市川副牧師 コラム集(9)
ここに愛が 2002年10月27日
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子(イエス・キリスト)をおつかわしになった。ここに愛がある。」ヨハネの第一の手紙4章10節
みなさんは「神様がわたしを愛して、心にかけていてくださるというけれど、どのようにしてそれがわかるのでしょう。わたしには全然わかりません。」とお思いになるかもしれません。
日曜学校のこどもたちの歌にこんな歌があります。
ある日 イエスさまに聞いてみたんだ
どれくらいぼくを愛してるの?
これくらいかな?これくらいかな?…
ある日 イエスさまは答えてくれた
しずかに両手を広げて
その手のひらに釘を打たれて
十字架にかかってくださった
それは ぼくの罪のため
ごめんね ありがとう イエスさま
「両手いっぱいの愛」というこの歌は、こどもの視線でイエスさまに感謝をささげています。イエスさまの愛がとてもよくわかる歌詞です。
聖書のお言葉にあるように、イエスさまは、わたしたちの罪のために十字架についてくださいました。そこに神様の愛、イエスさまの愛が凝縮されて現されているのです。どうぞ、あなたも続いて教会においでください。そして神様の愛、イエスさまの愛をお知りになってください。
賛美歌324番 2002年11月24日
作詞者ヘンリ・コリンズという方は1827年に英国に生まれました。オックスフォードで学び国教会の聖職者となりました。この歌はその頃のものだそうです。
曲の出所は明らかでないようです。
「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。」
コリント人への第一の手紙、1章9節
英国の大説教家スポルジョンが救われたのは、少年のころでした。いつも町の教会に行っていました。しかし、ある日曜日、大雪が降り町の教会に行けなくなりましたので途中の小さな教会に出席しました。会堂には何人かの人が集っていました。
今朝、説教をするはずの牧師は深い雪のため来ることができませんでした。そこで、ひとりの長老がイザヤ書の御言葉から説教をしました。このお言葉はスポルジョンの心に迫り、彼は、十字架で死んでくださったキリストを信仰によって仰ぎ、救われました。この時の聖句は「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎ望め、そうすれば救われる」イザヤ書45章22節でした。
やがて彼は、英国、そして世界に福音を伝え、多くの書物を著しました。彼は、キリストとの交わりに入れられ、幸いな、そして力に溢れた生活に招き入れられたのです。神様は今も、キリストによる救いにひとりひとりを招き続けていらっしゃいます。
賛美歌288番 2003年1月26日
作詞者はジョン・ヘンリー・ニューマンという方で、彼の代表作の一つだそうです。ロンドンの銀行家の子として生れ、オクスフォードに学び、後に同学内の聖メアリ教会の牧師に任じられました。あるとき、彼がシチリア島に赴き、そこで病気になり、今後の見通しもつかず心身共に打ちひしがれた経験をしたそうです。そのような暗い現実の中から、導きの光を求める、この祈りの詩が生れたそうです。最初「信仰による天来の導き」と題して発表されました。
作曲者はジョン・B・ダイクスという方です。英国に生れ、祖父は牧師、父は銀行家でした。後に「音楽博士」の学位を受け、300近い賛美歌を作曲したそうです。この賛美歌の曲は決してやさしいとはいえないにもかかわらず、多くの人に愛唱されているようです。マキンレー米大統領の埋葬の日、葬送行進曲として聖歌隊が歌ったのがこの賛美歌だったということです。
「讃美歌略解」より
賛美歌217番 2003年5月25日
この賛美歌は「基督教聖歌集」から明治版「讃美歌」さらに昭和版「讃美歌」に編入された歌だそうです。
作詞者は永井えい子という方で、1866年(慶応2年)に生まれ、幼少から書、文学、和歌に親しんだということです。明治8年頃、東京の救世学校(青山女学院の前身)に学び、17歳のとき、デヴィスンという方を助けて「基督教聖歌集」に収める歌を作ったり訳したりしました。また、ホルブルックという方を助けて、四谷あたりで伝道活動をしたそうです。明治16年、女子高等師範学校助教授となり、のちに毎日新聞記者となりました。明治35年アメリカに渡り講演活動とともに日本の詩文を公にしました。のちにパシフィック大学から学位を授けられました。
この歌は1884年に公にされたもので、作詞者17、8歳の時の作だそうです。
作曲者はジョン・H・マクノートンという方です。1829年生まれですが国籍も、どのような方だったかもわからないそうです。
しかし、この曲は明治時代に米国宣教師が日本伝道用に持参した伝道用福音唱歌なので、作曲者はおそらく米国人だろうと推定されるそうです。日本では明治時代から広く親しまれてきた曲です。
「讃美歌略解」より