館林キリスト教会

トピック集

ステップテキスト

子どもイエス

悔改めと信仰 (ステップテキスト6)

「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである」

使徒行伝、20章21節

1 伝道の要点

お話してきたように、罪のために人間と神の間は断絶状態に陥っている。しかしいま誰か「私は、キリストの十字架によって、神との関係を修復していただき、これから神を信じる生活をはじめたい。そういう場合に何をしなければならないのか。信仰生活に入る手続きは何ですか」と質問したとする。
これについて、使徒パウロが使徒行伝の20章で「ユダヤ人にもギリシャ人にも神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである」と言った言葉が、すなわちその答えなのです。
パウロは伝道生活の間に、いろいろな機会に、沢山の人にお話をし、伝道をしてきました。もし人がパウロ先生に「あなたは一生涯キリストの話、聖書の話をしてきたが、その要約を一言で言うと何でしょうか」と聞いたとします。
そうすると、パウロ先生は「要するにそれは二つのことです。一つは神に対しては悔改めなさい。もう一つは、主イエスに対しては信じなさい。この二つのことに尽きるのです」と答えるのです。
「悔改めと信仰と」つまりこの二つを実行することによって、人は神に立ち返ることができ、神に受け入れて戴ける。つまり神を信じる生活に出発をすることができるわけですから、これは非常に大切な教えです。
さて「悔改め」とはなにか、それはお詫びのことです。

2 お詫び

みなさんは「お詫び」という言葉にどんな印象を持ちますか。私は「お詫び」という言葉は好きです。そこにはまず、自分の間違いを認める正直な気持ちがあります。また率直に謝るときの謙遜さもりっぱです。神様も人間に対して、そういう態度を求めていらっしゃるのです。
神様は罪を非常にいとわしくお思いになる。ところが人間はどうしても罪と関係のない生活をすることができません。
生活をしていれば、顔も手足も汚れます。一晩寝れば、ねまきも寝室も汚れる。だから、洗面、風呂、洗濯、お掃除と、よごれを清めることなしに生活はできません。
同じように、黙っているときも、不潔、低級な思いは心に浮かんでくる。外を歩けば、映画のポスターから、人との会話から、テレビや雑誌から、目から耳から、不潔、低級な罪は入り込んで来ます。だから神様の前に自分の罪をお詫びすることなしには、信仰生活に入れないし、神様と私達の関係を正しく保つこともできません。
私は館林教会の牧師として長い間この仕事をさせて戴いております。
2百人、3百人といった人を指導する立場です。人からそれなりの信頼も尊敬も受けていると思います。けれども、私の心と生活を神様が見れば、そこに多くの罪や失敗や間違いをご覧になるにちがいありません。
私も自分でそれをよく知っています。けれどもいつでも、私はみなさんにはっきり申し上げることができます。私は神様の前にお詫びのすんでいない罪を持っていません。罪は犯すかもしれない、失敗は多いかもしれないが、一つ一つ全部、神の前にお詫びがすんでいます。これがクリスチャンの心境なのです。

3 笑わない人

われわれの先輩に大沢牧師という方がいました。この方が東北のある町で伝道していたときに、町の郵便局の職員に「笑わない人」というあだ名の人がいました。この人は楽しいことがあっても、面白いことがあっても、おかしいことがあっても笑ったことがないのです。いつも淋しそうな、憂鬱な顔をしておりました。
なぜかというと、この人の心に、一つの罪の記憶が焼きついていたのです。この人は子供の時に友達と海岸に遊びにいった。遊んでいるうちに友達をちょっと水の深い所に押しました。友達はずるずると海に入ってしまった。助けを求める二本の手が水の上に出ていました。子供ですから驚いただけで何もできない。間もなく二本の手は見えなくなってしまいました。家へ帰っても黙っていましたが、だんだん大騒ぎになって「今日お前と遊んでいた子供が帰らないが、お前は知らないか」と聞かれた。恐しくて「知らない、知らない」といい通したのです。
町中の人が、たいまつや提灯をつけて、森や山や海岸を「だれだれちゃん−−−」「だれだれちゃん−−−」と呼びながら探して歩く後を、この子も泣きながらついて歩きました。

4 新しい生活

これは秘密で、誰も知る人はいませんでした。けれどもだんだん成長して大人になっても、どうしてもあの水の中からつき出ていた二本の手を忘れることができません。ですから彼は笑うことができないのです。
どんな時でも、その罪の記憶が心に浮かび出して来るのでした。
ある時大沢牧師が道端で、通行人に向かって聖書の話をしていました。
そのとき、この笑わない人が熱心にお話を聞いていました。そしてイエス・キリストの十字架によって人間の罪が許されるという、牧師の話を深く心に留めました。やがて彼は教会に来て、大沢牧師の指導を受けてその罪を神様にお詫びしました。その他のあらゆる罪も神様にお詫びしました。
一緒に警察に行って事情を話しました。多少の手続きはありましたが、いま改めて法律上の責任を問うようなケ−スでもなく、彼はすぐに許されました。
それから彼は熱心なクリスチャンになりましたが、前とは打って変わって、非常に明るい、朗らかな、幸福な人になったのです。
私達はまさか、この笑わない人のような大きな罪は持っていないでしょう。しかし、どんな小さな傷でもやはり痛みます。どんな小さなバイ菌でも人を殺します。ですから、私達は神様に自分の罪をお詫びして、神様との交わりを回復し、神様との交わりを保つ信仰生活に入ることをお勧めします。それによって、あなたは神と共なる生活を送るようになります。