館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(35) 「希望のダイヤル原稿」から

 いろいろな器 2004年2月1日

 今日は、新約聖書テモテへの第二の手紙、2章20節の言葉をご紹介しましょう。「大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる」
  ここに大きな家とは世界のこと、器というのは人間のことです。金銀の器のような、英雄天才、エリートもあるし、木や土のような凡人もあるわけです。自然天才は少なく凡人は多い。
 リンカーンは言っています。"神様はもともと凡人がおすきなのだ。だから凡人を大勢おつくりになったのだ"と。たしかにそうかもしれません。
 またそれとは別に、天才であっても凡人であっても、ノーブルな清潔な人となって、神のため、人のため役立つ一生を送る人もあり、反対に、低級不潔な一生を送り、まわりに迷惑をかけっ放しという人もいます。「あるものは尊いことに用いられ、あるものはいやしいことに用いられる」と今ご紹介した聖書に書いてあるのは、そういう意味でしょう。
 昔、ブラザー・ローレンスという人は、修道院の台所で働いていた、身分から言えば下級の聖職者でしたが、その神を敬い、神に従う美しい信仰と生活は、多くの人に感化を与え、教えを乞うために沢山の人が行列をつくり、時のフランス皇帝さえも、その台所を訪問された相です。
 私はあるクリスチャンの奥さんのお葬式をしたことがありますが、この奥さんは、病気がちで、いつも寝ていたのに、沢山の人が"よい話し相手をなくしてしまった"と悲しんだのです。ふつうだったら、自分が泣きごとを並べて、人から慰めや励ましを求める筈だったのに、この奥さんは、かえって、沢山の人の話し相手となり、みんなを慰めたり、励ましたりしていたのです。こういう人こそ、非凡なる凡人とでも言うべきでしょうか。ところが反対に、まるで金銀の器のようにエリートなのに、知恵のある限り、力のある限り、わるいことをして、人を困らせる場合もあるのです。聖書は私たちに、土でも金でも、とにかく尊いことに用いられる器となるように、教えているのです。

 幸福とは何か 2004年2月8日

  山上の垂訓というと、キリストのなさった数多い説教の中で、一番長く、一番立派で、一番有名なお話で、新約聖書のマタイによる福音書5章から7章にかけて記されています。
 キリストはこのお話を幸福論というものではじめられました。本当の幸福とは何かという問題です。
 誰でも、一人残らずの人が、幸福になりたいと望んでいますが、しかし本当の幸福とは何かというと、なかなかむずかしいのです。お金や財産は幸福の条件に違いありませんが、しかし金持ちでも、不幸な人、不幸な家族はいます。立派な家、ピアノ、自動車、ステレオ、文学全集、いろいろ考えますが、自分の幸福を、建築屋さんに頼んだり、デパートに電話をかけて取りよせるというものでもありますまい。
 では、本当の幸福はどこにあるかという問題に対して、キリストは七つの幸福をあげています。ほかの条件がどんなにそろっていても、これを欠くならば幸福ではない。反対に、よしんば、ほかの条件がいくらか欠けていても、これがあれば幸福だという、言わば、幸福の決め事みたいなものでしょう。
 その第一は「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」です。心の貧しい人というのは、"謙遜な人"という意味です。謙遜な人が集まっている。そこは天国のようです。傲慢な人が集まっている。そこは地獄のようになるのです。家族でも、学校でも、職場でも、社会でも、この原則は同じです。
 置いてある茶碗につまずいて、割ってしまったご主人が、「誰がこんなところに茶碗をおいたのだ」とどなると、出てきた奥さんは、「何言っているのよ。自分のおっちょこちょいを棚に上げて、どなりさえすればいいと思って」と言うでしょう。反対に、「あっ俺が不注意だった。わるいけど片付けてくれ」といえば、奥さんが「あっごめんなさい。うっかりそんなところにおいたものだから」というのとどっちが良いでしょう。それで子供たちの態度もきまってくるので、案外、これが、幸福と不幸のきめてなのかもしれませんね。

 悲しんでいる人 2004年3月7日

 キリストの数多い説教の中で、もっとも立派で、もっとも長くて、もっとも有名な「山の上の説教」。その説教の切り出し、序論は、これも有名なベアテイテュード、幸福論です。幸福な人を七人あげています。
 さて、キリストは幸福な人の第二番目に、どんな人をあげたでしょうか。「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」これは逆説のようですが、もし自分の中にも、家庭にも、社会にも悲しみの材料が全くなくなってしまうことがあれば、その時こそ「悲しまない人は幸せだ」と大いばりで言えるでしょうが、今はそういう時ではありません。悲しみの材料に満ちた時代です。そういう時に、悲しむことができないで、ただもうニコニコしている人がいたらどうでしょうか。昔からそういう人のことを「おめでたい人」と言いますが、これは決して、その人を誉めたわけではないでしょう。
 悲しむことのない人は、反省もしない。何とかしようとして立上がりもしない。ただ、いよいよボロがでるまで、虚勢をはって大きなことを言っている。心底から話し合うことができない。実は逃げを打っているのです。悲しみに直面するだけの勇気のない人。心にそれだけの用意のない人。キリストはそういう人を幸福な人だとはおっしゃらないし、私もそういう人を幸福な人だとは思いません。
 悲しむ事ができる人、そして、それを神にむかって祈ることのできる人、その人は神様から慰めを受けます。悲しい気持ちを持つというような事は、ないにこしたことはありませんが、それならば、神様の慰めを受けて頑張り、そこを切り抜け、それを手がかりとして問題を解決してゆく人こそ、本当に幸福な人なのです。
 しかも、悲しみもこれを生かすならば、大きな効用を持っています。謙遜、反省、努力、悲しむ人に対する思いやり、理解、人に幸福をもたらす人格の深みは、悲しい経験を通して得られるのです。「あの人は頼りになる人だ、何しろ苦労人だ。あの人はまだ駄目だ、何しろ苦労の経験がないから」私たちはいつも、そういう言葉を使っています。
 もう一度、キリストの言葉を聞いて下さい。マタイによる福音書5章4節
 「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」

 感情のスローモーション 2004年3月14日

 キリストの数多い説教の中で、最も有名な山上の垂訓。その中でこれまた最も有名なキリストの幸福論。マタイによる福音書の5章のはじめにあります。これは、本当に幸福な人とは誰かという問題で、キリストは、本当に幸福な人を七種類あげていますが、今日はその第三番目をお話しましょう。
 それは「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」という教えです。
 「柔和な人」とは、穏やかな、やわらかい、優しい人という意味です。昔インドに特別な宗教家がいて、ジャングルの中で猛獣に出会っても害を受けない。その秘訣をきかれると、「恐れない事と、柔和である事だ」と言った相ですが、本当に柔和は、あらゆる人間関係にとっても、最も大切な秘訣でありましょう。
 ある人は柔和とは「感情のスローモーションだ」と言います。元来人間の感情は、実際の事実よりも、よほど大げさに揺れ動くものです。それだけに、感情あってこそ人間はよほど豊かに、また華やかに、楽しく生活できるのです。嬉しいということ、楽しいということ、美しいものを見たり、聞いたり、感動したりするとき、または愛し愛されるとき、発奮して頑張るというときに、いかに我々の心と生活は、感情によって豊かにされ、助けられる事でしょう。
 しかし、逆に感情の激変によって、大失敗をすることも多い。怒りすぎる、とりかえしのつかない事を言う、くやしがる、悲観する、その時は頭に来てしまう。実際はわずかの事で、あとで落ちついてみると後悔するのですが、感情の制御、感情のスローモーションという事は、人間にとって苦手です。
 神様にお祈りして、魂に力を頂いて、柔和な人にして頂く。これも大切な幸福の秘訣です。
 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」ヨハネによる福音書14章1節。これもキリストの言葉です。