館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(26) 「希望のダイヤル原稿」から

 幸福の土台 2002年5月5日

 キリストがヨハネによる福音書14章で、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と教えてくださったのは、実はキリストが十字架にかかる前の晩のことでした。キリストに反対し、キリストを憎む人たちの運動の結果、キリストが逃げ出すか、今まで教えて来たことを取り消すかしない限り、明日は十字架にかけられて殺されるのは、もう決定的でした。そこで集まって来た弟子たちは恐怖と悲しさで震え上がっていて、それこそ、彼らの心は「騒いでいた」のでした。しかし、当の本人のキリストの心は、動揺もしないし、騒いでもいませんでした。平安そのものでした。だから弟子たちに、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と教えることができたのです。
 この時のキリストの心の平安は本当に素晴らしいと思います。心の平安は、いつでも、誰にとっても大切なものです。心が騒ぎ、怒ったり、ビクビクしたり、クヨクヨしたり、イライラして、心の平安がそこなわれた状態では、何を見ても楽しくなく、何を食べてもおいしくなく、どんな上等のベッドでも眠れず、まずそこには決して幸福はありません。
 聖書の中の「平安」という言葉は、ある場合には「健康」と訳します。たしかに体の平安は健康で、反対に違和不調は病気です。家庭はどうでしょう。どんなに立派な家に住んで、贅沢に暮らしていても、家中喧嘩したりもめていたのでは、そこに幸福はありません。聖書にも「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」すなわち、けんかしながらごちそうを食べる食卓よりも、仲良く一切れのパンを食べている食卓の方が幸福だ、と書いてあります。
 本当に平安は目に見えない人生の宝です。目に見えない幸福の土台です。私たちが、何かあっても心を騒がせず、平安でいられる、その秘訣は何でしょう。

 電車と子供 2002年5月12日

 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」とキリストは教えて下さいましたが、これは「クヨクヨ、ビクビク、イライラしないで、平安な心を持ち続けなさい」ということです。別のところで「わたしの平安をあなたがたに与える。」とおっしゃったのも同じ意味です。キリストは我々の心の平安のために「神とキリストを信じなさい」と言っていますが、本当に神様を信じ、お祈りの生活に入る時に、我々の心は平安に守られるのです。
 ある人が電車に乗っていると、前に小さなこどもが腰かけています。一人きりのようですが恐れもしないで、絵本を読んだり、お菓子を食べたりして、落ち着いています。電車が止まると、きっと窓をあげて手を振って誰かに合図をしてニコニコしています。「坊や、一人っきりで電車に乗っているの」「うん、そうだよ」「こわくないの」「こわくないよ」「淋しくないの」「淋しくなんかないさ」「えらいね」「うん、でもこの電車はお父さんが運転しているんだもの。電車が止まると窓をあけて、僕とお父さんは手を振って合図をするんだ」「どこまで行くの」「○○だよ。今度は駅までおじいさんが迎えに来ているんだ」本当にそうでした。目的の駅にはちゃんとおじいさんが迎えに来ていましたから、こどもは嬉しそうにおじいさんに飛びついて行きました。
 神様のことを「天のお父様」と言います。我々の人生も、天のお父様が、責任と愛を持って導いて下さるのです。我々が聖書を読み、お祈りするのは、あの子供が手を振ってお父さんと合図を交わすのと似ています。ともすれば人生の旅行で、恐れや不安を感じがちな我々も「神を信じ、キリストを信ずる」ことによって、心を平安に守って頂くことができるのです。

 宇宙船地球号 2002年6月9日

 聖書は66冊の書から成り立っています。そして、旧約聖書と新約聖書に別れています。その一番最初にあるのが、創世記という聖書です。そこには、神様が天地万物、また人間をお造りになったという真理が記されています。それと共に、人間が罪を犯し、神を離れ、堕落していくお話が書いてあります。それ以来、人間は神にそむき、神を無視した、しかも罪の多い生活に入りました。その状態で子孫が増え、言わば世界を自分勝手に占領してしまったような具合になっています。私たちもまた、その神を離れた罪深い人間のひとりとして生まれてきたのです。
 地球は大きな宇宙船のようなものです。言わば「宇宙船地球号」です。どんな宇宙船でも乗っている人たちがそれを占領して、基地から自分を切り放して、指令も受けない、補給も受けない、修理も受けない、そういう状態で無限に飛び続けることができるでしょうか。いいえ。その宇宙船には終り、終末がきます。同じように、この地球にも終末が近づきつつあります。食糧、資源、自然界汚染の問題、核戦争、人間の道徳の低下、犯罪の増加。どれをとっても私たちに地球の終末の近いことを、神の裁きの近いことを示しているのです。
 聖書の一番おしまいにヨハネの黙示録という聖書がありますが、これは、世界の終末と、神の人に対する裁き、その後に出現する新しい神の国について記した予言の書です。私たちにはとても興味があります。しかしそれだけではありません。神に逆らっている自分の罪、不道徳、不信仰の罪を悔い改め、キリストの十字架を信じ、従う生活をしている者に対しては、確かな救いの約束も記されているのです。私たちにとって聖書は、興味深いものとともに、大切なものなのです。聖書は権威ある神のみことばです。
 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」
   マタイによる福音書24章35節
 あなたもぜひ聖書を読んで下さい。

 ふたりの大学生 2002年7月7日

 昔、ある海岸で二人の大学生がボ−ト漕ぎを始めました。その一人は後の有名な法学博士、和田桓謙三氏でした。
 大分沖へ出たところで大波を食って、ボ−トが転覆してしまいました。和田桓さんは全然泳げないので、泳ぎ自慢の友だちが和田桓を背負って一生懸命泳ぎましたが、やがて疲れて溺れそうになりました。
 そこで友達が「おい、もうダメだ。ここで前途ある大学生が二人とも土左衛門になるのも惜しい。お前は諦めろ。俺一人なら何とか助かるから」といいました。
 和田桓さんもそうだと考えたので「わかった。今まで助けてくれてありがとう。それじゃさよなら」と手を離しました。その後友達は夢中になって泳いだのですが、途中で力尽きて気を失ってしまいました。
 それからどれだけたったか知らないが、しきりに名前を呼ばれて気がつくと、自分は寝床に寝かされています。
 なお驚いたことには、海の中に捨てた和田桓がチャンと着物を着て座っていて
 「ああ気がついたか、よかった」なんて言っています。
 その訳は、あの時和田桓は、どうせ死ぬのならジタバタしても仕方がないと覚悟して、思い切って手足を伸ばしてみると、足が着きました。いつかもう浅い所に来ていたのです。
 そこでザブザブ歩いて帰って来ました。風呂に入って夕飯を食べ、提灯を付けて海岸の方に行ってみると、気を失った友達が波に打ち上げられてのびていたので、宿屋まで背負って来てみんなで介抱したのでした。
 面白いお話ですね。新約聖書に「神はあなた方をかえりみていて下さるのであるから、自分の思い煩いを神にゆだねるがよい」とあります。あまりムリをして疲れるより、力以上のことは、お祈りして神様にまかせる方が、利口で幸福です。