館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(43) 「希望のダイヤル原稿」から

 道の光 2005年10月2日、09日

 旧約聖書、詩篇119篇105節に
 「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」と記してあります。"神の言葉、すなわち聖書は、道を歩く時、道を照らし、足もとを明るくする懐中電灯のようなものです"という意味です。
 暗い道を歩く時にともしびがなければ、どこでつまずくか、どこで穴におちるか、どこで道に迷うかわかりません。とても危険です。
 ところが私たちの日々の生活、あるいは人生というものも、道を歩くようなもので、つまずきも、おとし穴も、迷い道もあります。とても危険なのです。
 しかし、神様に祈りながら日々聖書を読んでおりますと、聖書は私たちの心と生活を照らし、私たちの生活と人生を導いてくれるのです。つまずきころぶことがないように、誘惑の落し穴におちることがないように、また罪悪の道に迷いこむことがないように守ってくれます。また、淋しい時、ゆきづまった時、困難な時、迷う時にも、私たちの心を、希望と、なぐさめと、喜びにみたし、神の祝福と力で守ってくれます。

 最初のクリスマスキャロル 2005年12月4日、11日

 今から二千年前、キリストがマリヤを母としてベツレヘムの馬小屋でお生まれになった夜、近くの野原で羊飼いたちが徹夜で羊の番をしていました。星も氷るような寒い夜だったでしょう。ところが急にあたりが昼のように明るくなったと思うと雪のように白い衣をきて、力強い羽をたたみ、輝く顔をした天の使いが立ちました。羊飼いたちはびっくりして恐れていますと、天の使いは言いました。「恐れるな。全世界の大きな喜びのメッセージです。今日ベツレヘムに救主がお生まれになった。このかたこそ主キリストです。このかたは、布にくるまってかいば桶の中にねかされています。それがあなたがたに与えられたしるしです。」するとたちまち野にも山にも、何千という、ろうそくをともしたように、天使の軍勢があらわれ最初のクリスマスのさんびかを歌いました。
 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」 
  そこで羊飼いたちは大急ぎでベツレヘムに行って赤ちゃんの救い主、イエス・キリストを礼拝しました。これらはルカによる福音書2章に書いてあります。
 さて天の使いは、なぜ、救い主のご誕生を名もなく貧しい労働者の羊飼いに、第一番に知らせたのでしょう。それは彼らが単純、率直、謙遜で正直な人たちだったからでしょう。
 キリストもあとで、マタイによる福音書11章でおっしゃいました。「天地の主なる父は、これらのことを知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」と。わずかな知恵、学識、富や地位に誇る者は、キリストの恵みを受けることはできません。どんな人でも、人間同士の関係ならいざ知らず、神様の前に出る時は、幼な子のようでなければなりません。そうではありませんか。

 第22代大統領< 2006年1月1日

 新しい年、ゆたかな祝福をお祈り致します。新約聖書コリント人への第二の手紙5章17節には「だれでもキリストにあるならば(キリストを信じるなら)、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」という言葉があります。アメリカ  第22代大統領、クリーブランドは熱心なクリスチャンでした。しかし少年時代は仕方のない不良少年でした。母親は心配のあまり死んでしまいました。
 ある時、友達と二人で遊びに行こうとして教会の前を通りかかりました。そこに「罪の支払う報酬は死である」と聖書の言葉が出してありました。それを見てふとクリーブランドは考えました。そして言いました。「君、ここに“罪の支払う報酬は死である”と書いてあるがそれは本当だ。現に僕のお母さんなどは、僕のでたらめな生活がもとで死んでしまったのだ。君、一度入って話を聞いてみようじゃないか」「バカを言え。ムリをして金をこしらえて来たのは、遊ぶためだ。こんなキリストの話なんかを聞くためじゃない。俺はイヤだ」二人は喧嘩になって、友達はクリーブランドをけり倒して行ってしまいました。しかしクリーブランドはその夜、教会でキリストのお話を聞いて深く信じ、クリスチャンになりました。それから全く人物が変わって高校から大学を出て弁護士となり、45才でニューヨーク州会議員、57才でアメリカ第22代大統領となり、更にもう一度、第24代大統領に当選したのです。
 その再選の日に、ある刑務所で一人の囚人の死刑が執行されようとしていました。「最後に言いたいことはないか」「今日当選した大統領は誰ですか」「号外を持ってきて見せてやろう」号外を見ると、この死刑囚は激しく泣き出しました。「彼は私の友達で、二人ともろくな事はやっていなかったのです。私もあの時教会に行っていたら、こんな事にはならなかったろうに」   良い出発はいつでも大切ですね。

 幸福な人 2006年1月8日、2月19日

 旧約聖書詩篇第1篇は、“幸福な人”というのがそのテーマです。  読んでみましょう。
 「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。」   ということです。
 一人の人がいて、この人が悪い相談や計画に仲間入りをしているのを見たことがない。この道を行けば悪いところがあるという、そんな道に、この人が立っているのを見たことがない。またこの人が、酔っ払いの仲間、下品な歌や騒ぎ、あるいは人のかげ口や、うわさ話の仲間、そういう仲間に入って一緒に騒いでいるのを見たことがない、そういう人がいます。
 聖書はこういう人は幸福だと言っています。
 そういう低級なことの嫌いなこの人は、何がすきかというと、聖書がすきです。“主のおきて”とは、聖書のことなのです。自分ひとりでも聖書を読む。教会で聖書のお話を聞く。聖書を読み、信じる人たちに友達が多い。まあ平たく言えばクリスチャンのことです。
 “昼も夜もそのおきてを思う”というのは、お互いの生活に楽しく元気のよい昼もあるし、淋しく暗く、不幸な夜もある。これはやむを得ませんが、クリスチャンはそういう時でも、心の中に聖書の教えがある。聖書の中に記されている神の慰め、励ましを心に噛みしめる。そういうことですから、たしかに幸福な人ですね。
 リンカーン大統領は10歳の時にお母さんが亡くなりました。お母さんのナンシーはその時“私はおまえがどんな偉い人になるよりも、聖書をよく読んで、その教えのとおり生きてほしいのです。”と一冊の聖書をリンカーンに残して亡くなったのです。リンカーンは一生聖書を愛読していました。16代大統領になったとき、“私が今このように生きているのは、母から頂いたこの聖書のおかげです”と言いました。どうぞあなたも聖書を読んでください。
 聖書を読み、神様を信じ、神様に従っている人は、外見ではわかりませんが、その心の根を深く、神様の祝福の中におろしているのです。神様の恵みを汲みあげているのです。私たちの住む社会も、人生も、荒涼とした砂漠のようですが、神様の恵みによって「オアシス」のように幸福に潤った生活、家庭、また人生を送ることができます。
 苦しい時や、つらい時にもその葉がしおれかえってしまうことはない。また実りのない、空虚な生活でなく、実り多き、充実した人生を送るのです。
 有名なへレン・ケラーのような人は目も見えず、耳も聞こえず、口も聞けず、生ける屍のような人です。しかし彼女は聖書を読み、神を信じ、立派な人生を送りました。しばしば彼女は、自分の生活は幸福であると言い、光明に溢れた人生だと言っていました。彼女の生涯も神の恵みによってその葉はしぼまず、多くの実を結ぶ人生だったのです。
 もし皆さんの中で、私の青春は空しい、私の生活は空虚だ、実りなき人生だと感ずる人がいたら、聖書を読んでください。教会の集会にもおいでください。