館林キリスト教会

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ショート新約 ヘブル人への手紙

全てに優るキリスト ヘブル 1:1〜6 2001年5月6日

ヘブル人への手紙は、迫害の下ににあるクリスチャンたちに送られた励ましの言葉です。ペテロの第一の手紙とヨハネ黙示録と並んで迫害の下で書かれ、これをペテロは倫理的に、ヨハネは黙示的に、ヘブルの著者はキリスト論的に記しています。ヘブル人への手紙を3つに大別すると、第一はキリストの人格の優越性(1:1〜4:13)、第二は、キリストの祭司職の優越性(4:14〜10:18)、第三は、キリストにある生活の優越性(10:19〜13:25)が記されています。4節には「御子は、…御使いたちの名にまさっている」とあります。キリストは天使ガブリエル、ミカエルにまさる名を与えられ、後にも先にもない神の子と命名されたただ一人のお方です。(伊藤)

見えない世界 ヘブル 1:7〜14 2001年5月13日

 御子については、初めに地の基をおすえになり、天もみ手のわざであり、これらのものは(やがて)滅びて衣のように(新しく)変わるけれど、いつまでもいまし、変わらないお方です。御使たちについては、奉仕のためにつかわされたとあります(14節)。イエス様の「あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。……彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。(マタイ福音書18章10節)」というおことばを思い起します。御使は神様の御心に従って、神様と人に奉仕するために現存しているのです。わたしたちは、聖書により目に見えない、理解を超えた事柄について教えられます。(市川)

御使よりも低く ヘブル 2:1〜9 2001年5月20日

イエス・キリスト様は世界を創造され、御使に優るお方です。偉大なイエス様を知ったのですから、イエス様による救いを一層心に留めなければなりません。そうでないと、おし流されてしまいます。すなわち指輪が抜け落ちて失われてしまうように永遠の命に関わる大切な救いを失ってしまう危険があります。すでに与えられている律法においてさえ、罪や不従順には刑罰という報いがあります。まして尊い救いを気にも留めず、ないがしろにするなら、永遠の命を失うことになるのです。この救いを提供するために神であられるイエス様が、「御使より低い者」とされ、十字架で死なれました。「それは、神の恵みによって、すべての人のために死をあじわわれるため」でした。そして復活され、今は栄光をお受けくださいました。 (市川)

イエス様の同情 ヘブル 2:10〜18 2001年5月27日

 この手紙の著者は、神様がイエス様を、十字架の苦難を経て人類の罪の贖いを全うし、救い主となさったのは、神様に相応しいことであった、と告白しています。また神様は、この贖いのみわざによって、最後の敵である死を滅ぼし、死の恐怖から私たちを解放して下さった、と言っています。そして彼ら以上の苦しみに会われたイエス様は、悪魔の試練と迫害にあって苦しんでいる彼らに深い同情を示されたのです。17節には、イエス様が「あわれみ深い忠実な大祭司」とあります。「あわれみ深い」という言葉は、報酬を求めず相手を愛するという意味です。また「忠実」とは、「真実」とも訳せる言葉で、神様が約束を必ず守られるという意味です。そのイエス様が恵みとまことをもって同情して下さる事は本当に幸いなことです。(伊藤)

モーセに優るイエス ヘブル 3:1〜6 2001年6月3日

 イエス様が、預言者よりも天使よりも優っていると共に、ここではモーセよりも優っていることを証明しています。イエス様は、いくつかの点でモーセと似ています。神様が彼を立てたこと、その地位と職務を定められたこと、彼が忠実であったこと、彼の働きは神の家全体に及んだこと等です。一方イエス様は、モーセよりもより多くの栄誉を受けるにふさわしい方です。モーセ自身は彼が仕えている神の家の一部でしたが、イエス様は家を建てる者、神ご自身でした。6節の「神の家」とはクリスチャンのことで、イエス様はこの家の主です。ですから常にイエス様に目を注ぎ、「彼を思い見るべき」(1節)なのです。(伊藤)

み声に従順に ヘブル 3:7〜14 2001年6月10日

 あなたがたは、神様の家族なのです。「だから」聖霊に従いなさい、と言われています。カッコ内は詩篇の引用です。かつてイスラエルの人々は、約束の地カナンを目指しました。紅海の奇跡やマナを始め、40年という長い年月は神様のみわざの日々でした。「わたしを試みためし」とは「わたしの忍耐深さを試み、わたしの寛容をためし」と訳されています。残念なことに彼らは、神様のご忍耐とご寛容に甘え、心をかたくなにして、約束の地に入れず「安息」に、はいれませんでした。これは大きな戒めです。「不信仰な悪い心」で、神様から離れないように、罪の惑わしに陥って心をかたくなにする者がないよう、日々励まし合い、主を信じた最初の確信を終わりまで保たせていただきましょう。(市川)

信仰によって ヘブル3:14〜4:2 2001年6月17日

 荒野を旅したイスラエルの人々は、神様のみ声を聞いたのに、心をかたくなにしました。彼らが約束の地、そして「安息」に入れなかったのは不信仰のゆえでした。コリント人への第一の手紙10章11節に「これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。」とあります。彼らは、エジプトの奴隷生活から解放され、約束の地に行けるという、良い知らせを聞きましたが、無益でした。彼らは、その良い知らせと信仰とを一つに合わせなかったからです。私たちは福音を聞き安息の約束を聞いています。聖書によって御言を教えられています。大切なのは御言を信仰によって信じ受け入れることです。 (市川)

神の安息 ヘブル4:3〜11 2001年6月24日

 ここには、「神を信じる者に与えられる霊的な意味での神の永遠の安息」(3節)、「約束の地カナンに入る意味での神の安息」(6,8節)、「神が天地創造のわざを成し終えて入られた安息」(4節)の3種類の神の安息について記されています。この神のみわざである「神の安息」は、「世の初めに、でき上がって」いるのです(4節)。ヨシュアに率いられたイスラエルの民が入った約束の地カナンは、その神の永遠の安息のひな型なのです。そこで著者は、エジプトを出た民が神に対する不従順のために、約束の地に入れなかった事を警告したのです。そしてわたしたちが、今もこの神の安息に入るように、かつてのイスラエル人の不従順にならって落後しないように、信仰をもって神の安息に入るように勧めたのです。(伊藤)

恵みの御座に近づく ヘブル4:12〜16 2001年7月1日

ヘブル人への手紙3章12節で「生ける神」と言った著者は、その神様が、ご自分の「ことば」によって人間に働きかけることを力説しています。だから神のことばは、「きょう」も生きていて、力があるのです。コリント人へ第一の手紙1章18節には「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」と書いてあります。この全てを見通す、力ある神のみことばの前に、私たちは御前に裸で立つのです。しかし今、私たちには、その神の御座にあり、弁護してくださる大祭司イエス様がいるのです。ですから私たちは、人間的弱さを感じる時、いつでも神の憐れみと罪の赦しの恵みとを受けるために、はばかることなく「恵みの御座」近づけるのです。(伊藤)

大祭司キリスト ヘブル5:1〜7 2001年7月8日

 大祭司は、神様に関する事柄を人々に代わって行うよう、アロンの家系から選ばれ任命されました。彼は民の罪のためにいけにえを捧げるだけでなく、自分自身の罪のためにもいけにえを捧げ、罪の許しを得なければなりませんでした。このように自分も罪と弱さをまぬかれないので、弱い民を忍耐深く取り扱うことができました。私たちは、サレムの王メルキゼデクについて詳しく知ることはできませんが、かつて、彼がアブラハムを祝福した際、メルキゼデクについて「いと高き神の祭司」と記されています(創世記14:18)。キリストはメルキゼデクに等しい祭司として神様から任命されました。すなわち、十字架の死と復活ののち、父なる神様の右に座し、永遠に執り成していてくださるのです。(市川)

永遠の救の源 ヘブル5:7〜14 2001年7月15日

 キリストは、地上のご生涯において、激しい叫びと涙とをもって、深い祈りと願いをささげられました。日々の祈り、ゲッセマネでの血の汗がしたたるような祈り、そして十字架上での苦しみと祈り。キリストは、神であられたのですから、超越的なみ力を用いることも可能でした。しかし、そうなさいませんでした。キリストは初めから父なる神様に従順でしたが、さらに従順に苦難を甘んじてお受けになり十字架で死なれました。三日目に復活なさり、永遠の救の源となられたのです。キリストが激しい苦しみを通られたのは、父なる神様への信仰と従順の故です。このように、キリストは、さまざまな苦しみにあってくださったので、わたしたちの弱さを思いやり、時機を得た助けを与えてくださる真の大祭司なのです。 (市川)

完成を目ざして ヘブル6:1〜8 2001年7月22日

 1、2節にはキリスト教の基礎的重要な教えである「悔い改め」「信仰」「バプテスマ」「按手」「死人の復活」「永遠のさばき」の6つが記されてあります。入信まもない人々は、これらの基本の教えをしっかりと学ぶことは大切です。2節の終わりの「基本の教えを繰り返し学ぶことをやめる」とは、これが有害だから捨ててしまえ、ということではありません。聖書の基本的な知識をもって満足しているのではなく、それを実際に生かすことが大切である、と言っているのです。それは周囲の人々に積極的に生きた信仰の証をたてていくことです。こうした完成を目ざして進むために、「堅い食物」を食べられる成人となって行くことを期待しているのです。(伊藤)

二つの不変の事柄 ヘブル6:9〜20 2001年7月29日

ヘブル人への著者は、イエス様がモーセやアロンに優る者であり、メルキゼデクに等しい大祭司であることを説明しました。しかし、ヘブル人の信仰の成長は停滞気味で、彼らは御名のために努力をしていましたが、不安と苦しみは隠せなかったようです。そこで著者は、彼らを励ますために、二つの変わらぬ事柄を記したのです。その一つは、「神の約束」であり、もう一つは「神の誓い」です。これはアブラハムの生涯にはっきり見る事ができます。神が全人類に救いの祝福を与えるというご計画は、約束という言葉で受け継がれてきましたが、今や御子イエス・キリストの贖いによって、これが保証として実現したのです。だから彼らが、苦難の嵐の中から神の港に避難し、キリストによる救いの望み、不動の錨をおろすように勧めているのです。(伊藤)

より優った祭司 ヘブル7:1〜10 2001年8月5日

 人間は、そのままでは、神様に祈りを受け入れていただくこともできず、祝福もしていただけません。人間の罪が神様と人間を隔てているからです。祭司の職務は、アロンの家系に与えられ、神様に対して人間をとりなす役割がありました。彼らは罪の許しのために、動物の犠牲を繰り返し捧げなければなりませんでした。これに対して、メルキゼデクは、完全な祭司キリストの型です。メルキゼデクは「義の王」「平和の王」という意味です。信仰の父アブラハムが彼に十分の一を与えたのですから、メルキゼデクは偉大な人物でした。後に祭司の職務につくレビは生れていませんが、同様に納めたと言えます。このメルキゼデクに等しい大祭司がキリストです。 (市川)

さらにすぐれた望み ヘブル7:11〜19 2001年8月12日

 レビ系の祭司によっては、完全な罪の許しによる神様との親しい関係は得られませんでした。ですから、メルキゼデクの職に従った別の祭司が立てられる必要があったのです。別の祭司とはキリストです。キリストは、律法によらず、終りのない命に基づいて祭司に任じられました。「あなたはメルキゼデクの位にしたがって、とこしえに祭司である」(詩篇110篇4節)とある通りです。キリストは祭司の家系の部族ではない、ユダ族から出られました。律法によるレビ系の祭司は完全でなく、その規定は効力がないので廃止されたのです。こうして私たちに、すぐれた希望が与えられました。私たちは、完全な祭司キリストによって、神様にお近づきできるようになったのです。 (市川)

永遠の大祭司 ヘブル7:20〜28 2001年8月19日

 キリストが永遠の祭司として卓越している点が2つ述べられています。一つは、キリストの祭司職は特別な誓いによって制定されたものであって、普通の祭司職とは違っていることです。もう一つは、アロン系の祭司職は、世襲性をとっているが、キリストの祭司職は永遠である、ということです。アロン系の祭司は、死によって、大祭司職を続けることは出来ません。故に多くの大祭司が立てられてきました。しかしキリストは、「永遠に祭司」(21節)ですから、変わらない祭司の務めを続けられるのです。しかもキリストは、復活して、永遠に生きておられるので、「彼によって神に来る人々を、いつも救うことができる」(25節)完全なお方なのです。(伊藤)

神の右に座すイエス ヘブル8:1〜6 2001年8月26日

 「天にあって大能者の御座の右に座し」(1節)とは、イエス様が、「死んで、葬られ、よみに下り、三日目に死人の中からよみがえり、天に昇り」というこの世の歴史にただ一度だけ起こった出来事を通して、現在も、「神の右に座し」、イエス様の死によるあがないを信じる者のために、全能の神にとりなしておられるということです。だから大祭司職の唯一の目的は、神様との和解ということでした。それで、キリストは永遠の大祭司となるために、一度だけ、人類の罪のために十字架にかかり、贖いのわざを完成されたのです。それは彼自身のいけにえが永遠に有効であり、キリストによる和解のみが、真の大祭司の職務であることを教えているのです。(伊藤)

新しい契約 ヘブル8:7〜13 2001年9月2日

 カッコ内は、エレミヤ書31:31-34が引用されています。出エジプト後のシナイ契約は、契約の当事者である人間に力がなく、守りきれませんでした。神様はこれを古い契約とされ、時至って「新しい契約」を結ばれました。「新しい契約」は、石の板でなく、人の心に書き付けられました。エゼキエル書11章には「新しい霊を授ける」とあり、キリストにある新しい人のことです。何も言わなくても、神様の思いがわかるようになり、心におきてがあるので、喜んで従うようになるでしょう。「主を知れ」と言われなくても、小さな子供に至るまで主を知るようになるのです。そして、神様は「彼らの罪を思い出さない」と言われます。キリストが十字架で死んでくださったゆえに。(市川)

古い契約の制限 ヘブル9:1〜10 2001年9月16日

 初めの契約にも、礼拝についての様々な規定がありました。この規定は、出エジプト記、レビ記、民数記等に記されています。祭司は聖所に入り、礼拝の務めを果たしました。ただし、奥の、至聖所には大祭司が年に一度だけ入りました。そのとき大祭司は、動物の犠牲の血を携えていかなければなりませんでした。その血は、大祭司自身と、民全体の罪をきよめるためのものでした。しかし、古い契約のもとでは、いけにえが何度捧げられても、それを携えてくる人の心まできよめることはできませんでした。礼拝に関するこのような古い規定は、神様がさらにすぐれた契約をキリストによって確立なさるまで、礼拝者を導くために課せられた外的な規定だったのです。(市川)

祝福の大祭司 ヘブル9:11〜15 2001年9月23日

 地上の幕屋について述べた著者は、天の真の幕屋について言及し、キリストの贖いがもたらした三つの祝福について述べています。第一は、キリストが血を流すことによって獲得してくださった永遠の救いという事です。第二に、キリストが流された血によって、良心を罪の麻痺から解放し、生ける神に仕えるようにしてくださったという事です。第三に、これらのみわざは、キリストが、「新しい契約の仲保者」(15節)であるという事です。従って、神が約束された永遠のみ国を、神が召されたすべての者に保証できるということを意味しているのです。この結果、キリストの死が古い契約によって規定された罪の刑罰からの解放を与えるので、永遠の国を受け継ぐ事は確実なのです。 (伊藤)

キリストの死の必要性 ヘブル9:16〜22 2001年9月30日

 古い契約が成立するための犠牲制度は、キリストの新しい契約における完全な犠牲の投影です。ここで著者は、神との新しい関係が開かれるために、なぜキリストの死が必要であっったかということに答えるために、「遺言」という一般的な例を持ち出してきています。17節に「遺産は死によってのみ効力を生じ……」とあるとおりです。つまり、遺言は、遺言を残した当人が死んだ時、初めて効力を発揮するのです。そのように契約もまた、イエス・キリストの十字架の死によって初めて成立するというのです。18節の冒頭に「だから」とあるのは、「遺言」と「死」との関係を、「契約」と「血」との関係に移して、「初めの契約も、血を流すことなしには成立したのではない」と言っているのです。 (伊藤)

完全な救い ヘブル9:23〜28 2001年11月4日

 ここには、アロン系の大祭司と永遠の大祭司キリストとが対比されています。大祭司は、年に一度動物の血を携えて至聖所に入り、民の代表として罪の贖いをしました。これはやがて十字架によって全人類の救いを完成されるキリストの型でした。こうして、キリストは地上においでになり、ご自身の血をもって、全人類の罪を負うために、十字架の上で一度だけご自身をささげられたのです。人間は罪ゆえに、必ず一度死に、しかもその罪のゆえに死後も裁かれるのです。しかしキリストを信じた者は、彼の身代わりで、裁かれることがなく永遠の命が与えられるのです。そしてキリストは、信じた人たち完全な救いを与えるために再臨されるのです。    (伊藤)

御旨を行うために ヘブル10:1〜10 2001年11月11日

 そろそろ、キリストのご降誕を記念するクリスマスが近づきました。御子イエス・キリストさまがベツレヘムの家畜小屋に貧しくお生まれくださったのは、やがて、十字架でお死にくださるためでした。「ごらんください。わたしはここにおります。神よ。わたしはみこころを行うために参りました。この巻物の書に、わたしについて書かれていることを果たすために来たのです」この地上においでくださったキリストのお心は、5節から7節に記されているとおりです。十字架で「ただ一度、イエス・キリストのからだがささげられたことによってきよめられた」ので、キリストを信じる者の罪は全く除き去られて、新しく、キリストの命に生かされるのです。(市川)

確信に満たされて ヘブル10:11〜25 2001年11月18日

 祭司を始めとする人々は、年ごとに、いけにえをささげるたびに罪の記憶がよみがえってきました。雄牛ややぎの血は罪を除くことができないからです。しかし、キリストは私たちの罪のために十字架についてくださいました。キリストを信じる人は、罪ゆるされ、永遠にきよめられたのです。ですから「彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と言われます。そして、キリストを信じた人は、キリストという生きた道を通って聖所にはいることができます。すなわち、神様にいつでも祈り、助けと祝福を受けることができるのです。ですから私たちは、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ神様に祈ることが許されています。私たちは、愛と善行に励み、互いに励まし合い、集会を守り続けましょう。 (市川)

厳しい警告 ヘブル10:26〜31 2001年11月25日

 著者は、もし人が真理の知識から離れようとすれば、唯一の救いの道を放棄することになることを告げています。モーセの律法のもとでも、もし人が神を否定し、契約に反すれば2,3の人の証言によって石で撃ち殺されねばなりませんでした。そこにはもうその罪の赦しはありえませんでした。まして、神がキリストの死によって新しい契約の民とされた者が、この新しい契約に反して、もとの生活に戻るようであれば、その者に対する神の刑罰は、どれほど厳しいものになることでしょうか。キリストはただ一度だけ、人間の負うべき刑罰を一身に受けて死なれたのであって、繰り返しはあり得ないのです。そこでヘブル人への手紙の著者が旧約の律法と預言者の言葉で、鋭く警告を発しているのです。(伊藤)

信仰の勇者たちの証 ヘブル10:32〜39 2001年12月2日

 著者は、信仰者が確信に満たされつつ歩むために、「背教者に対する厳しい警告」(26〜31節)を述べた後に、迫害のさなかにも信仰の勇者たちが数々の恵みを証したことを述べています。ここでは、初代クリスチャンたちの「聖徒の交わり」の具体的な内容を知ることができます。その第一は「逆境と不遇の中にある人々と苦労を共にしながら激しい戦いに耐えた」(33節)ということです。第二に、「獄に入れられた人々を思いやった」(34節)ということです。第三は、彼らが「財産を奪われても喜んで忍んだ」(34節)ということです。どうしてそのようなことが出来たかと言えば、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知っていたからです。(伊藤)

信仰とは ヘブル11:1〜7 2001年12月9日

 11章には「信仰とは」という書き出しで、信仰について、及び、信仰に生きた旧約聖書の人々について記されています。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(1節)とあり、4節以降に人々の歩みが記されています。これらの人々について思い巡らすことは、大切で有益です。カインとアベルはアダムの息子たちです。弟のアベルは「信仰によって」供え物を捧げ、神様に受け入れられ義とされました。エノクは「信仰によって」神様に喜ばれる歩みを全うし、死を見ないようにして天に移されました。ノアは御告げを受け「信仰によって」箱舟を造りました。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(6節)。彼らは信仰のゆえに神様に喜ばれ、今もその信仰によって語り続けています。(市川)

地上では旅人 ヘブル11:8〜16 2001年12月16日

 創世記12章には「時に主はアブラム(アブラハム)に言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう』」とあります。彼はおことばに従い、行く先を知らないで出て行きました。約束の地で、彼は他国にいるような天幕生活をしました。やがて息子イサクが与えられ、お約束のように「大いなる国民」として、天の星のように増え広がりました。アブラハムたちは、約束のものを望み見て喜び地上では旅人、寄留者と告白していました。アブラハムはふるさとウルに帰ることもできましたが、彼が望み見ていたのは、神様が用意してくださったもっと良い天のふるさとでした。(市川)

信仰による祝福 ヘブル11:17〜22 2001年12月30日

 ここにはアブラハムの試練とイサク、ヤコブ、ヨセフという信仰の父祖たちのことが記されています。アブラハムは忍耐の末にイサクを与えられ、彼を通して子孫に祝福が及ぶ約束を受けていました。しかし神は、そのイサクを献げるように命じました。アブラハムは、神の約束と神の命令の矛盾に苦しみました。しかし彼は信仰によって「神が死人の中から人をよみがえらせる力がある」(19節)と信じ、神の命令に従ったのです。三人の父祖たちは、息子たちを祝福し語りました。それは民が、約束の地に入り、大いなる国民となるという神の約束が必ず成就するというものでした。彼らは、この約束をしっかり受け継ぎ、子孫に引き継いでいくことを自覚していたので、決して現状に絶望することなく、希望を抱きつつ死に臨んだのです。(伊藤)

モーセ誕生の時 ヘブル11:23〜32 2002年1月6日

 当時、イスラエルの人々はエジプトで奴隷生活を余儀なくされていました。過酷な使役にもかかわらず、数が増し脅威を覚えたエジプト王は、イスラエル人に男の子が生れたら殺せと命令し、それがうまくゆかないと今度は、ナイル川に捨てろと命じました。モーセはこの最悪と思われる時期に生れたのです。両親アムラムとヨケベデは「信仰によって」三カ月の間家に隠しました。その後ナイルの茂みに置かれた幼子はエジプト王女に見出されました。モーセは幼児期に乳母としての実母に養育され信仰を育まれ、やがて王子として最高の教育を受けました。後にこれらが役立つことになります。不思議な摂理です。  (市川)

信仰の勇者たち ヘブル11:32〜40 2002年1月13日

 信仰によって生きた人々について細かく語るなら時間も紙面も足りません。名前は明記されていませんが多くの人々が信仰を全うしました。「彼らは信仰によって」という内容はわかりやすいものもあります。神様の偉大な御力によりダニエルは「ししの口をふさぎ」シャデラクたちは「火の勢いを消し」、ギデオンを始めとする「弱いものは強くされ」、エリヤやエリシャによって息子たちをよみがえらされた母親たち。ほかの者は、更にまさったいのちのために信仰を全うし、迫害の時代を生きた人々の様子が記されています。これらの信仰の勇者たちもまた、天のふるさと、天の都を望み見つつ「信仰によって」歩みを全うしました。       (市川)

信仰の完成者イエス ヘブル12:1〜6 2002年1月20日

ヘブル人への手紙12章の初めの部分は、12章全体の要約であり、この手紙全体の最も素晴らしい箇所だと言われています。1節には「わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」と、クリスチャン生活を徒競走にたとえて記しています。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者は一部の人という厳しい現実があります。けれども神様は、信仰生活においては、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ」(2節)走り抜いたランナーに、すべて義の冠を授けてくださる(Uテモテ4:8)という約束を与えておられるのです。しかも心強いことに、イエス様が責任を持って終わりまで導いてくださるのです。(伊藤)

愛の訓練 ヘブル12:4〜11 2002年1月27日

 著者は、クリスチャンの上に臨もうとしている厳しい信仰の試練を予想し、神様が与える苦難の意味に対して3つの理由をあげて説明し、励ましているのです。第一は、箴言3章11、12節の言葉を忘れてはならないということ。神様の御手は、喜ばしい時だけでなく、困難な時、苦しい時にも信じる者に働いているということです。第二は、父は愛する子のために、自分を犠牲にしても、子の成長と成熟を願うものです。だから、時に厳しく懲らしめを与えることもあるのです。肉の父がそうならば、まして魂の父は、愛の訓練として、時に厳しい苦難を与えることもあるのです。第三は、神様が与える苦難には必ず平安な義の実を結ばせるという目的があるのです。それは果樹が実を結ぶのに、自然の厳しさに耐えて実を結ぶのと似ています。(伊藤)

手とひざをまっすぐに ヘブル12:11〜17 2002年2月3日

 信仰生活において「わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走り抜こうではないか」(1節)という勧めに生きるために、12節には「それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい」とあります。走り抜くためには足腰が鍛えられてしっかりしていなければなりません。み言葉に教えられ、祈り、鍛えられた信仰の歩みを重ねる日々でありたいと願います。かけっこで転んでもすぐに立ち上がりゴールを目指すように。さらに互いの平和、清さを求める生活。苦い根、すなわち、この世に心奪われ不信仰に陥って、神様から離れないように。またエサウのように、霊的な祝福を軽んじてはならないと教えられています。(市川)

天のエルサレム ヘブル12:18〜29 2002年2月10日

 これは、十戒授与に先立つシナイ山での近づきがたい神様の御臨在の様子です。しかし、キリストにある者が近づいているのは、シオンの山、すなわち、生きておられる神の都、天のエルサレム、祝会に集う無数の天使の群れ、天に登録されている長子の教会(相続権は長子にあり、長子キリストのゆえに祝福を受継ぐ者とさせていただきました)。キリストにあって義とされ時代を超えて天に集う人々。これらはキリストの贖いの恵みです。荒野のイスラエルのように御声を拒むことがないように。やがて新しい天と地が現れるのですから。焼きつくす火であられる神様の御臨在に耐え得ない罪人ですが、キリストのゆえに受け入れられ、天の都の市民とさせていただきましたから、恐れかしこみつつ、神様に喜ばれるように日々仕えましょう。 (市川)

兄弟愛に生きる ヘブル13:1〜6 2002年2月17日

 1〜6節までには2つの勧めがあります。その1つは、「兄弟愛を続けなさい」という勧めです。2節には、その愛の広がりが自然と旅人にとどくように勧められています。さらに3節では、その愛の波紋は獄に繋がれている人たち、苦しめられている人たちにまで広がっていくようにという勧めです。4節以降は、このような兄弟愛に生きる者が、結婚生活から始まり、労働によって賃金を得、家族を養っていくという生活において間違いのないようにという戒めです。そこで金銭に執着してはいけない、貪欲であっていけない、慎ましく生きることなどを勧めたのです。これらは当たり前の事かもしれませんが、兄弟愛に生きるとは、当たり前の事を主の前に誠実に行うということなのです。(伊藤)

神の言を語る指導者 ヘブル13:7〜17 2002年2月24日

ヘブル13章の中には「指導者」という言葉が繰り返されています。17節にも24節にも出てきます。そして前後関係から見ると、現代の牧師の仕事をさしていると思います。「神の言」とは(7節)、ルカによる福音書5章などを見ると、神様がイエス様を通して語られる言葉のことであることがわかります。そして7節の言葉は、原文では「あなたがたに語った、あなたがたの指導者たち」と書かれてあります。「あなたがた」が繰り返されているのは、よく知っている指導者のことだと思います。そして、こうした指導者のことをいつも思い起こすように、さらに彼らの生活の最後を見て、その信仰に倣うように勧めたのです。これらの勧めを読みますと、私たちに神の言を語り、その解き明かしをしてくださった小林牧師の事を思い出します。(伊藤)

羊の大牧者 ヘブル13:18〜25

 今まで読み進めてきましたヘブル人への手紙も最後の交読になりました。難しい箇所が多かったですが、キリストの血による新しい契約の意味が何度も記されていました。旧約時代から繰り返し捧げられてきた多くの動物の犠牲。礼拝のたびに流された動物の血。しかし、ただ一度十字架で捧げられたキリストのお体。流されたキリストの血潮により、彼を信じる者に罪の許しが与えられ、永遠の命が与えられること。キリストにあって、神の相続人としていただいたこと。やがて現れる天の都エルサレム。多くの信仰の証人たちのように、天のふるさとを目指して旅をします。その間、養い導いてくださる方は「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエス」さまです。(20節)(市川)