、彼らが食物や宗教上の様々な禁欲的規定をならべ、人々に励行を勧めていたからです。また、彼らはカリスマ的仲介者の霊力を借りての天使礼拝を主張し、幻を見たことで誇り高ぶっていたのです。しかしパウロは、これらがみな「ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙遜と、みせかけのからだの苦行」で、ほしいままな肉欲を防ぐのに、何の役に立つものではないことを指摘したのです。そして、それよりもかしらなるキリストとの結合こそ重要だと教えたのです。それはからだにあって多くの種類の器官や節々や筋肉が互いに働き、一致して力強い生命を保持するように、人はキリストに結び合わされて育てられ、生き生きと成長するものだからです。(伊藤)

「新しい創造」コロサイ人への手紙3:1〜11

 キリストを信じた者は、信仰によって、キリストと共に葬られ、キリストと共によみがえらされたのです。ですから上にある永遠の宝を目当てにしなさい。そこにはキリストが神様の右に座を占めておられます。キリストを信じた者の新しい命は、今は、キリストと共に神様の内に隠されています。しかし、やがてキリストが現れる時、彼らはキリストと一緒にキリストの栄光の輝きの内に現れるのです。パウロは「だから」(5節)と続けます。神様のみこころに敵対したかつてのような生活を捨て去り離れなければいけません。貪欲は「偶像礼拝」すなわち、神様の代わりに自分と被造物を神とする罪です。これに続く様々な罪を捨てなさい。なぜなら、キリストにある者は古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着たのですから。  (市川)

「キリスト者の着物」コロサイ人への手紙3:12〜17 2000年2月6日

 パウロは、8,9節で古い着物について書いた後、新しくされたクリスチャンが着るべき着物を記しています。12節には新しい人の魅力的な衣類として、あわれみの心、慈愛、謙遜の下着と、柔和、寛容、忍耐、赦し合いの上着を記しています。また14節には「愛を身に着けなさい」(新改訳)と勧めています。なぜなら神の愛こそ「すべてを完全に結ぶ帯」で、永遠的な価値あるものだからです。最後に15節には「キリストの平和と感謝の心」を身に着けるように勧めています。これらはクリスチャンの身につける着物で、私たちがいつも着ていると、神の栄光を現せるのです。(伊藤)

「主への畏敬」コロサイ人への手紙3:18〜4:1 2000年2月13日

 夫と妻、両親と子供、特に主人と僕の関係が語られています。ローマ帝国社会は奴隷制で成り立ち、奴隷は私財を持てず主人の私有物でした。病気になれば捨てられ死を待つばかりでした。この社会形態で奴隷解放を行うなら、彼等が職と生活の場を失うことは目に見えていました。パウロは彼等に「どのような社会、境遇でも、主への畏敬の故に地上の主人に真心から仕えなさい。あなたがたが本当に仕えている方はキリストだからです。真の報いは人でなく、主からであることを心に留めていなさい。」主人には「彼等を人格ある存在として正しく公平に扱いなさい。全てをご存知で正しくお裁きになる主人が天に居られるからです」と教えています。聖書の教えによりやがて奴隷解放が実現したのは、歴史が証言しているところです。 (市川)

「祈りと証」コロサイ人への手紙4:2〜6 2000年2月20日

 パウロは、家庭の交わりから教会の交わりについて記します。「教会」という語は「呼び出された者の集まり」という意味があります。パウロは、この手紙を読む人が「目を覚まして祈り」、「賢く行動するよう」に勧めています。毎日の祈りと御言葉を読む時も眠気の催す時間ではなく、自分の最も良い時にする心がけが大事です。また御言葉を伝える機会が与えられた時、語るべきことを明快に語るために、どうしても必要なのは背後のとりなしの祈りです。教会の外部の人に対しては、時が良くても悪くても、機会を生かし、福音を大胆に語ることです。しかし、粗野にならず、押しつけがましく語らないように気をつけなければなりません。ですから親切で塩味のきいた会話が求められているのです。(伊藤)

「オネシモとマルコ」コロサイ人への手紙4:7〜12

 ここにはエパフラスも含めて六名が挙げられています。そのうちのオネシモとマルコ。オネシモは、主人ピレモンに何らかの不都合を及ぼしたようです。彼は大都市ローマへ逃れた奴隷。そこでパウロに出会ったのです。パウロの祈りと導きを受け悔い改め、救いに与り、今パウロは彼を「忠実な愛する兄弟」と呼んでいます。オネシモはパウロから「ピレモンへの手紙」を託され主人のもとに帰ることになりました。バルナバのいとこマルコ。彼はパウロとバルナバの「第一次伝道旅行」に同行し、途中で引き返してしまった青年です。バルナバの導きと助けによって、やがてパウロにとって有用な人物となりました。パウロは「同労者、わたしの慰めとなった者」と言っています。彼は「マルコによる福音書」の執筆者でもあります。(市川)

「祝福を祈るパウロ」コロサイ人への手紙4:12〜18

 パウロは自ら力づけた同労者を6人あげています。そのうち3人はユダヤ人で、他の3人は異邦人です。12節からは異邦人のエパフラス、医者のルカ、デマスが記されています。エパフラスは祈りの人で、彼の祈りはキリストのゲッセマネの祈りを思い起こさせた程、熱心・真実でした。医者のルカは、最後まで獄中のパウロのそばに付き添っていた主治医です。ルカの存在はパウロにとってどんなにか心強かったに違いありません。デマスは後に、この世を愛し、キリストから離れてしまった背教者です。彼の生き方は私たちへの警告です。こうして獄中のパウロは、鎖に繋がれた手で署名をし、「恵みがあなたがたと共にあるように」と祝福を祈ったのです。(伊藤)