信仰について (ステップテキスト7)
「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」
使徒行伝、16章30,31節
1 信仰生活の入り口
この前、悔い改めに関する、使徒パウロの有名な言葉を読みました。
「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである」
パウロはいつも人が神を信じる生活を始めるために、まずとらねばならない手続きとして、神に対して自分の罪をお詫びすることを強調し、その次に、神を信じ、イエス・キリストを信じるように教えたのです。
ちょうど悔い改めをもってドアを開き、信仰をもってドアを閉じて、信仰生活の部屋に入るようです。
2 信仰とは
では信仰とは何でしょう。それは、聞いた言葉を信頼すること、疑わずに受け入れることです。
言い替えれば、神様が「イエス様の十字架によってあなたの罪を許してあげる、あなたが悔い改めて、キリストの十字架を信じ受け入れるならば、あなたの罪を許し、あなたを一つも罪を犯したことがない、義なる人間として認めてあげる。それによってあなは神と共に歩む生活に入ることができるでしょう」という、神の申し入れを受け入れることです。
目に見えるものを、たとえば「あなたにこの聖書をあげましょう」と言われた時に、私達は手でその聖書を受け取ります。しかし目に見えないものを「あげましょう」と言われたら、それを何で受け取りますか。
信頼をもって、心にそれを受け入れるでしょう。
誰かから「わたしはあなたを愛しています」という告白を聞いた時、あなたがこの愛を信じないで、疑っていれば、あるいはバカにしてしまえば、この愛を拒絶したことになります。信じるならば、この愛を受け入れたことになります。また、誰かがあなたに「誕生日には万年筆を買ってあげましょう」と約束をしたとします。「どうもありがとう」といって、まだ万年筆をもらわないうちにお礼を言えば、この約束を信じたのです。この約束は受け入れられたのです。けれども反対に「またうまいことを言っている。当てにはならない。お礼は品物をもらってから言うことにしよう」という態度だと、約束は受け入れられなかったわけです。
3 キリストのプロポ−ズ
イエス・キリストは「私はあなたの罪のために十字架にかかってあげました。私の十字架によってあなたの罪は許されます。あなたは罪を悔い改めて私の十字架を信じてください。私を救い主として受け入れてください」といわれます。
このキリストのお申し入れ(プロポ−ズ)に対して、私達は二つの態度をとることができます。一つはこれを断ること、もう一つは感謝の心をもってこの救いの申し出を受け入れることです。そして、受け入れることはすなわち、信じることです。
ですから、あなたがもし、クリスチャンになりたい、神と共なる生活に入りたいというご希望をお持ちでしたら、どうぞ、身近かなクリスチャンの方、あるいは教会の先生のご指導を受けて、悔い改めと信仰のお祈りをしてください。
あるいは誰もいない部屋で、ひとりで、目に見えない神の前に膝まずいて、今まで神様を無視してきたことと、犯してきた多くの罪を悔い改めましょう。
実際は忘れてしまった罪のほうが多いのですが、しかし記憶にしっかり留まっている、名前のつけられる罪もある。それを全部ひっくるめて「神様、私は罪深い人間です。罪のために神様から離れてしまいました。どうぞ、私の罪と不信仰をお許し下さい。また、イエス・キリストは私の罪のために、身代わりとなって十字架にかかって下さったことを聖書によって知りました。私はイエス・キリストの十字架によって、罪を許していただかなければならない人間です。イエス・キリストの十字架を信じます。どうか私の罪を許してください。」と祈りましょう。
この祈りによって、あなたは神に受け入れられるのです。あなたはその時から全く変わった人間になることは確かです。
4 自分の入信の経験
私は高校生のときにクリスチャンになりました。
非常に真面目な、ものがたい家庭に生まれたので、自分では、父や母のように、真面目で、りっぱな人間になるつもりでいました。
ところが思春期になると、いろいろな欲望が目覚めてきて、読みたい本も、話したい会話も、遊びに行きたい場所も、自分の堕落につながるようなことに、心を引かれるようになりました。
かねがね「不潔だ、低級だ、避けなければならない」と思っていたような所に、どうしても引かれる。そんな自分を、自分でもてあましたのです。
まだ半分子供だから、大したことをしたわけではないが、気持ちの上ではいよいよ悩んで、とうとう教会に行くようになりました。そこで、わたしが、いままで皆さんに話してきたのと同じお話を、牧師さんから聞きました。そして私も罪を悔い改めて、キリストを信じようと思ったのです。
しかしどうも教会では、ほかの人もいるのでやりにくく、家に帰ってきてから、母親の敷いてくれた寝床の枕もとにすわってお祈りしました。
「神様、あなたがご存じのように、わたしは罪深い人間です。自分の罪のために悩み苦しんでいるのです。イエス様は私を罪から救ってくださると聖書から知りました。私は自分の罪を悔い改めて、イエス様を信じますから私を救って下さい」こんなふうにお祈りしました。多分一分間くらいのお祈りでした。その時は別に何の感情も、何の感動もともなわないお祈りでした。
それが私の16才の秋のことです。今年は78才になりました。あの時、神を信じ、キリストの救いを受けてから、私は生まれ変わった人間になりました。
少くとも、人に迷惑をかけるよりも、むしろ神のために、人のために役立つ、奉仕の一生を送ってきたことは事実です。本当に良かったと思います。けれどもそのきっかけ、その入口、出発は、忘れもしない16才の秋、一人で、誰もいない部屋にすわって、神様に不器用なお祈りをした、その時にあったのです。
どうぞ皆さんも、同じような経験にお入りになるように、お勧めをしてやみません。それを心からお祈りしております。