館林キリスト教会

トピック集

ステップテキスト

子どもイエス

神様を無視(ステップテキスト4)

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」
ロ−マ人への手紙、3章23,24節

1 お父さんと武雄君

非常に仲の良い家族がいました。ことにお父さんと一番小さい男の子の武雄君はとても仲良しでした。
お父さんはよそへ行くと必ずおみやげを買ってきます。
武雄君も少し眠くても我慢して、お父さんの帰りを待っています。
ところがある日のこと、今日もお父さんが武雄君の大好きなおみやげを買って帰ってきました。
武雄君のよろこぶ顔が目に見えるようです。
「ただいま」と玄関に入ると、いつも「お父さんお帰り」と言って一番先に飛び出してくる武雄君の顔が見えません。
奥さんが出てきました。
「武雄はどうしたのだ?病気にでもなったのか?」「いえ、武雄はちょっと」奥さんは言葉を濁しています。
お父さんが座敷に上がって見ますと、どうもいままで武雄君がそこにいて、あわてて逃げたらしいのが気配で分かります。次の部屋にいってみるとまた逃げたらしい。とうとう最後に武雄君をつかまえました。
「武雄、お父さんはおまえを喜ばせようと思って、おみやげを買ってきたのにどうして逃げるのだ」武雄君はもじもじして何も言えません。
お母さんが説明しました「実は、今日、友達が多勢遊びに来たとき、武雄は、いつもお父さんが『入ってはいけません』とおっしゃる、書斎に入って遊びました。
暴れているうちに『大切な花瓶だからさわってはいけないよ』と言われていた花瓶を落として壊してしまったのです。
お父さんに罪を犯しました。だから、お父さんの顔が見られないのです」もちろんお父さんは強くは叱らないで、武雄君を許してあげましたから、武雄君はおみやげをもらって、ご機嫌良くその晩は休んだでしょうね。

2 罪と神様

このように、罪を犯すと、相手の顔を見にくくなり、交際が気まずくなります。
これは人間関係にもよくあります。
今まで「天のお父様」また「神は私達の避け所であり、力であり、悩める時のいと近き助けである」と学んできました。しかしなぜ一般の人には神様のことが分からないのでしょうか。
神様の話を聞くと「なるほど」と思いながらも、その一方、なぜもう一つピンと来ないのか。
また、なぜクリスチャンたちのように、「神様は祈りに答えて自分を助けてくださる」という実感を持てないのか。
なぜ、全世界を造り、私達を造り、私達を守り、私達を生かしてくださる、天のお父様である神様に対して、私達の気持ちはそんなに空しいのでしょうか。
それは人間が神様を無視し、また神様の前に罪を犯しているからです。
ロ−マ人への手紙3章23節に「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」と書いてあります。
すべての人と言えば、私も、あなたも、罪を犯したということです。それゆえ我々は、雲の陰にいる人が太陽の光を受けられないように、神の栄光を受けることができず、従って神様のこともわからい。お祈りの確信もないと、聖書は教えるのです。

3 罪とは

では、この場合、罪とは何を指しているのでしょうか。
一般的には「罪とは法律を犯すこと」です。逮捕され、裁判をうけなければならない。ついには刑の執行を受ける。それを罪と言います。
けれども別に「刑法には触れないがこれは悪いことだ」という「道徳上の罪」もなかなか多い。
世にはこれらの大小の罪があふれています。
そして家庭の不幸、学校の混乱、社会問題の原因となり、私達は罪のために随分困らされています。あんまり罪がはびこってでたらめな世の中なので、生活するのにくたびれてしまうくらいです。
そのように、罪の弊害の大きさから言えば、決して「法律上の罪」だけでなく、むしろ法律では問題にしないような道徳上の罪によって、家庭が破壊され、人間がダメにされてしまうケースが多いのです。
「私は刑法に触れるような罪は犯していない」と多くの方はおっしゃるでしょう。しかし「私は道徳に反したことがない」という確信は誰にもないと思います。

4 宗教上の罪

また、キリストは次のことを教えてくださいました。殺人事件があると、放ってはおきません。殺人者は必ず逮捕して裁判にかけます。
しかし殺人を犯さなくても、他人を強く憎む人がいる。また他人に強い嫉妬心を抱く者もいる。あるいは非常な恨みを含む人もいます。あるいは傲慢で、いつも人のことを「馬鹿もの」とののしる。あるいは人のことはかまわず、自分のことしか考えない自分勝手、冷淡、薄情な人もいます。
そういう、人間の心の奥に埋まっている危険なものが爆発する時殺人になるのです。
だから、私達はまだ産まれない殺人の卵を、いくつも心の中に持っているようなものです。
キリストはそう教えてくださいました。ですから、地上では「私は殺人を犯したことがありません」といえるかもしれないが、神の前に立てば「私も心の中で、思いの中で、殺人罪を犯しています」ということになるのです。
また、姦淫罪も、不潔で低級な、大きな破壊力を持つ恐ろしい罪にちがいありませんが、キリストは「心の中で、色情を抱いて女を見るものは心の中で姦淫を犯したと同じだ」と教えてくれました。
これも表面に出ない、心の中の、未完成の、卵の状態の姦淫罪を指摘なさったのです。
ちょうど、隠れて外から見えない病気をレントゲン写真で写し出すように、神様は聖書の御言葉というレントゲン写真で、私達の罪を指摘していらっしゃるのです。

5 罪の反省

そういう数々の人間の罪が、私達と神様との間を妨げているのです。
聖書の中に「神様の耳が鈍いから人間の祈りが聞こえないのではない。神様の手が短いから人間を助けることが出来ないのではない。
あなたの罪が、神とあなたの間を隔てているのだ」という御言葉があります。
これは少しきつい、厳しいお言葉にちがいないが、神の言葉の光の前に、自分の罪について静かに思い、静かに反省する時間を持つのは、聖書を愛読するクリスチャンの特権です。
汚れに気がつかなければ顔も洗わないでしょう。病気を見つけないで治すことができますか。自分の罪を悟るということ、謙遜に罪を認めるということは、人間としてとても大切ではないでしょうか。
考えてみる必要がありますね。
しかも神様は、イエス・キリストの十字架によって、悔い改めた人の罪をすべて許しまた清めて下さるのです。これがキリストの救いです。