館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(32) 「希望のダイヤル原稿」から

 やきもち 2003年7月6日

 コリント人への第一の手紙13章に、本当の愛が持っている、14の性格が出ています。よくこの教えを学ぶならば、本当の愛をそだてるとともに、人を堕落させるような、危険な愛を見分けることもできるでしょう。
 第一は「愛は寛容である」ということでしたが、第二は「愛は情深い」第三は「またねたむことをしない」と書いてあります。私たちはいつも二種類の人とつき合います。長い間には人生の境遇も心持ちも変わってゆくにしても、とにかく今、気の毒な不幸な人か、あるいは今、幸福でうらやましいような人、の二種類です。愛は不幸な人に対する情深い心と態度にあらわれるでしょう。とにかく自分が不幸なのと同じように感じます。これが同情です。そして自分のことのように、その不幸に耐え、あるいは不幸を切り抜けるために真剣になります。だから一生懸命なぐさめ励まそうとする。また助けようとします。
 何をする力がなくても、心から一緒に泣いてくれる友だち、理解して同じ気持ちになってくれる友だちは、うれしいものです。「私は決して孤独ではない」という自覚は、人の心に大きな力を与えるものです。
 それはあなたに、人を助けるだけの実力があるか、という問題でなく、あなたに愛があるか、という問題です。
 次に「またねたむことをしない」ということですが、私たちはその反対の幸福な人に対してはどうでしょうか。自分のことのように、心から喜びながら、その人の幸福な話、嬉しい話を聞いてあげられるでしょうか。
 実はこれはとても難しいので、私たちの心は素直になれず、嫉妬に苦しむのではないでしょうか。むしろ気の毒な人に同情する方がやさしいと思います。その場合は、私たちの自尊心、優越感はむしろ満足しますが、幸福な人の前では、それがそこなわれるような気がするからです。
 ですから、愛ということは簡単に言い出しますが、深い反省と祈りによらなければ、全うされることができない、尊い深いものだと思す。

 心の中のガン 2003年7月13日

 新約聖書コリント人への第一の手紙13章は「愛の章」として有名です。
 そこに「愛はねたむことをしない」と書いてあります。「ひとがごちそうを食べているのを見ると、自分の空腹がよけいにこたえる」というのも人情で、私たちの自然の感情では、やきもちが焼けて、人の幸福を素直に喜べないところがあって、自分でももてあますことが多いのが正直なところです。
 反対に、自分が幸福であり、自分が優れているという場合には、自慢をしたくなる、見せびらかしたい、というのがこれまた人情で、もし相手が淋しい立場の人であっても、そんなことはかまっていられないのです。
 愛の教えの次のところに「愛は高ぶらない、誇らない」と書いてあるのですが、もしここに一人の人がいて、人の幸福をねたまないで、反対に自分の優越を決して高ぶり誇ることがないとしたら、これこそ愛の人であると言えるのです。
案外人間関係の難しさは、隠れた、あるいは露骨な、高ぶりと嫉妬の衝突にあるのではないでしょうか。またこれはいろいろな犯罪のエネルギーにもなっているのです。
 嫉妬と高ぶりのない人はりっぱです。またその二つがなければ家庭でも会社でも、どんなに幸福で万事がスムースにゆくことでしょうか。この二つはガンよりも深刻な人間の病気であり、ガンよりも治しにくいのです。そういう根本的な問題をそのままにしておいて、流行歌手がどんなに愛を歌っても、小説家がどんなに愛を描いても、また様々な愛にあこがれてみても、どうもそらぞらしく、むなしい感じを禁じえません。
 私たちが聖書から勉強するのはまずそのことです。病気を見つけなければ治せません。自動車でも、故障の原因をつきとめなければ修理はできないのです。私たちが愛の欠乏に気が付き、反省し、祈りながら自分をととのえることをはじめるとき、神様は祈りに答え、私たちを助けてくださるので、私たちもだんだん本当の愛を経験するようになるのです。

 利益と愛 2003年8月3日、10日

  何回かにわたって、コリント人への第一の手紙13章から、本当の愛についてお話しています。歌謡曲でもテレビドラマでも、よく愛がテーマになりますが、中には愛とも呼べないような低級なものもあり、また人を堕落させ家庭を破壊するようなものもありますから、聖書から本当の愛を学ぶことは大切です。
 ここに本当の愛の性格が14あげてある、その6番目に「愛は不作法をしない」とあります。別の言葉で言えば「愛は人を礼儀正しい人にする」ということでしょう。人に嫌な、不愉快な思いをさせたくない、人に迷惑をかけたくない、という心づかいは、愛の一つのあらわれでしょう。その結果は、無理な、窮屈なことでなく、自然に礼儀正しい人、いつも人に好感を与える人になってゆくでしょう。
 その次は「愛は自分の利益を求めない」とあります。結論的には自分に得がゆくように、相手が損をするように、という態度だったら、これは取引関係で、愛の関係ではありません。お母さんは、おいしいものを自分は食べないで子供に取っておきます。そして子供がおいしそうに食べているのを見て、自分が食べるよりも幸福そうにしています。これが愛です。
 その次の「愛はいらだたない」というのはどういうことでしょうか。時には他の人が都合よく利益を取ってしまって、自分には不利益ばかりまわっくるという場合があるかも知れません。そういう時に怒ったり、いら立ったりしないことで、それなら利他主義も本当です。
 二宮尊徳は言っています。「お風呂に入っている人が、どんなに湯水を自分の方にかきよせようとしても、反対に人の方に押しやろうとしても、湯水は人の思うようでなく、いつも公平を保っている。人間も天の配剤ということを考えて、あまりあくせく欲ばらないが良い」と。愛は結局はすべての人の祝福に結びつくことは不思議な事実だと思います。

 よい木、よい実、よい人生 2003年9月7日

 一つの聖書の言葉をご紹介します。
 「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」 マタイによる福音書7章17節
  これはわかりきったような事ですが、ちょっと考えてください。私たちの人生を木にたとえると私たちはどんな実を結んでいるでしょうか。
 ある人は「自分の生活は実を結ぶことがない。むなしい生活だ。生きてゆくことさえむなしい」と、そう感じている人は沢山います。
 それではつまらないので、酒を飲む。快楽をあさる。オートバイをとばす。麻薬と、次々と刺激を求める。これが結局、悪い実を結ぶ人生ということになります。
 しかし解決法は実の評価やせんさくにあるのではありません。悪い木の状態では、悪い実を結ぶのをどうすることもできません。自分自身が良い木になるなら、自然に良い実が結ばれている。これが聖書の教えです。そして、お化粧のように、着物を着るように、うわべから飾り立てるのでなく、神様の力によって人間そのものを変えていただき、救っていただくように、これが聖書のすすめです。