小林前牧師 コラム集(42) 「希望のダイヤル原稿」から
感謝の気持ち 2005年7月3日
クリスチャンがお祈りする時は、"天のお父さま"といってお祈りを始めます。なぜかというと、キリストがそう教えてくださったのです。
お父さんは一家族に一人しかいませんから、家族同士では、「お父さん」と言えばわかるのです。大勢いれば、ちゃんと名前を呼んで区別しないと、皆が一度に返事をして混乱するでしょうが、一人ですからそういうことはありません。聖書の教えでは、本当の神様は一人しかいません。そうして世界中の人間は皆兄弟なのです。その兄弟がお父さんである神様をぬきにして付き合い始めたので、兄弟であるという意識もなくなり、今日のような、困った世の中になってしまったのでしょう。
さて、クリスチャンはお祈りの中で、よく神様に感謝します。聖書の中に"いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。"と書いてある通りです。神に感謝する。これは次第にあなたやあなたの性格を形作ってゆくでしょう。何にでも文句を言い、不平をならべ、感謝の気持ちで身辺を見なおすということができないのも、人のくせ、人の性格となります。反対にいつも感謝するのも人のくせ、人の性格となるのです。
戦争の間には、我々の先輩の牧師の中には逮捕されて刑務所の中の生活を経験をした人もいました。一人の牧師さんが刑務所の中で、最初の食事が出た時、それはとてもひどいものだったそうですが、この牧師さんはいつもの食事の時と同じように食事の感謝のお祈りをしました。「神様、今日まで私を守って下さったことを感謝いたします。私は思いがけなく刑務所に入りましたが、神様はきっと守って下さると信じます。今もこの食事をお与え下さって心から感謝いたします。」そうお祈りすると、このいわゆる臭い飯をおいしそうに一粒残らず食べてしまったそうです。そしたら、その様子をじっと見ていた前科何犯という刑務所なれした男がそばに来て「旦那、はじめてじゃござんせんね」と言ったそうです。この牧師さんは、終戦後無事刑務所から出られました。
お祈りの時には 2005年7月10日
お祈りの時には、まず「天のお父さま」と言って神様に呼びかけ、それから日々豊かに与えられている、神様の恵みについて思いめぐらして感謝をささげます。それから、罪の悔い改めをするという事が、お祈りの中の大切な部分です。
一体神様に祈ろうとする時には、きれいにならなければならない、ということは、世界中の人たちの常識です。日本でも、口をゆすいだり、手を洗ったり、場合によっては水ごり、みそぎをしたり、滝に打たれたりもするようです。しかし聖書は心と生活の罪を神様に悔い改めるように教えています。すなわち聖書に「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」サムエル記上、16章。また「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」詩篇51篇。と記してある通りです。
世界で一番発音しにくい言葉は何でしょうか。中国語でしょうか、ドイツ語でしょうか。実は次の言葉だそうです。I am wrong. You are
right.(私が悪かったのです。あなたは正しい。)という語だそうです。
ロシアの皇太子が、イギリスに招かれていった事があります。方々見学するうち、今日は刑務所を見学しました。刑務所長は記念に誰でも一人、囚人を許す、特赦する権利を、この皇太子に与えました。そこで皇太子がいろいろな囚人と話してみたのですが、いろいろな事情を説明したり、あるいは逆に他の人や社会などを批判する人が多いのに驚きました。「本当に私が悪かったのです。」と言ったのは、ただ一人だったので皇太子はその人を許しました。
この間も一人の学生が私のところに来て、「クリスチャンにならない時、つつじヶ丘公園に、入園料を払わず何回ももぐりこんだので、それを悔い改めた。そして弁済しようとしたが、誰も相手になってくれないので困る」と言っていました。私はこの学生と一緒に祈りました。ある人々はこの学生をバカだと思うでしょうね。しかし神様は大きな事でも、小さな事でも、罪を悔い改める心を、軽しめられる事なく、評価して下さるのです。
いろいろなお祈り 2005年8月7日
お祈りというのは、人間と神様のお話です。長い祈りも、短い祈りもあります。悲しい時、うれしい時、その祈りは様々です。学者の祈り、子供の祈り、いろいろあるでしょう。あるところに、いつも笑いながらお祈りするChristianがいました。「お祈りというものは、まじめなものなのに、笑いながら祈るのはよくない」と批評する人がいると、「だって私は、お祈りを始めるとうれしくって仕方がないのだから」と言って承知しなかったそうです。
さて人間には、こんなことになっては大変だという恐れと、こうなって欲しいという願いごとが沢山あります。それらが私たちのいわゆる物思いで、インドでは「人間というものは、一日に4億8千の物思いがある」などと言うそうです。
その中で人間は頑張ります。自分のため、家族のため、社会のために。しかしあらゆる恐ろしいことを排除し、あらゆる願望を実現するために、人間の知恵も力も足りないのです。それですから、人間の心は、クヨクヨ、ビクビク、イライラ、ヒヤヒヤ、傷つけられ、疲れきっています。
聖書は教えます。ムリをしないで、神様を信じなさい。神様にまかせなさい、と。よく考えてみると、人間は自分で生きているよりも、神様に生かされている。自分でやってゆくよりも、むしろ、神様の摂理、ご配剤の中に生かされている、という方が本当なのですから。それは丁度子供とお父さんの関係なのです。だからキリストは教えられたのです。「あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ」と。また、「天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存知である」と。これらの言葉は、マタイによる福音書6章に記されています。
ある牧師さんは子供に「万年筆がほしい」と言われた時、子供をつれてすぐお店に行かないで、タンスの前にゆきます。そこで、親子で祈るのです。そのあと、お金があればすぐお店に連れて行き、万年筆を買ってやるでしょう。もしお金がなければ毎日二人で祈るでしょう。私はこの子供は、お金持ちの子供よりも、幸福な人生を生きるための秘訣を学ぶと思いますがどうでしょうか。
ジレンマ 2005年8月14日、11月6日、11月13日
ある時、キリストがお話をしておられますと、そこへがやがや大勢の人が押しかけて来ました。何かと思いますと、そのころの宗教家、教師、法律家といったような人達です。一人の女の人を引き立てて来まして、キリストの前に引き据えると、キリストに質問をしました。"先生、この女は姦淫の現場でつかまえた女です。モーセは、こういう女は石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか"こういう質問でした。実はこの質問には、隠れたねらいがあるので、それは何かと言いますと、キリストはつねづね言っている。"丈夫な人には医者はいらない。医者を必要とするのは病人である。私が来たのも、正しい人のためではなく罪人を救うためである"と。そこで、この女を規則通り石で打ち殺せということになれば、"キリストがいつも言っているのは気休めだ、本当の現場ではキリストは罪人を救う事などできやしない。結局見殺しだ"と言いふらす種ができるというものです。
反対に、キリストが"この女を許してあげなさい"と言ったらどうでしょう。大体この当時のユダヤ人宗教家の考え方は、"正しい者には正しいむくい、悪い者には悪いむくいが必要だ。神様だってそうだ。正しい人は天国に入れて下さる。悪い人は地獄に落としなさる。地獄が恐ろしかったらよい事をしなさい。これが神様のみ心だ。この地上に関する限り、我々指導者は、神様にかわって罪人を罰するのだ。それによって罪の広がるのを食い止め、この世の正義を守るのだ"そういう考えにこりかたまっていました。ですから、日頃から、"病人のための医者。罪人を救うために、神からつかわされた救い主"と自分で言っているキリストに強い反感を持っていました。だから、キリストが"この女をゆるせ"と言えば、"キリストこそ神にさからう者、正義の敵だ、この世から善と悪のけじめをなくし、平気で皆が悪い事をするようにしてしまうのだ"と言いふらす事ができるのです。
どっちの返事をしてもやっつけられる。随分困った筈ですが、キリストは相手にならず地面に字を書いておられる。これはヨハネ福音書8章に出ている話ですが、内容は実に今日的な問題なのです。
キリストがお話をしているところへ、姦淫の現場でつかまえたという女を引きすえて、"規則通りこの女を石で打ち殺そうか。そうすれば、罪人を救う救い主だという、ふだんのお前の主張はうそになるぞ。許せと言うのか。それでは神と社会の正義はどうなる。正義と罪悪のけじめがなくなっても良いと言うのか"とユダヤ人の宗教家、教師らがキリストに返答を迫りました。言わばキリストをジレンマにおとそうというわけです。
キリストは地面にものを書きつづけて、相手にならなかったのですが、あまりしつこく言われるので仕方なくお顔をお上げになると、"あなた方の中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい"とおっしゃいました。そしてまた下を向いて地面にものを書いておられました。
さあどうでしょう。"よし俺が"と言って、この女に石を投げつける人がいたでしょうか。誰もいませんでした。
白いヒゲを生やし、独特の服装をした、立派な宗教家も、教師たちも、法律家もそこには大勢いたのです。野次馬もいました。少年もいたでしょう。彼らは顔を見合わせて黙っていました。
訴える人たちが立ち去った後、キリストの前に一人残された婦人。この婦人は今まで大勢の人々から、恥ずかしい姦淫の罪をあばき立てられ、言い立てられ、刑罰として石で打ち殺される直前までいったのですが、キリストによって救われたのでした。キリストが一言"あなた方の中で罪のない人が、まず石を投げなさい"と言った時、あれだけひどく女を攻めていた人々が、良心に目覚め、一人去り、二人去りして、誰もいなくなってしまったのでした。
キリストは身を起こしておっしゃいました。"女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか"女は言いました。"主よ、誰もいません"キリストは言いました。"私もあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないようにしなさい"
涙のこぼれるような話ではありませんか。
キリストこそ、本当に罪人の救い主でした。そして、さんざん罪をあばき立てられ、もう罪をかくす気持ちのない、くだかれきった女こそ、キリストを信じ、キリストの救いを受ける事ができたのでした。反対に、いばりくさって、自分の罪を悔い改める事をしない、宗教家、教師、法律家たちは、キリストの前に立つ事さえできなかったのです。
この女はその後一体どうなったでしょう。一体ユダヤでは姦淫の事実などがあれば、もう真面目な、ちゃんとした人と結婚する事もできません。ちゃんとした仕事につく事もできません。一種の前科者で、だんだん落ちぶれてゆく以外はありませんでした。しかし、キリストを信じ、キリストに頼り、キリストと共に生きるならば、この女も、全く新しい人生に、再び出発することが出来たのです。
この出来事を見ていた人は大勢いたのです。最初キリストは大勢の人にお話をしていたのですから、そこへあの連中が無遠慮にも割りこんで来たのですから。
今再び静かになったところで、キリストはお話を始めましたが“わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。”キリストは本当に光です。あの宗教家たちの眠っていた良心を照らして目覚めさせました。罪を犯した女は、救いの光を見いだしました。この女の一生、キリストは光として、この女を導いてくれたでしょう。このキリストの約束は、私にも、あなたにも、あてはまるのです。このお話は、ヨハネ福音書8章にあります。