館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(34) 「希望のダイヤル原稿」から

 一箱のマッチ 2003年11月9日

 さて、私たちがお祈りするには、どんなふうに祈ったら良いでしょうか。
 キリストは次のように教えて下さいました。
 「あなた方はこう祈りなさい。天にいますわれらの父よ」
 つまり、本当の神様は、天地万物を造り、私たち人間をも造り、またいつも私たちを守り養っていて下さるのですから、すべての人のお父様なのです。ですから祈りの時にはまず、「天のお父様」とお呼びするのです。
 キリスト教では、神様のお名前というものはありません。なぜなら、私たちにとって、本当の神様は一人しかいらっしゃらないからです。
 家族がお父さんのことを話し合う時には、「うちのお父さんが」と言えばわかります。世間の人はお父さんの名前を使うでしょう。でも家族の中では、お父さんは一人ですから、ただ「お父さん」と言えば良いので、特別に名前を呼ぶ必要はないのです。
 お祈りは、この天のお父様と、神の子供である私たちとの会話です。きまった形式も、きまり文句もありません。子供は子供のように、学者は学者のように、忙しい時の短い祈り、切迫した時の神に対する叫び、嬉しい時の感謝、いろいろ自由である筈です。
 さて私たちはお祈りの中で、まず神様に感謝をささげましょう。全然神様に感謝することなく、不満を抱いて生活しているのは、人間の根本的な罪といっても良いのです。
 暗やみで物をなくした人がいました。親切なクリスチャンが、むかしのことですから、マッチをすって照らしながら、一緒にさがして上げました。マッチが燃えつきると次のマッチをすって、とうとう一箱近いマッチをもやして、やっとなくした物が見つかりました。この人は、クリスチャンの親切に対して、涙を流さんばかりにお礼を言いました。
 その時クリスチャンは考えました。「一箱のマッチのためにこんなに感謝するこの人は、毎日私たちのために太陽を上らせて下さる神様には、感謝をしないのだろうか」と。

 東方の博士たち 2003年12月7日

 キリストがベツレヘムの馬小屋に生まれたその晩、天使の知らせを聞いた、貧しい羊飼いたちが赤ちゃんのキリストを礼拝に来た話は、以前お話しましたが、一ケ月半ばかりたちますと、今度ははるか東の方、ペルシャの方から、三人の偉い博士が、はるばる砂漠の大旅行をして、同じように赤ちゃんのキリストを礼拝しに来た、という話が、新約聖書マタイによる福音書二章に書いてあります。
 月の砂漠をはるばると、王子様とお姫様でなく、年をとった偉い博士が、百頭以上の酪駝と、百人以上の家来を連れて、堂々とやって来たわけです。一帯ペルシャ地方は、人類の文明発祥地の一つで、文字、学問、文明は東から、という感じがあります。この博士たちは当時の世界で最高の知性の代表者、指導者、王者以上の王者といわれた人たちでした。
  この博士たちは当時の世界で最高の知性の代表者、指導者、王者以上の王者といわれた人たちでした。
 その人たちが聖書を読み、予言をしらべ、星を観測し、キリストの生まれたことを知って、それを確かめるため、礼拝するために、千里を遠しとせずやって来た真剣さには、心を打たれます。指導者の責任を持つ者は、人に先立って本当の道を求めるという点で、博士たちのようでありたいものです。お父さん、お母さんたちは子供たちから、先生は生徒から、医者は患者から、指導者として期待されているわけです。
 一人の子供が授業中に、机の中をのぞいているので、先生が行って見ると、女の人の写真がありました。聞いてみるとお母さんの写真だ相です。お母さんはお父さんとけんかして出て行ってしまいました。お父さんは怒っているから、お母さんの写真を入れておけるのは、学校の机しかないのでした。子供は話しながら泣いていますが、両親は子供の幸福を考えてけんかしたのだと言っている相です。この子供は、お父さん、お母さんが、安心して頼りにできるよい指導者であってほしいと心から願っていることでしょうね。

 一羽の小鳥 2004年1月4日

 大分前のことですが、私がお客様とお話していますと、その部屋に一羽の小鳥が飛び込んで来ました。口と足が赤くて、体の黄色い、きれいな鳥です。飼い鳥であると見えて、すぐ私につかまりました。
 私の家には籠がないので、ねずみ取りの金あみに入れました。そしてバラバラと米をまいてやりましたが、小鳥はおちつかず、私を恐れて、羽根をちらしながらとびまわっています。
 私は小鳥にむかって、こう話しかけたい気持ちでした。"こわがる事はない。決して私はお前をいじめない。ひもじければ食べさせてあげる。寒ければあたためてあげる。帰りたい所があればつれていってあげる。"しかし、私の気持ちも言葉も小鳥には通じません。
 その時私は考えました。もし私が本当に小鳥に話しかけて、小鳥を安心させたかったら、私が小鳥になってかごの中に入るしかないと。私は勿論それはいやです。まがりなりにも牧師です。目に一丁字なき、おろかな、はかない小鳥になるのはいやです。
 しかし、キリストはそれをしてくださったのです。新約聖書ヨハネによる福音書一章に「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」と書いてある通りです。また同じヨハネによる福音書の十四章でキリストが「わたしを見た者は、父を見たのである」とおっしゃった通りです。
 キリストはベツレヘムの馬小屋に生まれてから、十字架でお死になるまで、本当に愛と真実をもって、人間の中に生きられた神でした。我々はキリストを学ぶことによって、神を知り、神にまかせ、安心した生活に入るのです。ちょうど、あの小鳥に私の心がわかれば、きっともう安心して、決して間違いのない結末になったように。

 道の光 2004年1月11日

 旧約聖書、詩篇119篇105節に
 「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」と記してあります。"神の言葉、すなわち聖書は、道を歩く時、道を照らし、足もとを明るくする懐中電灯のようなものです"という意味です。
 暗い道を歩く時にともしびがなければ、どこでつまずくか、どこで穴におちるか、どこで道に迷うかわかりません。とても危険です。
 ところが私たちの日々の生活、あるいは人生というものも、道を歩くようなもので、つまずきも、おとし穴も、迷い道もあります。とても危険なのです。
 しかし、神様に祈りながら日々聖書を読んでおりますと、聖書は私たちの心と生活を照らし、私たちの生活と人生を導いてくれるのです。つまずきころぶことがないように、誘惑の落し穴におちることがないように、また罪悪の道に迷いこむことがないように守ってくれます。また、淋しい時、ゆきづまった時、困難な時、迷う時にも、私たちの心を、希望と、なぐさめと、喜びにみたし、神の祝福と力で守ってくれます。