館林キリスト教会

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ショート新約 ヨハネの黙示録

ヨハネのあかし ヨハネの黙示録1:1〜8 2003年6月29日

 聖書は私たちの魂の食物です。ですから日々食事を取るように、聖書を読むことは成長にかかせないものです。しかし、聖書をただ読んでも分からないところがあります。その中で、一番わかりにくいのがヨハネの黙示録だと思います。これは、その名が示すとおり、黙示による記録だからです。「黙示」とは、別に啓示とも呼ばれます。原典のギリシャ語から意味を解き明かしますと、「黙示」とは、覆いを取り除くことです。ですから聖書の神は、覆いを取り除くお方であると言えるのです。ヨハネの黙示録は、決してヨハネ自身の心に湧いてきた考えに、予言的な言葉を加えたといった類のものではありません。彼は「自分が見たすべてのことをあかしした」(2節)と書いています。それは、ヨハネ自身が感じたものではなく、生ける神の言です。また同時に、それはイエス・キリストがあかししてくださった事柄です。(伊藤)

パトモス島   黙示録1:9〜16 2003年7月6日

 ヨハネは迫害を受けてパトモス島に流刑となっていました。しかしこの苦難の中でも、忍耐しながら御国を待ち望んでいました。彼はここにいる間に神様から幻を見せていただき、神様の御心を教えていただきました。エーゲ海に浮かぶロドス島の西に、パトモス島がありました。また、小アジアのエペソという町からは、南西約100キロに位置しました。島の周囲は約30キロ、火山岩の小島です。ヨハネは「主の日」である聖日、礼拝と祈りの時でしょうか、幻のうちに、見たことを急いで書物に書いて七つの教会に送りなさい、というラッパの響きのような大きな声を聞いたのです。この七つの教会はエペソの北および東に位置しました。声のほうを振り向くと、七つの金の燭台の間に人の子のような方がおられたのです。 (市川)

死に、生きている方  黙示録1:13〜20 2003年7月13日

 ヨハネに呼びかけた声のほうをふりむくと七つの金の燭台の間に人の子のような方がおられました。恐怖で死んだように足もとに倒れているヨハネに、この方は右手を置いておっしゃったのです。「わたしは初めであり、終りであり」すなわちこの方は全能者にして主なる神(8節)でいらっしゃるのです。またこう言われました。「わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である」このようなお方は、十字架で死んで三日目によみがえり天に昇って祈り続けていてくださるイエス・キリストさまだけです。そして「死と黄泉のかぎを持っている」死者の世界のかぎを持っている方です。そして、ヨハネに、あなたの見たこと、現在のこと、今からのち起ころうとすることを書き記しなさい、と言われました。    (市川)

エペソ教会への手紙   黙示録2:1〜7 2003年7月20日

 この黙示録に記されているアジアの7つの教会あての手紙も、それぞれの教会の良い点、賞賛に値することが初めに書かれ、その次ぎに各教会の欠点や非難すべきことが書かれ、結論に「耳のある者は、御霊が諸教会に言う事を聞くがよい」という警告になっています。1節の「右の手に7つの星を持つ者、7つの金の燭台の間を歩く者」とは、教会のかしらであり、教会を守る御使いたちと共に常に行動される勝利者イエス様のことです。エペソの教会は2つのことで賞賛されています。1つは「わざと労苦と忍耐」です。エペソの教会は、活発な活動、苦労の多い働き、苦難や迫害にも耐えていたのです。2つめは、偽の信仰者を見抜く目を持っていたことです。しかし非難すべきことは、「初めの愛から離れてしまった」ことです。この問題の解決は悔い改めしかありません(伊藤)

スミルナ教会への手紙 黙示録2:8〜11 2003年7月27日

  この個所ではイエス様は、「死んだことはあるが生き返った者」、すなわち、復活されたお方、永遠にいますお方として表わされています。スミルナの教会は2つのことで賞賛されています。第一は「苦難と貧しさ」に耐えていたということです。主を信じるゆえに地上での貧しさに負けないで生きることは尊いことであり、「実際は富んでいるのだ」と逆説的方法で書いているのです。第二は「サタンの会堂に属する者たちにそしられている」ことに耐えていることです。ユダヤ人たちは神の選民と自負しながら、悪魔の手先となっていたのです。こうした様々な苦難がありながら終りの日を待ち望む教会に対し、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」と勧めているのです。(伊藤)

ペルガモ教会へ   黙示録2:12〜17 2003年8月3日

 「サタンの座」がある町ペルガモ。当時皇帝礼拝や偶像礼拝が行われる、アジアの政治と文化の中心地でした。ここで、ペルガモ教会の人々はキリストに対する信仰を堅く持ち続けました。キリストはこのことを評価してくださると同時に「責むべきことが、少しばかりある」と言われ「あなたがたの中には」と14節、15節に二度記され「だから、悔い改めなさい」(16節)とおっしゃいました。「バラムの教え」は旧約聖書の偽預言者バラムの偶像礼拝と不品行の罪が指摘されています。「ニコライ宗の教え」も同様と推測されます。しかし「勝利を得る者には、隠されているマナ」主からの霊的な恵みを受けるのです。(市川)

テアテラ教会へ   黙示録2:18〜28 2003年8月10日

 テアテラは交通が便利で商工業の町として発達しました。「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人」がピリピでパウロのお話を聞いて救われたことが使徒行伝16章にあります。テアテラ教会の賞賛すべき点は「愛と信仰と奉仕と忍耐」が初めの行いにまさっていたことでした。しかし責むべきことは、イゼベルに象徴され、ニコライ宗の教えにも共通する罪でした。しかし、主の裁きによってテアテラだけでなくすべての教会が、主が「人の心の奥底までも探り知る」方であることを悟るようになるとあります(23節)。主に忠実な人々には、み言葉にしっかりと立ち続けるように勧められ、彼らは終りの時、闇に輝く主の臨在の中に生かされる恵みに与るのです。    (市川)

サルデス教会への手紙 黙示録3:1〜6 2003年8月17日

 サルデスの町は、切り立った岩壁に囲まれていたので難攻不落の町と言われていました。しかしある時、兵士の油断から、岩の裂け目をよじ登ってきた敵に不意打ちにされ陥落したのです。その後ローマ帝国に支配されてからも商業都市、皇帝礼拝の盛んな町として栄えました。しかし、こうした町の中にあった教会は、外側から激しい迫害もなく、人々の信仰は無気力になっており、物質的、金銭的には富んでいましたが信仰的、霊的には全く死んだも同然だったのです。ですからここで二度にわたって「目をさまして」いるように勧めたのは、真剣な悔い改めの実行と、いまだ目覚めない人たちが霊的に目覚めるように、力づけることを命じているからです。(伊藤)

ヒラデルヒヤ教会への手紙 黙示録3:7〜13 2003年8月24日

 神様は、小さな力の弱いヒラデルヒヤ教会のクリスチャンたちが、困難と試練の中で持てる力以上に頑張っているのをごらんになって、「わたしは、すぐに来る」と励まし、慰めています。ここでイエス様は、「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者」と呼ばれています。そのイエス様がヒラデルヒヤの称賛に値するその信仰生活と証のゆえに、天国の門を広く開いておかれたのです。そればかりか、「サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに」対して、神様ご自身を信じ、従う者たちをどんなに愛し、祝福されるかを、ヒラデルヒヤの教会を通して具体的に知らせているのです。(伊藤)

ラオデキヤ教会へ 黙示録3:14〜22 2003年8月31日

 ラオデキヤはエペソの東方150キロに位置し、商業都市として栄えました。金融業、毛織物が有名で、ことに薬の学校があり、目薬は当時の世界中に輸出されていました。この箇所には、七つの教会に宛てた手紙の中で最も厳しいお言葉が記されています。ラオデキヤの教会は迫害の危険もなく、平和と繁栄のゆえに自己満足に陥り、なまぬるい信仰になってしまっていました。17節の表現はラオデキヤが金融業、目薬、毛織物で有名だったということを考えるとよくわかります。18節には「火で精錬された金」「白い衣」「目薬」が挙げられ、霊的富、義の衣、霊的な目が見えるように、これらを主に求めるように、19節には「熱心になって悔い改めなさい」と主の憐れみによる勧めが語られています。 (市川)

天の幻 黙示録4:1〜6 2003年9月7日

 これまでは地上の教会について記されていましたが、4章、5章は天における神様とキリストの栄光が記されています。ヨハネは天における神様の栄光を見せていただきました。これは「これから後に起こるべきこと」を見せていただくためでした(1節)。3節で「碧玉や赤めのう」のように見えたとありますが、これは神様の栄光と尊厳を表すための象徴です。これらの宝石は大祭司の胸当てにつけられていたのと同じ石です。またヨハネの黙示録21章の天のエルサレムの城壁の土台を飾る宝石でもあります。5節「御座からは、いなずまと……雷鳴とが、発していた」とは、神様の力と栄光を表す表現です。  (市川)

4つの生き物 黙示録4:7〜11 2003年9月14日

 ヨハネが見た天の幻の最後は、「4つの生き物」です。この4つの生き物は、しし、雄牛、人、わしのようだと書いてあります。これは全ての被造物を網羅するものの姿だと言われます。エゼキエル書1章や10章をみますと、この4つの生き物は「ケルビム」でしょう。そしてケルビムのいる所は、神の臨在の場所を表しているのです。この4つの生き物は、昼も夜も、高らかに「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神、昔いまし、今いまし、やがてきたるべきもの」(8節)と賛美しているのです。この賛美の対象はいうまでもなくイエス・キリストです。こうして、十字架の主とともに、復活された栄光の主が讃えられているのです。(伊藤)

封印を解くお方 黙示録5:1〜7 2003年9月21日

 4章では、天の幻が示され、礼拝をした様子が述べられていました。5章においては、小羊であり贖い主である主の幻が示されています。神の御座には巻物があり、その中には世界の運命と神様のご計画がことごとく書き記されているのです。「しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった」(3節)のです。そこでヨハネが激しく泣いていると、長老のひとりが、神の巻物を開くことの出来る「ダビデの若枝」であるお方を教えてくれました。その方こそ、救い主イエス・キリストです。そこで、ヨハネが涙を拭いて見上げると、目に映ったのは、雄々しく勇ましい獅子でなく「ほふられたと見える小羊」(6節)でした。そしてこの方こそ封印を解くのに最もふさわしいお方なのです。(伊藤)

壮大な礼拝 黙示録5:7〜14 2003年9月28日

 「小羊」であるキリストは十字架にかかり、彼の血によって、キリストを信じる者を裁きと永遠の滅びから救ってくださいました。救われた人々はとりなしの祈りをささげる新しい生涯に導かれました。小羊を礼拝する長老たちは「香の満ちている金の鉢」(8節)を手にしていました。この「香」は聖徒たちの祈りです。地上での祈りは、かぐわしい香として小羊の御前にささげられました。小羊を礼拝する御使たちの千の幾千倍、万の幾万倍もの声が満ちました。さらに天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、それらの中のすべてのものが御座にいます方と小羊に礼拝をささげました。「…さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが世々限りなくあるように」(13節)壮大な礼拝と賛美です。 (市川)

七つの封印の幻 黙示録6:1〜8 2003年11月2日

 黙示録には、これから世界に起ころうとすることが記されています。「小羊は進み出て、御座にいます方の右の手から、巻物を受けとった」と5章7節にあります。小羊であるキリストは七つの封印のうちの一つを解きました。すると白い馬が出てきました。これは征服を求める征服者の姿です。第二は赤い馬で、流血をまねく内乱、第三は黒い馬で、飢饉の象徴です。「小麦一ます」は一人の一日の必要量、「一デナリ」は一日の労賃で物価の高騰が、一方ぜいたく品は豊かで貧富の差の激しさが表されています。第四は青白い馬で、死です。地上の四分の一の人が死ぬのです。これらは地上の裁きです。神に会う備えのため「今は恵みの時」ですからキリストを信じて救われることが何より大切です。 (市川)

終末の前兆の幻 黙示録6:9〜17 2003年11月9日

 第5の封印を解く事によって示されたのは、殉教者たちの姿でした。彼らには勝利のしるしである白い衣が与えられ、神のご計画の時を待つように告げられています。次に、第6の封印が解かれた時、天地異変が起こった様子が書かれてあります。こうした終わりの時に、地震や月星の変動については旧約聖書の中にも記され、イエス様も、弟子たちに丁寧に語って聞かせています(マタイ24章等)。また、迫害が起こることも予め教えられ、それは試練ですが証のチャンスになり、それに耐える力も与えることを約束しています。これらを神様が語られた目的は、神様のご計画を示すことであり、このご計画に従って行く時、患難時代を耐えて、新天新地を仰ぎ望むことができるという約束なのです。(伊藤)

印をおされた者の数 黙示録7:1〜8 2003年11月16日

 ヨハネの黙示録6章で、第一の封印から始まって第六の封印まで、矢継ぎ早に封印が解かれてきたことが書いてあります。ところが第七の封印が解かれたことは、8章の冒頭に書いてあるのです。なぜかといえばヨハネは審判の恐るべき光景が示されている幕あいに、救われるものの祝福に満ちた光景を幻のうちに見せられたからです。4節には「印をおされた者の数」のことが記されています。「印をおす」いう言葉は、封印して大事にしまっておく等の意味に用いられます。おそらくここでは、主の「もの」として確認された人々のことを意味していると思います。その数は14万4千人。これは実際の人数ではなくて、完全を示す象徴です。聖書では、7についで、12は神の民の完全数を表します。これは救われた全ての人を指しているのです。(伊藤)

天の大群衆 黙示録7:9〜17 2003年11月23日

 ヨハネは、大群衆が苦しみ、悲しみから解放され、天において祝福に預かっている光景を見ます。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」(14節)、というお言葉のように、救いによる義と勝利のゆえに、喜びに満ちて、御座と小羊との前に立った人々です。「しゅろの枝」は勝利を喜び祝うのに用いられました。彼らが「救いは、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」(10節)と叫んだように、救いも勝利も、神様が与えてくださったのです。14節の「主よ」は長老への尊敬を表しています。いのちの水の泉に導かれ、目から涙をぬぐいとっていただく天における祝福を望みながら、私たちも、信仰の歩みを進んで行きましょう。  (市川)

第七の封印 黙示録8:1〜6 2003年11月30日

 小羊によって第七の封印が解かれました。暫くの間天に静けさがありました。あとに続く七つのラッパを吹き鳴らす準備がされます。この時、七人の御使が神のみ前に立っていました。そして別の御使いが金の香炉を持って祭壇の前に立ちました。七人の御使たちがラッパを吹く前に「すべての聖徒の祈」(3節)が香とともに祭壇にささげられるためでした。やがて香炉は祭壇の火を満たして地に投げつけられました。香炉には火が満たされました。これは、神様の審判の火を表しています。そして裁きの前兆を思わせる雷鳴、いなずま、地震が起こりました。「七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした」(6節)。定められた時が来て七つのラッパが鳴り渡ろうとしています。 (市川)

4つのラッパ 黙示録8:7〜13 2003年12月7日

 7つのラッパのうち、最初の4つは、6章の7つの封印のうちの最初の4つの部分と対応しています。これはあの4つの旗手たちのように、最後の審判における新しい恐れの出来事を導入しているのです。第一の災いは、「血のまじった雹と火」が降ることです。第二の災いは、「火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれる」ことです。第三の災いは、「たいまつのように燃えている星が、空から落ちて」、水が苦くなることです。第4の災いは、太陽、月、星、つまり天体に異変が起こることです。三分の一ということが繰り返し出てきますが、これは「部分的に」という事を表しているのです。(伊藤)

死を求めても 黙示録9:1〜6 2003年12月14日

 9章に入りますと、今度は自然界でなく、人間に対しての災いを展開しています。なぜ、人間の世界に苦しい問題があり、病気で死を考えざるを得ない問題にぶつかるのだろうか、こうした問題について示唆を与えてくれる箇所の1つです。第5の災いは、「一つの星が天から地に落ちた」ことです。この星は人格があるようです。この星にはかぎが与えられ、そのかぎで底知れぬところの穴を開いたのです。すると、そこから人間に害を加えるさそりの毒をもったいなごが出てきたのです。このいなごには、額に神の印のない人間を苦しめることが許されていました。刺された者は5ヶ月のあいだ苦痛を味わい、死のうとしても死にきれずに、断末魔のあえぎを余儀なくされるというのです。想像するだけでもぞっとするような光景です。(伊藤)

いなごの様相 黙示録9:7〜12 2003年12月21日

 第五の御使がラッパを吹き鳴らして出て来たいなごは、戦闘の備えをした馬に似ていて頭には金の冠のようなものがありました。顔は人間の顔に似ていました。かみの毛は女のかみのようで、歯はししの歯のようでした。その胸当ては鉄製の胸当てのようで、羽の音は馬に引かせて全速力で戦闘に急ぐ多数の戦車の響きのようでした。彼らはさそりのような尾と針を持っていて、尾には人間を5ヶ月間害を与えて苦しめる力があるのです。彼らは底知れぬところの使を自分たちの王としています。彼の名前はヘブル語でアバドン「破滅」、ギリシャ語でアポルオン「滅ぼす者」と呼ばれています。さらに激しいわざわいが続きます。 (市川)

悔い改めを待つ神 黙示録9:13〜21 2004年1月4日

 13節からは、第六の御使いのラッパが鳴り響きますと、神のみ前にある金の祭壇の4つの角が出て第六の御使いに、「大ユウフラテ川のほとりにつながれている四人の御使を、解いてやれ」(14節)と呼びかけました。そして、ユウフラテ川に留め置かれている4人の御使いが解きはなされると、この御使いは二億の騎兵隊を使って、人間の三分の一を殺すのです。しかしこの恐るべき審判も、神様は愛のゆえに三分の一に制限されているのです。なぜなら神様は、残った人たちが悔い改めて帰ってくるのを待っておられるからです。しかし、彼らはこの神様のみ旨をわきまえ知ることなく、偶像を礼拝し、殺人、まじないや不品行や、盗みを続け、悔い改めようとはしないというのです。(伊藤)

もう時がない 黙示録10:1〜7 2004年1月11日

 9章13節では、第六のラッパが吹かれ、全人類の三分の一が火と煙と硫黄によって殺されることが預言されています。そして11章15節では、第七のラッパが吹かれ、全宇宙の最後の現象が次々と起こり、ついにキリストが、全宇宙の支配権を永遠に持たれるようになる、と記しています。なぜ次の10章で第七のラッパがすぐ吹かれなかったのでしょうか。それは神様が悔い改めて救われる人が一人でも多く起こされるのを期待しているからです。ここで御使はヨハネに向かって、御使の恐るべき声を「封印し、書きとめるな」(4節)と忠告しています。また「もう時がない」(6節)と宣言し、第七の災害の時が間近であると警告しています。だから「最後の悔い改めの機会」を生かすべきです。(伊藤)

小さな巻物 黙示録10:5〜11 2004年1月18日

 右足を海の上に、左足を地の上に踏みおろしている御使は、その手に、開かれた小さな巻物を持っていました。御使は天に向けて右手を上げ創造者なる真の神様に向かって誓いました。その誓いは「もう時がない」という言葉でした。第七の御使がラッパを吹き鳴らす裁きの日が刻々と近づいているからです。その日には、時が延ばされることなく神様が御旨をご計画どおり必ず成就なさるのです。ヨハネは天の声に従って御使から小さな巻物を受け取り食べました。「わたしの口には蜜のように甘かった」とは神様を信じる者には、御言葉は恵みと約束に満ちた幸いな言葉です。しかし「腹が苦くなった」とあるように御言葉を伝えることは、さばきを語らなければならない苦しみでもあるのです。(市川)

測りざお 黙示録11:1〜6 2004年1月25日

 第七のラッパが吹き鳴らされる前に、ヨハネはさらに測りざおを与えられました。この「測りざお」という言葉は、水辺に生えている葦を意味する言葉だそうです。葦は5,6メートルにも伸びて真っ直ぐなので測りざおとして用いられました。これで神の聖所と祭壇とそこで礼拝している人々を測りなさい、と言われました。異邦人たちが聖なる都を四十二ヵ月踏みにじること、ふたりの証人に、荒布を着て一二六〇日のあいだ預言することを許すことが言われています。ふたりの証人が預言をしている期間このふたりは「天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている」こと、さらに「水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている」のです。これは旧約の預言者エリヤやモーセを思い起こさせます。  (市川)

二人の証人 黙示録11:7〜14 2004年2月1日

 この11章は、神様のさばきによってこの世が滅ぼされてしまう直前に関して記されたものです。二人の証人たちが定められた期間の証を終える、獣のかたちをとった反キリストが、底知れぬ所からのぼって来て、残酷にも彼らを殺してしまうのです。エルサレムは、悪名高いソドムやエジプトの都のように、腐敗、堕落してしまうのです。世界各地からやってきた人々は、神の証人たちを憎むあまり、その死を喜んで祝い楽しむというのです。しかし、これが終わりではありません。三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、こうして二人の証人は天にあげられ、昔エリヤがつむじ風と火の車に乗って天に上げられるよう事が再現するのです。(伊藤)

第七のラッパ 黙示録11:15〜19 2004年2月8日

 第七のラッパが吹き鳴らされる時に起るのは、天における賛美の声です。この第七のラッパの音と共に、悪魔たちは完全に滅ぼされ、キリストとキリスト者のものとなり、主と私たちが共に、この世の国を永遠に支配するようになるのです。18節には、三つの事が起こる「時」について書かれています。第一は、死者がさばかれる時です。全ての人は、死後ひとりびとりが神様の前に立って、その生涯の事柄をさばかれるのです。第二は、神の御名をおそれる者たちに報いを与える時です。神様はすべての人のすべてを知っているのです。だからこの最後のさばきの時に、人間の一生を通じて、公平に平等に報いて下さるのです。第三は、地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時です。これはキリストの救いを信じなかった人々が永遠に滅ぼされることです。(伊藤)

女と龍 黙示録12:1〜8 2004年2月15日

 第七のラッパが鳴りましたが災害の前にいくつかの幻が示されました。これは教会と悪魔の戦いに関わることです。「ひとりの女」とは神様に選ばれた民、真のイスラエルを象徴していると考えられるようです。イスラエルはみごもった女になぞらえられ、定められた時がきて救い主キリストがお生まれになりました。龍は悪魔の象徴で、生まれようとする子を食い尽くそうとかまえていました。悪魔は悪意を抱き最初からキリストを滅ぼそうとしました。幼子キリストの命が狙われた聖書の出来事を思い起こさせます。この子が神様のみもとに引き上げられたとは昇天をさし、女が荒野に逃げたとは、悪魔は今度は終末の時、教会を迫害しますが、神様は荒野のイスラエルを守って下さったように、逃れる道を備えて下さるということです。 (市川)

天の戦い地の迫害 黙示録12:7〜18 2004年2月22日

 龍は引き上げられた子を攻撃しようと天に行き、そこでミカエルとその御使たちと戦ったのです。しかし龍とその使たちは勝てなかったばかりでなく、天から追放され地に投げ落とされました。9節にはこの龍が全世界を惑わす悪魔とか、サタンとか呼ばれている、とあります。このとき天で大きな賛美が沸き起こりました。10節には悪魔は夜昼神のみまえで兄弟たちを訴える者とあります。しかし彼らは小羊(キリスト)の血によって勝利が与えられ主に従い続けたのです。地上では悪魔が自分の時が短いのを知り激しく怒り女を押し流そうとしますが、地は川を飲み干し、女は助かります。これは神の民である教会に対する迫害です。さらに悪魔は、神の戒めを守りイエスのあかしを持っている者たちに戦いを挑むために出て行きました。(市川)

第一の獣の出現 黙示録13:1〜10 2004年2月29日

 12章の赤い龍の出現に続いて、13章では、神の御名を汚す一匹の獣が海から上って来る。ダニエル書7章3節では、同じように海から上がってきた、四つの大きな獣について記されてある。そこでは、四つの獣は地上の四つの国をさしていた。しかし黙示録においては、すべてのこの世的王国が一つにまとめられている。それは直接には、ローマ帝国を指している。ダニエルの幻では、第一の獣はししのようであり、第二はくま、第三はひょうに似ており、第四の獣は「恐ろしい、ものすごい、非常に強いもの」で十の角をもっていた。これは当時あいついで興ったバビロン、メディヤ、ペルシャ、及びギリシャの4大帝国をあらわしたものといわれるが、それらの諸国を合わせたほどの力と悪魔性を、ローマ帝国はもっていたというのである。(伊藤)

第二の獣の力 黙示録13:11〜18 2004年3月7日

 13章1節に記されている獣は、海から上がって来たのに、この11節に出てくる第二の獣は、地から上ってきました。第一の獣はローマ帝国とその権力を表し、第二の獣は、皇帝礼拝の発祥地とその神殿や祭司がたくさん存在していた小アジアを暗示すると共に、これらの偽使徒、偽宗教家、反キリストが、陸海の全世界を覆っていることを意味しているのです。そして、これらの人たちはいつもこの世の権力や政治と結びついていくのです。彼らはサタンのお先棒をかつぎ、皇帝礼拝をさせ、悪魔的な魔術、奇跡を行い、人を惑わし、自ら権威づけようとして振舞うのです。そしてこの黙示録に記されていることは、過去の事実に基づきながら、現在その過ちを繰り返さないように警告していると同時に、この世の終わりにこれらの事態が、もう一度起ることを預言しているのです。(伊藤)

新しい歌 黙示録14:1〜5 2004年3月14日

 ここには御座の前で新しい歌を歌う光景が記されています。小羊なるキリストの御前には十四万四千人の人々がいました。これは象徴的表現で、この人々とは、神の教会に属するすべての聖徒を指していると言われます。その額には小羊の名とその父の名が書かれていました。彼らは御座の前で新しい歌を歌いました。「…詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ人への手紙3章16節)の御言葉のように、小羊の血によって救われた者だけが学ぶことができる歌でした。4節については、ただ真の神様だけを礼拝し、その他どんなものをも神としない霊的な純潔を保っている者である、ということを象徴的に言い表しています。彼らは「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」(4節)のです。 (市川)

試練の時の忍耐 黙示録14:6〜12 2004年3月21日

 もうひとりの御使いが「永遠の福音」を携えて招きと裁きの宣告をし、続いて第二の御使が言いました。「不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」すなわち霊的な偶像崇拝と道徳的腐敗をもたらしたバビロンは、神様に反逆する都市の象徴です。この世の勢力はすべての国民にこのような悪影響を与え、神様の激しい怒りを受けなければならないようにさせたのです。さらに第三の御使が「獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者」に警告しました。「混ぜものなし」とは純粋なぶどう酒が激しく発酵するように、御怒りの激しさが表されています。13章では獣の刻印を受けていない信仰者が苦しめられましたが、ここでは獣を拝み刻印を受けている者が苦しみ、絶え間ない不安と苦痛を受け、天国と地獄の対照が明らかです。信仰者たちは忍耐して信仰を持ち続けることが殊に大切です。(市川)

二つの刈り入れ 黙示録14:13〜20 2004年3月28日

 13節の「今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである」とのことばは、主を信じる人が天に召されるたびに、主によって復活の望みが与えられている宣言として、繰り返し読まれます。14節からは最後の審判のはじまりを見ることができます。最初に雲に乗って、金の冠をかぶっている方、すなわち再臨のイエス様が鎌を入れて、実った穀物を刈り取ります。それは、この世で福音の種を受け入れ、神を信じ、信仰生活を全うした人たちを、天国に移すことです。それから、次に御使いが鋭い釜を持って地の熟したぶどうのふさを刈り集めます。そして、そのぶどうを神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れます。すなわち、不信仰な人たち、偶像崇拝者たち、クリスチャンを迫害した人たちが、ぶどう酒をしぼる酒ぶねの中のぶどうのように、怒りの足で踏みつけられ、徹底的に彼らの上にさばきがなされるというのです。(伊藤)

七つの金の鉢の審判 黙示録15:1〜8 2004年4月11日

 ヨハネは、今まで黙示録の初めより再三述べてきた警告やさばきも、ここにおいては「これらの災害で神の激しい怒りがその頂点に達する」(1節)と記しています。ヨハネが見た「火のまじったガラスの海」(2節)とは、神の怒りのさばきの火を示し、「ガラスの海のそばに立っていた」とは、偶像礼拝をしなかった人々が神のさばきの立会人であることを示しています。この人々は、神のさばきの御座で、勝利者として神の立琴を手にし、主を賛美しているのです。その賛美は、かつてイスラエルの民がエジプトから脱出して、神の奇蹟で紅海を渡り終えた時に、神にささげた賛美と同じです。しかし15章にある神への賛美の歌は、単なる出エジプト記15章の歌の繰り返しではなく、今やモーセに代わってイエス・キリストが、全世界の、真の神を信じる全ての人を救い出すために、この世に遣わされたことを讃える賛美です。この後、かつてこの宇宙になかった神の激しい怒りのさばきが始まるのです。(伊藤)

血の海 黙示録16:1〜7 2004年4月18日

 七つの災害が始まります。これらはかつてエジプトで起こった災害に似ています。しかし、その範囲や規模はより広く深刻です。もはや一時的な懲らしめでなく最後的な厳しい裁きとして臨むのです。このことをとおして、なお悔い改めの機会が示唆されていますが、人々はそのたびに悔い改めを拒んだのです。神様の時がきていよいよ「七つの鉢を、地に傾けよ」という御使へのご命令で、第一の者が出て行って鉢を地に傾けると、獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々とのからだにひどい悪性のでき物ができました。第二は、海は死人の血のようになってその中の生き物がみな死にました。第三は、川と水の源がみな血になりました。人々は水を飲めず死んだことでしょう。「聖徒と預言者との血を流した」罪に対するさばきは、血をもってなされました。神様の「さばきは真実で、かつ正しい」(7節)のです。   (市川)

太陽の炎熱 黙示録16:8〜16 2004年4月25日

 第四の者が鉢を太陽に傾けました。太陽の熱が増し激しい炎熱で人々は焼かれます。「人々」とは2節の人々を指すと考えられるそうです。しかし彼らは「これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった」(9節)とあるように、悔い改めの機会が与えられているにもかかわらず、かつてのエジプトのパロのように心をかたくなにして神様に対して汚しごとを言ったのでした。第五は、暗闇です。エジプトの災害でさわれるほどの暗闇が三日間続きましたが、ここでは人々は苦痛のあまり舌をかむのです。しかし、神様をのろい自分の行いを悔い改めませんでした。第六は、鉢を大ユウフラテ川に投げ込み、川はかれてしまいました。かえるは汚れた霊を表し、にせ預言者の言葉を通して地上の王達を欺き、戦いの為に彼らをおびき寄せるのです。「ハルマゲドン」は終わりの時、神様とサタンの勢力が一大決戦を行う地点です。(市川)

地震と雹の災害 黙示録16:17〜21 2004年5月2日

 16章1節には「大きな声が聖所」から出たとあり、その声に応じて、七つの鉢がそれぞれの役割を果たした。最後の第七の鉢が空中に傾けられると、再び大きな声で「事はすでになった」と言った。いよいよ大審判の始まりです。ここにかつて史上に類例を見ないような激しい地震が起こるといわれる。最後の審判の地震は、島々がその姿を没し、山が形を失うほどのものです。それに加えて、空からは非常に大きな雹が降ってくるのです。「雹」は神様の怒りのあらわれで、エジプトに下った災害の一つでもありました。またヨシュアがアモリ人の5人の王と戦った時、大きな雹が敵の上に降り、多くの人々を滅ぼしました(ヨシュア記10:11)。しかし、人々は神を呪い、悔い改めて神に立ち返ることをしないのは残念でしかたがない。(伊藤)

バビロンの滅亡 黙示録17:1〜6 2004年5月9日

 ヨハネは、封印とラッパと、そして今、鉢による審判の3つのシリーズの幻をしるしてきた。それに続いて、全体のクライマックスともいうべき、大いなるバビロンの滅亡について描いている。すでにバビロン、ローマ帝国の滅亡は、ここにおいていっそう進展し、詳しく述べられる。ここに現われた御使いは、ヨハネを招いて、大淫婦に対するさばき見せる。「大淫婦」は、この世における悪魔の姿であって、直接的にはローマ帝国をさしている。ローマ帝国は、当時のクリスチャンを迫害する悪魔的勢力だった。多くのクリスチャンが、皇帝の迫害のもとに殺された。しかし、大いなる権力者、迫害者であるローマ帝国も、やがて打ち倒されて、神の正しい力と目的が実現される。そして全ての悪に対する神の最後の審判も必ず実施されるのだ。(伊藤)

七つの頭、十の角 黙示録17:7〜14 2004年5月16日

 「大淫婦」(17章1節)また「女」(7節)「大いなるバビロン」(5節)とは、ローマとそれによって代表される神様に反逆する人間的権力や文化を象徴的に表していると言われます。ヨハネが驚きあやしんでいると、御使が女を乗せている獣について、七つの頭は七つの山、七人の王のことで、十の角は十人の王のことだと言います。これらは獣の支配下にあり獣に協力する支配者たちと考えられるようです。「彼らは心をひとつにしている」(13節)とあり、神様に反逆するという点で一致していました。彼らの指導者である獣に協力して小羊であるキリストと戦おうとするのです。これは終わりの時の、キリストと反キリストとの戦いを指しています。サタンが全勢力を結集してキリストに反逆しても「小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。」(14節)のです。  (市川)

大淫婦への裁き 黙示録17:12〜18 2004年5月23日

 「多くの水の上にすわっている大淫婦」(17章1節)の水とは「あらゆる民族、群集、国民、国語である」(15節)と説明され、あらゆる民族や国民を支配していることを示しています。大淫婦を乗せていた獣と十の角は、今度は、淫婦を憎み火で焼き尽くすようになります。それまで女と獣は一致協力して神様に反逆して栄華を誇っていましたが分裂を起こしました。大淫婦はこのようにして裁かれ、神様のご計画が成就する時まで、神様は大淫婦の支配権を獣にお与えになるのです。やがて神様がすべてを裁かれるときには獣も滅ぼされ、すべての支配権は神様に帰されるのです。「女」は「地の王たちを支配する大いなる都」(18節)のことで、大バビロンは大帝国ローマに代表される地上の支配権の象徴ですが、ローマ帝国や従属する国々も滅び行き、終わりの時の反キリストもまた滅び行くのです。 (市川)

バビロン滅亡の宣言 黙示録18:1〜7 2004年5月30日

 17章で述べられた「大いなる都」の滅亡は、18章において、いっそう詳細に展開されています。まずヨハネが見たのは、天から降りて来る御使いでした。そしてこの御使いが「大いなるバビロンは倒れた」と宣言したのです。この世こそ「悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣」(2節)です。この世と戯れ、この世によって富を得た者たちは、今やこの世と共に裁かれる時が来たのです。4節には、まず神の民が「彼女から離れ去る」ように命じられています。かつてパウロも「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ」(Uコリント6:17)と勧めました。私たちはこの世の醜い危険な状態を見破り、これに対して毅然とした態度をとっていくべきです。この世は神様に逆らい続けて来ました。だから、いまや天にまで積み上げられた罪悪が倍して報いられる時が来たのです。(伊藤)

王や商人達の嘆き 黙示録18:8〜18 2004年6月6日

 さばきをもたらす「主なる神は、力強い方なのである」(8節)。その傲慢な態度、悲しみを知らないと大言壮語した都も、様々な災害に襲われ、たちまち火で焼かれてしまいました。ローマと結びつき、その悪に加担し、「ぜいたくをほしいままにしていた地の王たち」(9節)は、その状態を見て、嘆いています。王たちは、ローマが「焼かれる火の煙を見て」(9節)、近づくことも出来ず、悲しみと恐れに立ちすくんでいるのです。王たちに続いて、「地の商人たち」(11節)も、ローマの陥落を泣き悲しんでいます。ローマと通商が成り立たなくなったからです。彼らの嘆きは、ローマ自身のためではなく、自分たちの顧客を失ったことによるものです。世の商売の世界、また一切の経済的力があがめられるところで、しばしばそういう冷酷な打算的な嘆きがあるのは、昔も今も同じです。 (伊藤)

完全な滅亡 黙示録18:19〜24 2004年6月13

 ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ち上げ、それを海に投げ込みました。石は大きな水しぶきをあげながら一瞬のうちに深い海に沈みました。再びこの石を目にすることはありませんでした。このように、大いなる都バビロンは「激しく打ち倒され、全く姿を消してしまう。」(21節)のです。大バビロンの繁栄をもたらした商人たちは物質的誘惑を持って人々を惑わしました。周囲の国の民はこの都の悪の影響を受けて神を恐れることを忘れ物質的享楽のみを求めるようになってしまいました。バビロン滅亡のもう一つの理由は「預言者や聖徒の血、さらに地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」(24節)ということです。これはローマの迫害と流血を意味していると同時に、地上のあらゆる反キリスト的な勢力による迫害を意味していると考えられるようです。 (市川)

勝利の賛美 黙示録19:1〜8 2004年6月20

 大淫婦バビロンは滅ぼされ天では勝利の賛美が歌われました。詩篇などに「ハレルヤ(神を賛美せよ)」という言葉が出てきますが、新約聖書では黙示録19章にだけ出てくるそうです。「ハレルヤ」と歌う理由は「救いと栄光と力とは、われらの神のものであり、そのさばきは、真実で正しい」(1,2節)からです。神様は、聖徒たちの血を流した者たちに対して、正しい裁きを行われます。6節の「大群衆の声」とはすべての時代にわたる、全世界の信仰者たちの声だと考えられ、彼らが一斉に神様を賛美する声は大水の音のように、激しい雷鳴のように響き渡るのです。ここに「神の国」が建てられ神様が王となられるのです。7節には「小羊の婚姻の時がきて」とあります。キリストは十字架の血によって聖徒たちを贖ってくださいました。エペソ人への手紙には結婚が象徴的にキリストと教会を指すことが記されています。 (市川)

再臨の主イエス 黙示録19:9〜16 2004年6月27日

 イエス様は、十字架にかかり、墓に葬られ、復活されて後40日を経て、オリーブ山から弟子たちの見ている前で、雲に迎えられ、昇天しました。その後ヨハネはパトモス島にて、このイエス様が御使いの予告のように天が再び開かれて現われるのを見たのです。イエス様は勝利の王として白い馬に乗り、炎のような目を持ち、多くの冠をかぶり、血に染まった衣を着、天の軍勢を引き連れて君臨されました。「白い馬」(11節)とは、勝利と純潔を象徴します。また「忠実で真実な者」(11節)という呼び名は、イエス様のご性格を表しています。この再臨のイエス様に対して、この世の王、国家、支配者たちがどんなに力をもっていても、武装していても、新兵器を開発しても、ご再臨の主イエス様に立ち向かうことは出来ません。なぜならイエス様こそ、全世界の、全歴史の中の、「王の王、主の主」(16節)であられるからです。(伊藤)

最後の戦い 黙示録19:17〜21 2004年7月4日

 ヨハネは、太陽の輝きの中に御使いが立っているのを見せられました。それは目もくらむ光と威厳に包まれた光景だったと思います。すると御使いは大声で「さあ、神の大宴会に集まってこい」(17節)と告げられました。それは戦慄すべき、死肉を食う鳥たちの宴でした。イエス様ご自身がオリーブ山で、人の子の再臨について語られた時、「死体のあるところには、はげたかが集まるものである。」(マタイ24:28)と言われたのを思い出します。御使いが「中空を飛んでいるすべての鳥にむかって」(17節)叫ばれたのは、最後の戦いの前の時です。つまり戦わずして、すでに神様に敵対する者は、「王であれ、将軍であれ、勇者であれ、また自由人、奴隷」の区別なく、すべて打ち負かされることが明らかにされているのです。神様の前には、地上の歴史の中で強大に見えた獣の力でさえ、実は敵対することができないのです。(伊藤)

千年王国 黙示録20:1〜6 2004年7月11日

 ヨハネは、ひとりの御使が底知れぬ所のかぎと大きな鎖を持って天から降りてくるのを見ました。「底知れぬ所」(1節)とは千年の間悪魔を閉じ込めておく場所です。悪魔について悪魔、サタン、龍、年を経たへび(2節)と、いろいろに言われています。いつの時代も悪魔は巧妙に惑わすものです。ペテロの第一の手紙5章8節、9節の教えの通りです。しかし悪魔を閉じ込めておくので、この千年の間は、だれも悪魔に惑わされないのです。その後悪魔はしばらくの間解放されることになっていますが最後には火と硫黄の池に投げ込まれてしまうのです。千年王国の特権に与るのはキリストによって救われた人々で、第一の復活に与り、キリストと共に千年の間治めるのです。第一の死はだれもが迎える肉体の死で、第二の死はキリストを信じない人々の永遠の死をさします。  (市川)

最後の審判 黙示録20:7〜15 2004年7月18日

 千年の期間が終わると、悪魔は「地の四方にいる諸国民」すなわちゴグ、マゴグを惑わします。海の砂のような数え切れない人々が戦いに集まります。黙示録16章のハルマゲドンの戦いよりも大規模です。しかし本格的な戦い以前に、神様の御力によって焼き尽くされてしまいます。諸国民を惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれます。そこは世々限りなく日夜、苦しめられる場所です。さて、古い天と地は消え去り、大きな白い御座にいますかたがおられ、死んだ者たちはひとり残らず御座の前に立ちます。海難事故などの死亡者は海から出て御座の前に立つのです。かずかずの書物が開かれそこに書かれた各自の行いに応じて裁かれます。「いのちの書」にはキリストの救いに与った人々の名前が記されています。猶予が与えられている今のうちに永遠の命をいただくために、あなたもキリストを信じて「いのちの書」に名前を記して頂かなければなりません。(市川)

神が人と共に住む 黙示録21:1〜8 2004年7月25日

 ヨハネはここに、神様の新しい創造と、聖なる都、およびそこに住む人について記しています。歴史の終わり、今の時代の終末は、無に帰してしまうのではなく、新しい世界の始まりとなるというのです。かつて旧約時代にエジプトを脱出した、イスラエルの人たちは、40年にわたって苦しい荒野の生活を続けました。その時、彼らを支えたのは、人々の真ん中に建てられた神の幕屋でした。彼らは神の幕屋を見る時、神のご臨在を知って喜びと平安を得たのです。ところが今や、私たちはイエス様と一緒であり、じかに神様と顔と顔とを合わせて相見ることが出来るのです。しかも私たちは、愛するイエス様の花嫁となり、永遠に、別れも死もなく、すべてのクリスチャンたちと本当の兄弟姉妹として共に生き続けることが出来るのです。(伊藤)

新しいエルサレム 黙示録21:9〜17 2004年8月1日

 黙示録21章9節から22章5節までは、21章2節から4節の内容を少し具体的に展開しているように見えます。17章1節では、大淫婦であるバビロンの審判を見せていますが、ここでは小羊の伴侶である花嫁を見せています。黙示録17章では、大淫婦がこの地上の美しいものをもって飾っている有様を見せられます。しかし、それはことごとく地のものであり、外形的な虚飾で、内側は自分の姦淫の汚れで満ちていました。それに比べて新しいエルサレムは天的なもので飾られています。11節に「ようであり」と象徴的に繰り返えされているのは、それが宝石以上に素晴らしかったからでしょう。この聖都エルサレムについて、「12」の数が繰り返されています。「12」は神の民にとって特別な完全数で、ここで使われているのは神様が始められたみわざがここに完全になされたことを象徴的に表しているのです。(伊藤)

聖都にないもの 黙示録21:18〜27 2004年8月8日

 さまざまな宝石によって表されている都の様子は神様の栄光の輝きを比喩的に表していると思われます。この聖なる都には神様がご臨在なさり、神様の栄光が輝いています。この聖なる都にないものは、「聖所」です(22節)。聖所は神様を礼拝する場所です。すなわち、私たちの時代の言葉で言えば、教会がありません。なぜなら神様と小羊がおいでになって、都全体が聖所のよう、教会のようだからです。また「日」や「月」が照らす必要もありません。なぜなら神様の栄光が輝き、小羊が都のあかりだからです(23節)。「夜」がありません(25節)。「罪」もありません。キリストを信じて罪許され「小羊のいのちの書」に名前を記された人だけがここにはいれるのです。そして「諸国民は都の光の中を歩き」(24節)とあるように、民族の区別なくすべての救われた民が神様の光の中を歩み共に主を賛美するのです。 (市川)

預言の言葉を守る者 黙示録22:1〜7 2004年8月15日

 さらにこの聖なる都には「水晶のように輝いているいのちの水の川」があります(1節)。また「いのちの木」があって12種の実を結び、その実は毎月みのります(2節)。ヨハネは、これらを見せていただきました。そして「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。」こと。これらは「すぐにも起こるべきこと」であり、「見よ、わたしは、すぐに来る」というお言葉のように、主はお約束どおりおいでくださることが明記されています。「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行を遅くしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、…ながく忍耐しておられるのである」ペテロの第二の手紙3章9節。ですから主の時まで、信仰によってみ言葉を心に受け入れ、信じ従わせていただくことが大切です。 (市川)

時が近づいている 黙示録22:6〜11 2004年8月22日

 神様による最後の審判、この世の終わりが刻一刻と近づいているのに、その備えを全くしようとしない人々に対して、神様は御使いを通して、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである」(6節)、「見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」(7節)と、最後通告をしています。旧約聖書に書いてあるとおり、ノアの洪水の時、その地にはたくさんの人々が住んでいたにもかかわらず、神様の言葉を信じてその備えをしたのはノアの家族8人だけでした。また、ロトの時代、神様がソドムの町を滅ぼすと警告された時、ロトの婿たちは、それをロトの冗談としか受け止めず、ソドムの町と共に永遠に滅ぼされてしまいました。だから私たちはこの教訓を生かし「この書の預言の言葉を封じてはならない」(10節)と言われる主の御声に従って、主イエス様が来られるまで、キリストの福音をこの町の隅々にまで伝えていきましょう。(伊藤)

きたりませ主よ 黙示録22:12〜21 2004年8月29日

 「御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』」(17節)。これは御霊と花嫁である教会の叫びです。主の花嫁である教会は、御霊様と共に、その愛する主イエス様に対して「きたりませ」と叫びます。それと共に教会は、人類の運命を決定する終末の時が来る前に、渇いている者に対して命の水の源泉である主イエス様のもとに「きたりませ」と叫ぶのです。砂漠を旅行する隊商らは、渇いて死に瀕することがあるそうです。このような場合、八方に手分けして水を捜し始めます。もしその中の誰かが水を見つけると、大声で「水がある、来たれ」と叫びます。この声が荒れ果てた砂漠の中に響き渡るのは何ともいえない喜びだそうです。主イエス様は最後に「しかり、わたしはすぐに来る」(20節)と言われます。この時、全ての約束は成就し、救いは完成し、全ての悪は滅ぼされます。「アーメン、主イエスよ、きたりませ」(20節)、これがこの書の結末の言葉です。(伊藤)