館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(41) 「希望のダイヤル原稿」から

 アダムとエバ 2005年5月1日

 我々が旧約聖書創世記で、神様が天地を創造されたお話を読んで、次のページに来ますと、こういうお話が出ています。
 神様は最初の人、アダムとエバをおつくりになると、彼らをエデンの園におおきになりました。そして、どの木の実でも自由に食べなさい。しかし知恵の木の実を食べてはいけない、とお命じになったのです。つまり人間は最初から、してよい事と、してはならない事の間におかれました。ところが彼らは悪魔に欺かれて、神様の命令にそむき、食べてはならない木の実を食べて堕落しました。
 このお話は有名で非常に暗示的です。その解釈もさまざまです。西洋の絵や彫刻の中で多分あなたも、このテーマにお会いになったでしょう。またミルトンの"失楽園"などは、まるまるこのテーマを長い詩にしたものです。
 モントリオール・オリンピックの場面をテレビで見た時、人間て、すばらしいなあ、美しいなあというのが実感でした。しかしまた、ハイジャックや、暴動や戦争や、一家心中のニュースを見れば、人間は恐ろしいなあ、人間というものは悲惨だなあと思います。この矛盾こそ、あらゆる哲学者、宗教家、詩人の解釈に苦しんだ問題なのです。
 聖書はアダムとエバの物語で、その説明をあたえます。人間は神様によって、すばらしく、美しく、幸福につくられました。しかし、罪を犯し、神にそむき、堕落しました。人間全体が、そういう病気になったのです。
 我々人間は、神様につくられた本来の美しさと、罪のために生じた苦しさ、恐ろしさと、その両面を持っているのです。そして、その病気はますます重態に進んでいるのです。ですから、人間は罪を悔い改めて、神を信ずる生活に戻らなければならない。そこにあらゆる問題の解答があり、救いがある。これが即ち、聖書のテーマであり、メッセージなのです。
 荒涼とした砂漠の中のオアシス、水の沸きいづるところ、そこには、草木が茂り、花が咲き、小鳥が歌っています。神を忘れた荒涼たる世界、荒涼たる人生。しかし我々がそこで神の祝福を受ける生活に入れば、心の中に、生活の中に、家庭に、いつもオアシスを持つのです。  (昭和51年9月記)

 たまごとお母さん 2005年5月8日

 (今年は今日が母の日です)
  ごぞんじですか。5月11日の日曜日は「母の日」です。
 お母さんに感謝し、お母さんにプレゼントしたり、何かお母さんを喜ばせるサービスをする日です。
 赤いカーネーションを飾ったり胸につけたりします。もし白いカーネーションを胸につけた子供がいたら、その子供はお母さんが天国に行っているのですね。
 山室軍平先生は、日本だけでなく、世界でも有名な牧師さんです
 この人は岡山県の山の中の村に生まれましたが、八番目のこどもで、しかも弱い赤ちゃんだったので、お母さんはかわい相で仕方がありませんでした。それでどの神様ということもなく、神様に「どうか無事に育つように。こんな山の中だから、えらくなるのはムリでも、世の中のために役に立つ人になれるように」とお祈りをつづけました。そして、そのまごころをあらわすために「私は、一生たまごを食べません」と誓ったのです。
 この子が、あんなにえらい牧師さんになったのは、この祈りが答えられたというものです。
 このお母さんも、山室先生に教えられて、聖書の中に書いてある、本当の神様を信ずるようになりました。
 山室先生はたびたびお母さんに「おかげで私はいつも元気だし、およばずながら神と人のために一生懸命働いています。もう祈りがかなえられたのだから、もうたまごを食べて長生きをして下さい」とたのみましたが、「それでも何だか気がすまないから」と言って、一生たまごを食べなかった相です。
 「昔の山の中では、肉も魚もなくて、たまごだけが栄養だったのに、それを食べないのはよくよくのことでした」と山室先生は、いつも涙ぐんで話していたそうです。お母さんはありがたいものですね。
 聖書にも「あなたの父と母とをうやまいなさい」と書いてあります。お母さんに感謝し、何かお母さんの喜ぶことをしてあげてください。

 お母さんとマサ子ちゃん 2005年6月5日

  一軒の家のお勝手で、お母さんと小学3年生のマサ子ちゃんが話しています。
 マサ子ちゃん「お母さん、何を口の中でごそごそ言っているの?」
 お母さん「包丁で指を切ったので、早く直るようにおたのみしたのよ」
 マサ子ちゃん「何と言っておたのみしたの?」
 お母さん「ギヤテイ、ギヤテイ、ハラギヤテイ、ハラソウギヤテイ、ボウジソワカ」
 マサ子ちゃん「なあにそれ。どういう意味なの?」
 お母さん「お母さんも知らないのよ。おばあさんに教わったの。」
 マサ子ちゃん「じゃあそれで誰が助けてくれるの?」
 お母さん「それもしらないの」
 マサ子ちゃんはけげんな顔。お母さんも困った顔でした。
 さてマサ子ちゃんは教会の日曜学校に来はじめました。聖書のお話を聞きながら、天のお父様という、本当の神様のことも、イエス様の十字架を信じて罪を許していただくことも教えて頂きました。その神様にお祈りするには、こどもがお父さんに話すように、自由にお願いすれば、聞いて下さるということでした。
 ある晩、教会でこどもたちの集会をしている時、夕立になって、大雨が降り雷がなったり、いなびかりが光ったり、しまいには電気がきえて真っ暗になってしまいました。先生はお話を止めて「神様、嵐の中でも私たちを守って下さい」とお祈りしました。みんな安心して、もう一度電気がつくまで、静かにしていました。
 マサ子ちゃんが家に帰ると、お母さんが言いました。「夕立で電気がきえて、こわかったろう。」
 「いいえ。みんなでお祈りしたからこわくなかった。」
 「お母さんが教えてあげたお祈りかい。」
 「ちがう。天のお父様にお祈りしたの。ふつうの自分のことばでお祈りするのよ。」
 「へえ。」今度はマサ子ちゃんが、一生懸命、お祈りのことをお母さんに教えてあげました。これは実際にあったお話です。
  今週のキリストの言葉、マタイによる福音書6章9節「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。

 アンジェラスの鐘 2005年6月12日

 宗教あるいは信仰とは、平たく言えば人間と神様との関係です。そして祈りとは、人間と神様との会話、お話です。もうあの人とは口をきかないと言えば、その人との関係は断絶するように、祈りというものは信仰の中心で、祈ることがなければ、信仰がないと言えるのです。
 "男の人は仕事をしている時一番立派に見える。女の人は眠っている時に一番美しく見える"などと言う人もいますが、すべての人間は、祈っている時が一番気高いのではないでしょうか。祈る時に人間は最も謙虚で真実だからです。
 一組の貧しいお百姓の夫婦が畑仕事をしています。そろそろ夕方ですが、もう少し仕事をするつもりらしい。ところが今、村の教会から、アンジェラスの鐘といって、夕方の祈りの時間を知らせる、鐘の音が聞こえて来ました。二人はくわや、手車をおいて、立ちあがってお祈りをはじめました。夕日に照らされながら、畑の中に向き合って立って祈る二人の姿。フランスのミレーの描いたこの絵は、世界中の人に、いつまでも愛されています。あなたもきっとこの絵を見たことがあるでしょう。あるいは、お宅にも一枚くらいこの絵があるでしょう。
 なぜこの絵がいつまでも人の心に訴えるのか。それは、祈っている二人の姿に、祈りに答えていつも祝福して下さる神の恵み、また二人の正直な真面目な人柄、お互いに信頼し愛し合っている、幸福な平和な夫婦。贅沢はできなくても、感謝と満足に満ちた家庭生活。そういうものがにじみ出しているからではないでしょうか。
 私たちも朝は心を静めて一日の予定や計画を考え、そのために必要な神の導きと助けを祈り、夜はまた神の前に反省し、罪や失敗をお詫びし、一日中の神の助けと恵みを感謝し、もう一度、魂も体も、生活も家族も、一切神にまかせ、  祈りの後に眠りにつくことは、どんなに素晴らしい生活ではないでしょうか。
 旧約聖書詩篇第4篇に記されたダビデの祈り
 「主よ、‥あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした。わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」