市川副牧師 コラム集(13)
賛美歌515番 2004年5月23日
作詞、作曲ともに作者はルイズ・ハートスーという方で、1828年ニュー・ヨーク州に生まれ1851年メソジスト派の牧師となりました。
この賛美歌は初めGuide to Holinessという雑誌に載せられ、それが在英中の福音歌手サンキのもとに送られ、讃美歌集に収められました。サンキは伝道集会で決心者を募り招く時、この賛美歌をよく歌ったと言われているそうです。
日本では明治版「讃美歌」以来ひろく愛唱されてきました。
このアイラ・デイヴィド・サンキという方は伝道者D・L・ムーデイーの協力者でした。
サンキはアメリカのペンシルヴァニア州に生まれ、音楽の才能に恵まれ幼いころから日曜学校の賛美奉仕をしたそうです。1870年インデイアナポリスで、集会がもたれた時ムーデイーに大きな印象を与え、これがきっかけとなって、ムーデイーの伝道チームに参加。以後国内を始め海外での多くの伝道集会でご奉仕し、多くの聴衆に非常な感動を与えつづけました。
独唱者としてばかりでなく、多くの賛美歌を作曲しSankey and Moody Hymn Book「サンキ、ムーデイー聖歌集」はひろく愛用されました。
賛美歌498番はサンキの作曲です。 「讃美歌略解」より
D・L・ムーデイー 2004年5月30日
ドワイト・ライマン・ライサー・ムーデイーはアメリカの有名な大衆伝道者です。
1837年マサチューセッツ州ノースフィールドの煉瓦職人の家に生まれました。お父さんはムーデイーが4歳の時亡くなりました。兄弟が多かったので17歳の時ボストンに出て、叔父さんが経営する靴屋で働きました。そのころ、マウント・ヴァーノン会衆派教会の日曜学校教師エドワード・キンボール先生の導きを受けて入信しました。
シカゴに移り、靴のセールス業に成功する一方1858年、21歳の時、ノース・マーケット日曜学校を開いて伝道を始めました。子供たちは次第に増えて1500名にものぼり、その噂は後の大統領リンカーンにも聞こえ、ぜひ見学したいとやって来ました。2年後には事業を辞めて伝道に専念するようになりました。
1870年福音歌手I・D・サンキと出会い、共にチームを組んで大衆伝道にあたりました。1873年イギリスに渡り、2年間各地で伝道集会を開きました。ロンドンでは4ヶ月のあいだに200万人が集会に出席したそうです。帰国後ボストン、フィラデルフィアをはじめ遠くサンフランシスコにまで足を延ばし伝道集会を開きました。
1873年に出版された「サンキ、ムーデイー聖歌集」は多くの教会で愛用されました。
1879年、ノースフィールド女子神学校を、1881年にはマウント・ハーモン聖書学校を設立しました。1886年には現在のムーデイー聖書学院の前身となったシカゴ伝道協会を設立しました。
ノースフィールドで万国博覧会が開かれた時、伝道の機会だと、ムーデイーたちはサーカスの興行者に持ちかけて日曜日の午前だけテントを貸してもらい礼拝をしました。午前のムーデイーたちの集会の方が午後のサーカス興行よりも大入り満員で、終わりのころは日曜日の礼拝に10万を越える会衆が集まったそうです。
ある集会で赤ん坊が泣き出し、周りの人たちは白い目で母親をにらみつけました。ムーデイーは「そのままそこにいなさい」と母親に言い、説教を続け、集会の最後に「明日の午後、赤ん坊づれの母親のための集会をしよう。赤ん坊をつれていない人は入れないことにして。」と案内しました。あくる日、集会に出席したくて、よその家の赤ん坊を借りてやってきた婦人もいた、というエピソードも残っているそうです。
1899年11月カンザスシテイーの伝道集会で1万5千人を収容し6回の集会を持ち11月16日の集会が最後となりました。最後の説教箇所はルカによる福音書14章16〜24節でした。1899年12月22日、62歳で召されました。
賛美歌136番 2004年6月27日
作詞者はクレルヴォーのベルナールと言われていますが、近年はアルヌルフ・フォン・ローエンという説も有力視されているそうです。ローエンについては、クレルヴォーのベルナールの流れを汲む13世紀の修道士、ということしかわからないそうです。
もともと長い詩で、その第7番目にあたる箇所を訳したのがこの賛美歌だそうです。
訳者はパウル・ゲルハルトという方でドイツ語に訳しました。邦訳者は由木 康氏。
作曲者はハンス・レオ・ハスラーという方で、1564年ドイツ南部のニュールンベルクに生まれました。お父さんがオルガニストでしたので、お父さんから音楽教育を受けました。20歳のときイタリアに行き、有名な音楽家アンドレーア・ガブリエーリに学びました。オルガニストをつとめながら作曲に専念し、有名な作曲集が続々と出版されました。1608年ドレスデンの礼拝堂オルガニストになりました。1612年皇帝の即位式に列席のため選定侯ゲオルク1世に随行中フランクフルトで客死しました。器楽曲や声楽曲等を多数残し、当時ドイツにおける第一流の作曲家と仰がれました。
この曲ははじめ恋愛の歌として作曲されました。やがて教会音楽家ヨーハン・クリューガーが編集した曲集に、この美しい旋律が発表されました。ドイツのコラール(宗教改革後のルター派教会の賛美歌)の旋律がしばしば民謡などからとられたように、この曲は、受難コラールの王座を占めるようになり、多くの作曲家が編曲などをしました。なかでもバッハはこの曲を愛し大作「マタイ受難曲」で5回もこの旋律を用いているそうです。ドイツだけでなく他の国々にも広がり「PASSION CHORALE」という曲名で多くの讃美歌集に収められています。
「讃美歌略解」等より
賛美歌315番 2004年8月22日
作詞者はヒュー・ストウエルという方で1799年に生まれました。イギリス国教会の聖職者として奉仕しました。有名な説教家であるとともに、日曜学校の働きにも熱心でした。数巻の著書があり、その中には34篇の賛美歌が含まれているそうです。この賛美歌は1827年に発表されました。それ以来多数の歌集に収められ、愛唱されています。
作曲者はトマス・ヘイステイングズという方です。ヘイステイングズがヒュー・ストウエルの詩のために作曲しました。曲は1842年に発表されました。
ヘイステイングズは1784年アメリカに医師の子供として生まれ、12歳の頃両親と共にニューヨーク州のクリントンに移りました。次第に独学で音楽を学ぶと共に、強い信仰生活に入りました。18歳の頃、村の聖歌隊のリーダーになりました。この頃から讃美歌集の編集をはじめました。やがて音楽誌の編集者として勤務。彼にとって賛美歌による福音宣教の機会となり貴重な経験でした。その後も宗教音楽に関する出版事業をなし、1858年ニューヨーク大学は彼に音楽博士の学位を贈りました。
彼が書いた賛美歌は600、作曲は1000曲を数えるそうです。ニューヨークに住んでいた40年間に50種類にのぼる讃美歌集、歌曲集を世に送り出し、米国賛美歌史上ロウエル・メイスンと並んで重要な役割を果たしました。 「讃美歌略解」より