館林キリスト教会

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ショート新約 エペソ人への手紙

「遠大な救いの計画」 エペソ人への手紙1:1〜14 1999年1月10日

 エペソはアルテミス神殿を中心に偶像礼拝とそれに関わる産業で大いに栄えた小アジアの町です。その様子は使徒行伝19章等から知ることができます。パウロはこの町に伝道し、やがて教会が誕生しました。パウロはエペソ書をローマの獄中から書き送りました。手紙は書き写され近隣の諸教会に回覧されたようです。3〜5節には神様の遠大な救いの計画が明らかにされています。13節には聖霊の証印を押された神の民について書かれ、この証印は現在の祝福と同時に、未来の時の保証です。6節12節14節、この世で救いの恵みゆえに神様を褒め称え、やがての時には、救いの恵みの尊さと栄光の輝きに圧倒されて神様の御名を褒め称えるのです。 (市川)

「かしらとからだ」エペソ人への手紙1:15〜23 1999年1月17日

 パウロは教会の「主イエスに対する信仰」「すべての聖徒に対する愛」の様子を聞き感謝を捧げています。信仰と愛の実践の噂は何と嬉しい事でしょう。彼はさらに祈っています。「心の目が明らかにされて」救われた者に与えられている望み、神の国の栄光、神の絶大な力を知る事が出来るようにと。神の絶大な力はキリストに現れました。キリストは十字架の死で終わることなく甦えられたのです。そして最高の権威と権勢の方として立っておられます。驚くべきことに、教会のかしらは万物の上に立っておられるこのキリストであり、教会はキリストのからだです。教会はキリストの命に生かされ供給を受け、キリストの意思を受け、キリストのために、全器官が絶妙に各々の任務を全とうするのです。(市川)

「憐れみに富む神」エペソ人への手紙2:1〜10 1999年1月24日

 パウロは2章で、神の救いの恵みを回顧しています。救われる前の私たちは「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」、「この世のならわしに従って生きていた者」、「肉の欲に従って日を過ごしていた者」で、当然滅ぶべき者と定められていました。しかし憐れみに富む神は、私たちをキリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天上で座につかせてくださった方なのです。そして私たちが救われたのは、信仰によるのであり、この驚くべき恵みを世に証するためなのです。その信仰も神の賜物であって、人の行いによるものではありません。それは誰も誇ることがないためです。このようにして、私たちは神の作品として、良い行いをするようにキリスト・イエスにあって造られ備えられたのです。 (伊藤)

「十字架による和解」エペソ人への手紙2:11〜22 1999年1月31日

 パウロは語ります。あなた方は、かつてはキリストを知らない異教徒であり、聖書に基づく約束の知識も権利もなかったこと、何の希望もなく神なしの生活だったことを思い起こしなさい。しかし神様は、キリストの十字架によって、神様と和解させて下さいました。また、選民イスラエルと異教徒との相互の反目や不和も十字架によって終結したのです。今は父なる神様を信じ、共に神の民、神の家族なのです。この人々の集まりが教会です。教会という建物の土台は新約の使徒、旧約の預言者の働きです。礎石は「隅のかしら石キリスト」です。教会は、各時代、各地のクリスチャンが次々と加えられ、建て上げられ成長していきます。こうして真の和解と平和はキリストによって与えられるのです。(市川)

「キリストの奥義」エペソ人への手紙3:1〜13 1999年2月7日

 パウロは1節で、「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっている」と書いています。パウロが囚人となったのは、直接的には異邦人へ伝道した結果であって、カイザルの力に屈服した結果ではないのです。ですから13節で「あなたがたのためにわたしが受けている患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのである」と書いたのです。こうしてパウロは啓示によって知らされた奥義を彼らに明らかにしたのです。そのキリストの奥義とは、「異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、ユダヤ人たちと共に神の国をつぐ者となる」「両者がキリストを頭として1つからだになる」「両者が共に神の約束にあずかる」ということなのです。(伊藤)

「パウロの祈り」エペソ人への手紙3:14〜21 1999年2月14日

 14節の「こういうわけで」は、1章から3章の部分の結論を受けた言葉です。ここでパウロは天地の創造者である神に2つの祈りをささげています。第一は「御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くしてくださるように」で、第二は「キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし……また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたを満たされるように」という祈りです。パウロはエペソのクリスチャンたちに、健康に気を配ると同様、いやそれ以上に、「内なる人」が強められるように、みことばに親しみ、祈りの時間を設け、主との交わりを期待しているのです。パウロがエペソの教会の牧師テモテにあてた手紙にはその有益性が書かれてあります。(伊藤)

「健康な体」エペソ人への手紙4:1〜16 1999年2月21日

 健康な体は何の不調も違和もなく、ごく自然にバランスよく機能しています。健康な体が調和しているように、聖霊は教会に一致(調和)を与えてくださいました。パウロは1節〜3節で「あなたがたに勧める」すなわち「あなたがたに懇願します…聖霊が与えてくださった一致(調和)を保ち続けるように熱心に努力しなさい。」と語ります。確かに全ては一つです。4節〜6節のように、神様は唯お一人です。聖霊も、主キリストもお一人です。教会も信仰も望みも洗礼も、お一人の神様による一つのものです。各々に与えられた賜物は様々です。しかしそれは、体の器官が仕え合っているように互いに仕え合い、教会の頭であるキリストに仕えるためなのです。 (市川)

「新しき人」エペソ人への手紙4:17〜32 1999年2月28日

 ここは、クリスチャンと教会の成長に関わる勧めです。異教徒のように、あるいは神様を信じる以前のように生活してはいけません。イエス様が真理そのものですから彼に学びなさい。私たちの元の性質は、錯覚から生じる情欲によって腐敗してゆくものです。ですから元の性質を脱ぎ捨て、古い自己を捨て去りなさい。そして神様が与えてくださる新しい性質を着なさい。虚偽を捨て真実を語り、怒っても日の沈むまで続くことがあってはなりません。悪魔に余地を残してはいけませんから。勤勉に働き生計を立て貧しい人に与える者となり、悪い言葉を言わず人の徳を高め益になるように語り、聖霊を悲しませてはいけません。悪意を捨て何よりも神様が赦して下さったように互いに赦し合いなさい。(市川)

「神にならって生きる」エペソ人への手紙5:1〜14 1999年3月7日

 1節には「神にならう者になりなさい」という勧めが書かれています。子供は親のしていることを真似て育ちます。人はよかれ悪しかれ周囲の影響を受けて成長します。ここでパウロは,積極的に「神にならう者になる」ために3つのことを勧めています。第一は、キリストが私たちを愛して十字架にかかられたことを覚えて生きることです。第二に、「光の子らしく歩みなさい」という勧めも同様です。神が光の中にいますように、私たちが世に光であるキリストを仰ぎつつ歩むなら、聖霊の働きによってキリストに似た者と変えられるからです。第三に、不品行や汚れや貪欲、卑しい言葉と冗談を避けることです。誠実、純潔などが死語になりつつある現代、私たちに対する重要な勧めだと思います。(伊藤)

「賢い者のよう生きる」エペソ人への手紙5:15〜21 1999年3月14日

 15節には「賢い者のように歩き」なさい、という勧めがあります。これは1節の「神にならって生きる」と同じ勧めです。パウロが「賢い者」と言っているのは、ギリシャ人の知恵と言われるようなこの世的な知恵ではなく、神の知恵,上からの知恵のことです。ですから「賢い者のように歩む」とは、キリストの福音にふさわしく生活することです。そのためには、今の時を生かして用い、主の御旨をわきまえ、御霊に満たされて歩んでいくようにすることです。パウロの時代も悪い時代でしたが、今も同様です。だから悪い時代であっても、いたずらに嘆き呟くのではなく、これをチャンスと見、生かしていくことが大事です。エペソ人への手紙は、パウロがそれを身をもって示した獄中での書簡です。(伊藤)

「夫と妻」エペソ人への手紙5:22〜33 1999年3月21日

 22節〜6章9節は、いろいろな立場の人への勧めです。神様は人間関係において特定の秩序を制定されました。キリストが教会のかしらであるように、夫は妻のかしらです(23節)。まず「妻」への勧めです。教会がキリストに仕えるように「妻」はかしらである夫を「尊敬」し(33節)、「仕える」こと(22節)。尊敬とは、彼を大切にし、尊重し、服従し、窮みまで愛する意味が込められています。次に「夫」への勧めです。「夫」は妻を支配するのでなく、キリストが教会を愛してご自身をささげられたように、妻を「愛しなさい」と三度記されています(25節他)。この愛と尊敬の標準は非常に高いのです。キリストが教会を愛する「愛の模範」が掲げられているのは幸いです。神様は、夫と妻の愛と一致の関係を示して、キリストと教会の関係を分り易く、行き届いて啓示されました。 (市川)

「両親と子供」エペソ人への手紙6:1〜9 1999年3月28日

 十戒の第五戒に、両親に従う戒めと、それに伴う祝福の約束が記されています。その十戒に基づいての勧めです。両親に従うことは正しいことである。なぜなら、神様は両親にその子供の養育をお任せになったからです。子供が両親に従うのは、神様に従うことに繋がるのです。「これは主に喜ばれることである」(コロサイ人への手紙3章20節)ともあります。しかし「主にあって」とあるように、親子とも主のみこころが第一であることも記されています。両親は「子供をおこらせないで」「子供をいらだたせてはいけない」(コロサイ人への手紙3章21節)主の薫陶(香の香りを染み込ませ陶器を焼くことから、徳をもって人を感化すること)と教え、諭し、時には戒め、育てることが勧められています。(市川)

「クリスチャンの戦い」エペソ人への手紙6:10〜24 1999年4月11日

 12節でパウロが「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、天上にいる悪の霊に対する戦いである」と記したように、クリスチャンの戦う相手は人間ではなく、その背後の悪魔です。英語の聖書で「戦い」が「レスリングをする」となっているのは,この戦いが取っ組み合いの汗みどろ血みどろの格闘だからでしょう。ですから、この熾烈な戦いに対抗するために、神の武具を身に着けなさいと命じたのです。そして具体的には、当時の兵士の装備を描写し「真理の帯びを腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、信仰のたてを手に取り、救いのかぶとをかぶり,御霊の剣,即ち、神の言を取りなさい」と言ったのです。(伊藤)