教派について (ステップテキスト10)
「教会は、全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」
新約聖書、使徒行伝、9章31節
1 さまざまな教会
教会もいろいろで、教会らしく屋根の上に十字架を立てたりっぱな教会もあれば、まだそこまでゆかないで、普通の借家などで集会をする教会もあります。またクリスチャンの家庭を解放して集会が開かれ、ここからだんだん大きな教会に発展する場合もあります。
初代教会の時代には、教会もクリスチャンも迫害されていたから、森の中や、大きな倉庫や、広い地下のお墓、そんな所で隠れた集会をもっていたようです。
それを見ても、本来の教会というものは決して建物ではなく、集会が中心だということが分かります。
たぶんあなたの町にも教会があると思いますから、どうぞ教会を尋ねてください。そこには牧師さん、あるいは先輩のクリスチャンがいて、喜んであなたを歓迎し、だんだん信仰に導いて下さると思います。
2 脱線した教会
時々「キリスト教は一つだと思っているのに、同じ聖書を信じながら、なぜカトリック教会とか、新教とか、救世軍、ホ−リネス教団、同盟教団、またお宅の福音伝道教団というふうに、たくさんの教派に分かれているのですか」こういう質問を受けます。
その理由を簡単にいうと、第一に、キリスト教は非常に歴史の古い宗教だから、残念ながら長い経過の間に、聖書の教えから脱線した教会もあります。
不思議に思うかも知れないが、カトリック教会などは、中世紀の教会の脱線の形が大分残っていて、まるで寺院のように、教会の中に、聖書が禁ずる偶像を並べています。
また一方には、聖書を神の言葉として読まず、優れた宗教文献としていろいろ批評を加えながら読む教会もあります。そういう教会では、聖書を勉強しているとはいいながら、そこには真剣に神を信じる信仰の生活はありません。
そうかと思うと、花や本の押し売り、訪問、面会の強要、若い人を監禁でもしかねない乱暴な連中が、教会を名乗っているケ−スさえあります。古い脱線をひきずったカトリック教会、人間の理性優先の近代主義教会、やくざじみた、詐欺めいた乱暴な教会。それらはいずれも教会の脱線だと思います。われわれはそういう教会から、本当の教会を区別しなければならない。そういうわけで、教派ができるのも、残念ながらまたやむをえない歴史的な事情なのです。
3 教派の自然な発生
しかしまた、脱線以外にも教派の発生した理由があります。
長い歴史と、活発な伝道活動の間に、きわめて自然な事情、必要からも教派が生じました。
たとえば、ある人々が心を合わせて「われわれは、寂しい病床生活を送っている病人に伝道しようではないか」ということでグル−プを作ると、それは自然に目的にあった組織を形成し、やがて教派になります。
あるいは、外国へ伝道するためにグループをつくる。特に貧しい人を中心に伝道する組織をつくる、というケ−スもできます。中には鉱山労働者や、鉄道員専門に伝道する教派もあります。
このように長い間、キリスト教が全世界に伝道し浸透してゆく間に、一つの団体、一つの組織でなく、多様に、合理的に、組織を作り運営するために、多くの教派ができました。多くの教派があって賑やかなのも、活発なキリスト教の、一つの良さであると思います。だから、たくさんの教派はみなライバル関係で、それぞれ競争し、張り合っている。そういうふうに考えると少し違います。
4 福音伝道教団
今、現に私達の教会は、福音伝道教団という教派を組織しています。福音伝道教団は、今から数十年前に、イギリスからきた、宣教師のバ−ネット先生が始めた団体です。そのころの日本は、教会はほとんど都会に集中していました。都会の人は行きたいと思えばいつでも教会に行けましたが、田舎の人には教会はありませんでした。なぜかというと、田舎の伝道は、骨がおれる割合には効果が少なく、成功が難しかったのです。しかし、バ−ネット先生は、どんな田舎でも平等に伝道して、平等に教会を建て、だれでも教会に行けるようにしなくてはならないという願いから、困難を承知で、わざわざ田舎伝道を始めたのです。
ですから福音伝道教団の教会は、東京にも数箇所できましたが、だいたい群馬県、埼玉県、栃木県、長野県、新潟県など、中央日本の農村部に伝道しているのです。自慢させていただけば、福音伝道教団が一生懸命がんばらなければ、群馬県の田舎の、小さな町村に、こんなにたくさんの教会はできなかったと思います。
そういうわけで、都会に行けばもっと大きな会堂を建て、大勢の会衆を集め、もっと大教会の牧師になったかもしれない、りっぱな牧師さんたちが、よろこんで田舎の人々のために一生をかけて伝道しているわけで、これも一つの教派なのです。
そういう趣旨で、たくさんの教派があるのも、意味のある歴史上の出来事だと理解してください。どうか、あまり難しいことにこだわらないで、お近くの教会に、お気軽においでになって、先生たちを通し、先輩のクリスチャンを通して、信仰を学び、信仰に入り、クリスチャンとして立派な人生を送るように、心からお勧めします。
長い間、お話をお聞きいただいてありがとうございました。皆さんのために心から祝福をお祈りしております。ではさようなら