館林キリスト教会

トピック集

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子どもイエス

トピック集(6) 随筆 (古い説教ノートから)

キリストの十字架

 キリストの十字架は、世界に突きつけられた謎だった。
 キリストのように神を信ずる敬虔な生活は空しいのか。罪を避け人を愛する清潔な人生の価値はどこにあるのか。無力な義人は、有力な悪に勝てないのか。
そして神は?
 クリスチャンたちもキリストのために神の助けを期待したし、また十字架の周囲の人は「彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」と嘲った。
 それなのに神は彼を助け給わず、キリストは死んでしまったのだ。
 しかしイースターの朝、キリストは復活した。神はキリストの死体の中に働いて復活の力をお現しになった。これは神による先の疑問の答えであり、解決であった。人類の勝利と希望の朝だった。
 「神は生きてい給う。キリストの敬虔な生活に報い給うた。そして救いを成就し給うた」。この信仰は力を得たのだ。
 今朝はこのすばらしい歴史的できごとを勉強しよう。

ペンテコスト

 キリストご在世のころ、弟子たちは最高の先生の指導と助けをいただいていた。「だから我々の信仰生活もここまで続いたのだ」というのは彼らの実感だった。それゆえ、キリストが十字架上に死んでしまうという宣告は、彼らの心を絶望感で満たした。
 その空気を察して、キリストは言われた。「 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」。ヨハネ福音書14章。
 「つまりキリスト昇天ののち、すべのクリスチャンの信仰と、証と、伝道の力の助けとして、キリストに代わる助け主、聖霊がお降りになる」というお約束をお与えになったのだ。
 このお約束が成就して、教会に聖霊が注がれた事実が、使徒行伝、二章に出ている。
 今日は「ペンテコステ」といって、この出来事の記念日だ。クリスマス、イースターにも負けない大切な日だ。

救いの光

 ここに「すべての人を照すまことの光」とあるのは、言うまでもなく、救い主イエス・キリストである。
 また「世は(人々は)彼を知らずにいた」。
 たしかに多くの人は、キリストを知らず、救いを知らず、それゆえ神も知らなかった。またキリストを知っても「彼を受け入れなかった」のだ。
 実はキリストは私たちに申し入れをしていらっしゃるのだ。
 「わたしはあなたのために十字架にかかって死に、また復活しました。わたしはあなたの救い主です。わたしをあなたの救い主として、受け入れてくれますか?」と。
 ちょうどプロポーズに似ている。相手はそれを受け入れるか、拒絶するか、二つに一つだ。
 もし彼を受け入れたら、キリストはその人に「神の子となる力(資格・実力)を与えたのである」とある。すなわちクリスチャン生活の出発だ。
 今朝はこのみことばから、大切な「救いの真理」「信仰の真理」について、お話をしましょう。

ルターの救い

 マルチン・ルターは弁護士になる予定で大学で勉強していた。ある日友人と歩いている時大雷雨に遭い、落雷で友人は即死。ルターは恐ろしさのあまりに「わたしを許し、守ってください。わたしはこれから神に仕えます」と、祈ったと言う。
 教会は彼に修道院に入ることを勧めた。そこでルターは「神のみこころにかなう生活」を志したのだ。
 しかしどんなに真剣に努力しても、彼は「罪の自覚」から解放されなかった。罪の自覚にさいなまれ、苦しみ、自分の部屋で悶絶しているのを多くの人が見た。
 彼は言っている。「『神は義である』という聖書の中心的な教えは、罪深い人間にとって、実は恐怖であって、決して福音(幸福なおとづれ)ではない」
 しかし彼はスタウビッツその他の指導で、ローマ書の「神の義」は、神が愛をもって、またキリストの十字架によって、罪人に下さる「義」であることを理解し、いわゆる救いの確信を得た。今朝はこの真理を学びましょう。