館林キリスト教会

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ショート新約 ペテロ第二の手紙

キリストを知る知識 ペテロ第二1:1〜11 2002年9月29日

2節には、神様と主イエス・キリストを知ることによって恵みと平安とが豊かに加わるように、とあります。キリストを、個人的に、正しく知るなら、神様の恵みと魂の平安が増し加えられるのです。3節にはわたしたちを召された方を知る知識によって、いのちと信心のために不可欠で、ふさわしいすべてのものが与えられている、とあります。神様の約束に加えて、信仰を訓練して豊かな品性を備えるなら、8節にはキリストを知る知識について実を結ばないことがないとあります。このようにして、救われた召しと選びについて、真剣に確固としたものとするなら、躓くことなく、御国に入る恵みに与るのです。 (市川)

キリストの力と来臨 ペテロ第二1:12〜21 2002年11月3日

ペテロは、12節から主を知る知識が強固な根拠によって確証されていることを語ります。その一つに、「キリストの力と来臨」<再臨のこと>(16節)は「わたしたちが、そのご威光の目撃者」(16節)であるという事実によって確証できると言うのです。ペテロはイエス様が変貌された時、「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」(マルコ9:9)といわれていました。ところがキリストは死人の中からよみがえったのです。だから主の復活は、神の御力による「来臨」を約束するのです。(伊藤)

確実な裁き ペテロ第二2:1〜10 2002年11月10日

ペテロは、この章の冒頭から、イスラエルの歴史において多くの偽教師の現れたことなどを示し警告を与えています。そしてペテロは、偽教師に対する神様の裁きがどんなに厳しいものであるか、旧約聖書の三つの事例で実証しています。第一は、罪を犯した御使いたちは、地獄に落され裁きの時まで暗闇の穴の中に閉じ込められていること。第二は、ノアの時代の不敬虔な人々、ノアの伝える神様の命令に従わなかった人々を洪水によって滅ぼされたこと。第三は、ソドムとゴモラで放縦な生活をしていた人々が天からの火で滅ぼされたことです。そして神様は、今でも異なる福音を伝える者を同様にするのです。(伊藤)

偽教師の姿 ペテロ第二2:9〜16 2002年11月17日

ペテロは、偽教師の行く先は滅びだと、厳しく記しています。この厳しい指摘の理由は、2章1節のように、彼らが、自分たちを贖って下さった主を否定し、たくみに異端の教理を持ち込んだからです。またそれによって多くの人々が惑わされ、神様の教えの道が汚名を着せられ非難される危険があったからです。彼らは、自ら罪を求めて飽くことを知らないだけでなく、信仰に入りたての人々をだまし同じ過ちに引き込むのです。ものの道理をわきまえない獣のようにふるまい、いずれは自分自身の堕落によって滅ぼされるとあります。昔の偽教師バラムは、報酬の為にイスラエルを呪うことさえしました。このとき神様は、物言わないロバが人間の声でものを言うという方法で、バラムを戒め、その行いを、阻みなさいました。(民数記22章)(市川)

空虚な教え ペテロ第二2:17〜22 2002年11月24日

偽教師の教えの空しさについて、二つの例が挙げられています。第一は、水のない井戸。乾燥した砂漠地帯に生きる人々にとって、水を求めてやって来た井戸が、空井戸だったなら、これほど期待を裏切るものはありません。また、命の危険が伴います。命の源である主を否定して、どんなに巧みな教えを語っても、人々は主にある命を受けることはできません。第二は、突風に吹きはらわれる霧。天候が変わって突風が吹くと、霧は簡単に吹きはらわれてしまいます。そのように、彼らの教えは頼りにならない、一時的なうわべだけのことだというのです。彼らは人々に自由を約束します。しかし、自分自身は自由がなく、キリストを否定し罪の奴隷です。罪と裁きから解放されて真の自由を受けるには、キリストによる以外にはありません。   (市川)

主の来臨の約束 ペテロ第二3:1〜7 2002年12月1日

ペテロがこの第二の手紙を書いた目的は、第一に、みことばを思い出させて受取人を励ますためです。第二は、終わりの時に、再臨の約束を侮る偽教師の出現を知らせ警告を与えるためです。偽教師の数々の有害な教えの中で、特に破壊的なのは再臨の約束を否定する教えでした。偽教師たちは「主の来臨の約束はどうなったのか。…すべてのものは天地創造の初めから…変わってはいない」(4節)というのです。しかしノアの大洪水の時に、箱舟に入ったノアを含む家族8人と数々の生き物以外は、みな滅びて、地は新しく変わったのです。同様に、終わりの時には不信仰な世界は火によって滅ぼされ、義の住む新しい天と新しい地(13節)と変えられるのです。(伊藤)

主の来臨の備え ペテロ第二3:8〜13 2002年12月8日

昔から今に至るまで、再臨の日を定めて人々を惑わすものがいました。だから、イエス様は前もって「その日、その時はだれも知らない」(マタイ24:36)と教えられたのです。それでもペテロの手紙を受けとった人々は、終わりの時、再臨の時は遅いと思っていたようです。しかし、永遠の神様にとっては、「一日は千年のようであり、千年は一日のようである」(8節)のです。「主の来臨」が遅れている理由は、一人でも多くの人が悔い改めて救われるためなのです。それは神様の限りない寛容と忍耐と愛のゆえです。「しかし、主の日は盗人のように襲って来る」(10節)のです。だから、絶えず目を覚まし、神の日の到来を待ち望みつつ、きよく信心深い行いをし、主の来臨に備える事が大切です。(伊藤)

静かな確信 ペテロ第二3:14〜18 2002年12月15日

主の来臨の時、しみもきずもなく、恐怖や心の葛藤のない静かな確信を持って平和のうちに、主に見ていただける者として励むようにとあります。信仰による確信と平安のうちに、日々過ごすことが大切で、幸福なことです。主は、悪を裁き、世界を裁くことを遅らせて、だれひとり滅びることなく、すべての人が悔い改めに至ることを望んで忍耐しておられます。「主の寛容は救い」(15節)であると、主のご忍耐とゆるしのうちに今日も生かされていることを思うべきです。聖書の理解しにくい箇所について、曲解してはならないこと、誤った言葉に誘われて、現在の信仰の確信から落ちないように気をつけなさいとあります。受ける資格がない者に与えられたキリストの愛を日々深く知り、恵みに成長し続けるように勧められています。(市川)