館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(27) 「希望のダイヤル原稿」から

 黒こげのケーキ 2002年7月14日、21日

 私たちクリスチャンが、聖書を読み、神様にお祈りする目的の一つは、神様に自分のよくないところを指摘していただいて、反省し、神様の助けによって、それを直していただき、少しでも自分自身を整えてゆきたい、そういう願いがあるからです。
 旧約聖書の中に「あなた方はまるで、火にかけたまま、裏返さないケーキのようだ」という言があります。昔は、オーブンなどはなかったから、ケーキをよく焼こうと思ったら、手まめに裏返して、裏表にまんべんなく火を通さなければなりませんでした。そうしないと、片面はまっ黒にこげて、反対の片面はまだ生だ、ということになるのです。
 幸田露伴は言っています。「短気軽率な人が、私は要するに正直なのだと言い、気むずかしく、しつこい人が私はすじを通すのだと言って反省しないようでは、人格の完成はむずかしい」と。それは丁度、片面だけこげたケーキのようです。
 旧約聖書にもう一つの話があります。エレミヤという人が、陶器つくりの職人の仕事を見ていました。形がよくできないと、何回でもつぶして、気に入ったのができるまでやり直しています。それは粘土がやわらかいので、やり直しがきくのです。もしへんてこな形のままで、乾いて堅くなってしまったら、どうでしょう。それはこわしてしまうより仕方がありません。
 エレミヤは言っています。人が神様のみ声を聞いて、謙遜に素直に反省すれば、その人は罪がゆるされ、その人の人格も生活も、神様のみ心にかなうように整えられてゆくでしょう。しかし、もし高ぶっていて、頑固ならば、神様にもやりようはなく、その人は最後には神の裁きを招くでしょう。
 自分を美しくすることは誰にも大切ですが、お化粧や服装だけでなく、人格のおしゃれも、非常に大切だと思います。

 お化粧の仕方 2002年8月4日

 テレビや新聞で、化粧品の広告が盛んですね。人間の顔は一番目立つ看板だとか、一番早い推薦書などと言われるくらいですから、男も女も、美しく魅力的な顔になりたいのは自然です。
 ロ−マ時代の女性は、色白になるために顔の皮をむいたり、痩せるために砂や灰を飲んだり、息が止まるほど体をしめつけたりした相だから、今の美容術より猛烈でした。
 しかし人間は365日、夜も昼も、お化粧をして、よそゆきの着物を着て、しゃなしゃなしてばかりはいられません。汗水流して働くこともある、泣くこともある。歯をくいしばることもある。そういう生活の中で出て来る美しさ、魅力というものは、また別です。お化粧よりもむしろ人格の美しさです。人間の顔は内面から彫刻される、というのも、そういう意味でしょう。
美しくなる秘訣は、よく顔を洗うことと、幸福になることだと言う人もいます。確かにボンヤリした人、下品なことばかり考えたりしゃべったりしている人、怒ったり、口惜しがったりばかりしている人と、おだやかで、やさしく、上品で、幸福な人とは、長い間には顔つきも変わってきますよ。
 リンカ−ンが、就職の相談に来た人をあっさり断ってしまったことがあります。その理由は顔が気に入らなかったということです。誰かが「顔は生まれつきのものだから仕方がない」と言うと「イヤ、人間は40以上になると、自分の顔に責任があるのだよ」と答えた相です。
 確かにそうかもしれません。あなたがクリスチャンになって、幸福な、清潔な、やさしい人になることは、あなたの美容につながりますよ。そして就職の時もきっと有利ですよ。
 今日の聖書「あなたがたは…外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである」
ペテロの第一の手紙3章3、4節

 みじめな人 2002年8月11日

 新約聖書ローマ人への手紙7章にこういう言葉があります。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」
 家が古ぼけていてみじめだ。友達なんか呼べやしない、という子供もいるし、こんな服装でゆくのはみじめだ、などとも言います。また何となく、自分がみじめに感じられて仕方がないようなこともありますね。
 でも、今の聖書の言葉は、まるで病院の一室から聞こえてくるようですね。「死のからだ」というと、もうすっかり病気で、治る見込みもなくなって、自分の体がもうアテにならない人のみじめさのようです。骨と皮ばかりに痩せてみっともない。もうイヤな臭いがしている。何というみじめな人間だろう。誰か助けてくれないかな、というようです。
 しかしこの言葉を書いたパウロという人は、実は元気な青年でした。エルサレムの大学を出て、ユダヤ人の教師指導者として張り切っていたのです。人格も学問も立派で人々の尊敬を集めていました。
 でもそれは表面のことで、夜おそく、人が寝しずまったころなど「おれは実はみじめな人間なのだ。何とかならないものか」という心の声が出てくるのでした。それはなぜでしょう。彼が同じところで言っている言葉でわかります。「わたしの内に、…善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようという意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。…わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」
 しかし、こういうみじめさは、パウロ一人の問題でなく、我々人間すべての問題です。
 パウロはキリストを信じて、この問題から救われ「キリストにあるいのちの法則は罪と死の法則から解放してくれた」と言うようになりました。
 あなたもキリストの救いを経験して下さい。

 人生の不公平 2002年9月8日

  ある時、キリストが弟子たちをつれて町を歩いていると、一人の乞食が道ばたにすわって、通行の人にほどこしを求めていました。この人は生まれながらの盲人で、昔のことですから、ほかに生活の道がなかったのでしょう。弟子の一人がこの人を見て、キリストに質問しました。「先生この人が盲人で生まれてきたのは、本人が悪いのですか。親が悪かったのですか」
 この話は、新約聖書、ヨハネによる福音書9章に出ていますが、この弟子の質問は重大です。自分が失敗したり、怠けたり、悪い事をしたりした結果、不幸な生活に陥ったのなら、納得もゆきますが、生まれつきの盲人、生まれつきの不幸というのはなかなか納得がゆきません。しかし事実人間は、生まれた時からして、すでに様々な運命を荷って人生を始めるのです。300メートルの競争をさせるのに、一人はここから、一人は10メートルも先からと、スタートを不公平にして競争しなさい、と言ったら、子供でも「バカバカしい」と言ってイヤがるでしょう。
 この時、キリストは質問に答えて言われました。「それは、この人の罪でも親の罪でもない。むしろこの人の人生に、神のみわざが、現れるためである」。言わば「誰が悪いのだ」と言うような、暗い考え方でなく、神様の愛と、決して間違いのないご配剤を信じて祈ってゆきなさい」ということです。そうすれば不幸と思われていたことにも、新しい意味が感じられてきて、かえって不幸をはねかえし、かえって生きがいのある、充実感のある、神のため、人のため、世のために役に立つ人生を送ることができるのです。そしてそれはとりもなおさず、すばらしい人生、幸福な人生といえるでしょう。目が見えず、耳がきこえず、口がきけない、三重苦の聖女といわれたへレン・ケラー女史は言っています。「私は肉体の欠陥のために、幾多の不便を感じているものですが、そのためにかえって力を生じ、障害を突破しております。私は決して失望しません」と。