トピック集(3) 随筆 (古い説教ノートから)
天道是か非か
「ある人は言う『天道(世界の支配者である天の道)には私がなく、常に善人に組する』と。しかし伯夷(はくい)、叔斎(しゅくせい)などはあんなに行いを正し、人徳を積んだのに首陽山に餓死した。孔子は、弟子の顔淵(がんえん)を褒めて『七十人にあまる弟子の中で、彼はもっとも学問を好む人物だ』といつも推奨した。
しかし彼の生活は、飯米に窮し、米ぬかさえ腹一杯は食べられなかった。そして飢えに疲れて若死にをした。盗跖(とうせき)は日々罪のないものを殺し、人の肝を刺身にして食べ、数千人の子分を率いて天下を自由に荒らし回ったのに、天罰を受けず一生気楽にすごした。
これらは歴史の中で明らかな例である。
わがままで威張り散らし、人から忌み嫌われながら、生涯を楽しんで送り、その富が子孫に受け継がれる例も多い。
一歩を歩むにも道を選び、一言さえ言うべき時に言い、大義名分にかかわることでなければ、個人的に怒ることがない。そういう人物で、不幸な人は幾らもいる。
わたしは『天道是か非か(支配者である天の道は、正しいのか、不正なのか)』と疑わざるを得ない」。中国の歴史家「司馬遷(しばせん)」の言葉
「史記」は中国の、古い膨大な歴史書です。これを著述した「司馬遷」は、「歴史の神様」などと言われます。本人は「わたしは結局『天道是か非か』
の疑問を解決しようと、歴史を調べたのだ」と言っている。
私は彼に聖書を読ませたいと思いますね。
嫉 妬
「嫉妬には共通した本質がある。すなわち、自分の権利を奪われ、傷つけられたわけでもなく、また必ずしも困窮、欠乏しているわけでもない。それなのに、ただ他人が気になっていつも心が乱されるのだ。
彼は二人そろっておいしいものを食べられれば、これを幸福と感じる。食物がなくて、ふたりとも食べられない場合にも、そんなに心は痛まない。しかし彼が食べていて自分が食べられないことになると、嫉妬の念が生ずる。半分分けてもらいたいと思う。それがかなわなければ、相手の食物を投げ捨て、二人とも食べられないようにして、はじめて鬱憤が晴れる。嫉妬は恐ろしいものだ」。小泉信三博士
材木の漂流
紀州の山は森林で、材木がいくらでも取れた。枝を下ろしたりして材木にすると、ぼんぼん熊野川に流す。
しかし材木には各商店の刻印が打ってあるから、熊野灘の海に流れ下った材木は、海岸に打ち寄せられ、刻印に従ってそれぞれの持ち主に引き取られるのだ。
クリスチャンもいまは、罪の世の中に漂流しているように感じる。しかし神によって心に「聖霊の証印(エペソ、1:13・14)」を押された。だから最後には、必ず天国に集められるのだ。