館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(36) 「希望のダイヤル原稿」から

 義に飢えかわいている人 2004年4月11日

 沢山の人が「幸福論」すなわち、本当の幸福とは何か、どういう風にしてそれを得られるか、とういう事を論じた本を書いていますが、私が今、毎週お話しているのは、新約聖書マタイによる福音書5章のはじめにある、キリストの幸福論です。今日はその四番目です。「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」餓えた人が食物を求めるように、またのどの渇いた人が水を求めるようにというのは、切実な要求の事です。愛に飢えかわく、人情に飢えかわくという事もありましょうが、これは義に飢え渇いているという事です。
 ロッキード事件の証人喚問が、国会で行われていた日に、私は丁度東京を歩いていましたが、どこのテレビの前も一杯の人だかりでした。その人たちの表情の中に、ああ日本の有力者、指導者の中に、もう少し義というものがあったらなあ、義が失われているという事は、イヤなものだなあ、やりきれないものだなあ、さびしいものだなあ、という、いわゆる「義に飢えかわいた人」の表情を見たのは、私が牧師のせいでしょうか。
 一般の人は政治家に義を注文するが、夫は妻に、妻は夫に、親は子供に、子供は親に義を注文し、期待します。政治家は国民に法律を守れと言います。先生と学生、資本家と労働者。みな相手に義を期待しつつ、義を見出すことができないで悩む。それですから「義に飢えかわいている」という言葉は、ぴったり我々の状態をあらわしているのです。
 それでは、なぜこれが幸福につながるのでしょう。「その人は飽き足りるようになる」つまり「きっと満足することができる」という言葉が成就し、飢えかわいた我々がそういう点で幸福になるのは、いつからですか。どこからですか。
 それは第一に、ほかの人に対して義を注文するだけでなく、自分自身の中の義の欠如に気がつき、反省しはじめる時からです。第二に、私たちに必要な義をみたして下さる神を信じはじめる時からです。
 私は16才の時にクリスチャンになりました。今から43年前です。その動機は、一口で言えば、義に飢えかわく少年だったからです。

 少年のころ 2004年5月2日

 マタイ5章に出ているキリストの幸福論についてお話していますが、そこでキリストがあげている、幸福な人の七種類のタイプ、その第四番目「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りる(つまり満足する)ようになるであろう。」という言葉の理解の参考に、私のクリスチャンになった時の経験をお話してみましょう。
 私は割合まじめな家庭に育ちました。両親とも、酒もたばこものまないような人ですから、家の中であまり下品なものや、不潔なものを見聞きすることはありませんでした。もともと少年というものは、一種の正義感、一種の理想というものを持っているものですから、私も自然に、自分はきれいな、価値のある生活をするものと思っていたようです。ところが14、5才になって、自分の中に押えきれない欲望が湧きおこって来た時、だんだんブレーキがきかなくなって、親にかくれて変な本を読む、不潔な会話にふける、かんばしくないところへ出入りする、気持ちはあれてけんかをする、というようになりました。自分が案外不潔低級な人間であること、ブレーキのこわれた、非常に意志の弱い人間であることに気がついて、何だかこの分では、とても自分の一生がおぼつかないような気持ちで悩んでいました。それでいて、学校では目立つ程の不良少年でした。いわゆる善良な不良少年というのでしょうが、キリストの言葉の通り、「義にうえかわいて」いたのです。
 そのころ、宗教というものに気がついて、自発的に町の小さな教会にゆきはじめたのが16才の秋でした。そしてクリスチャンになりました。私はキリストによって、罪から救われ、神の義を頂くようになったのです。それから43年間私はクリスチャンです。牧師になってから37年、館林の牧師になってから30年です。私は立派な人間だとは思いませんが、しかし40年近くこういうお話をしていても、「お前は不適当な人間だから、そういう説教は止めろ」と言われない程度には、神様の義を頂いていると思います。これは、私の人生にとって大きな事です。
 「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、(その人が神のもとに来るなら)彼らは飽き足りるようになるであろう。」このキリストの言葉は今も信ずる人たちの上に成就しています。

 コルベ牧師 2004年5月9日

 今日は「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」という、キリストの言葉についてお話いたします。
 ポーランドの人で、日本にも来ていた事のある、マクシミリアン・コルベという牧師がいますが、第二次世界大戦の時、ポーランドに侵入して来たドイツ軍に、非協力的であるという理由で逮捕され、あの恐ろしいアウシュヴィツに送られました。入れ墨された番号は16670だった相です。アウシュヴィツその他の収容所で、老人や、婦人、子供を含めて、数百万の人々が殺された事は皆さんご存知の通りです。
 一人脱走者が出ると、代償として十人を殺すというのが、規則だったのですが、ある時脱走者があって、死刑にするために、手当たり次第に十人が選ばれました。その人が"ああ、かわい相な妻子よ、もう一度だけ会いたい"と言って泣き出しました。その時コルベ牧師が進み出て、自分は老齢である、病弱である、聖職者である、という理由で、身代わりになることを申し出て、許可されました。この十人は地下の死刑室に入りました。食事も水も与えられないで、自然死を待つのだ相ですが、この老人で病弱な牧師が最後まで生き残って、結局注射で殺された相です。
 人の臨終の時、死を恐れないように、死のうとする人に信仰の話をしてあげたり、お祈りしてあげたり、励ましてあげたりするのは、牧師の務めの一つですが、コルべ牧師は、殺されようとする一人を助け、あとの九人の人のために立派に牧師の役目を果たして天国に行ったのです。この話は、テレビでも放映されたし、曽野綾子さんの本にも出ているのでご存知の方も多いでしょう。
 さて、コルべ牧師が身代わりになった気持ちは何でしょう。規則でも、義理でも、見栄でもありません。あわれみの心です。あわれみの心を持つ者は、ほかの人からも、やさしくされるでしょう。神様もまた、その人をあわれみ、愛し、祝福して下さるでしょう。コルべ牧師も、天国で、神様のあわれみを受けているでしょう。これは本当に幸福な人なのです。

 心の清い人 2004年6月6日

 キリストの幸福論。新約聖書、マタイによる福音書の5章、有名な山の上の説教のはじめで、キリストがあげている、幸福な人の七つのタイプ。今日はその六番目「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」という言葉について、お話しましょう。
 心の清い人は神を見る事ができるから、その人は幸福だという事ですが、もし心で神様を見る事の出きる人なら、その人は神を信ずるでしょう。神様に祈るでしょう。何でも、神様にまかせるでしょう。いつも神様から助けと祝福を受けるでしょう。喜びの日にも、悲しみの日にも、神と共に歩み、そして死ぬ日にも、神と共にあり、そして、天国にゆき、永遠に神と共に住むでしょう。この人が幸福でなくて、ほかに幸福な人がいるでしょうか。この電話のお話の中で、私は何人も何人も、そういう幸福な人を、ご紹介してきました。
 きれいでないと見えないのは、目も心も同じです。ですから、私たちの目は少しずつ涙を出し、たえずまばたきをして、目をきれいに洗っているのです。しかしどんなにきれいな目でも、目では見えないものも沢山あります。人の顔や服装は目で見る事ができても、心や人格は目では見えません。それは長い時間をかけながら、お互いの心と心で見てゆくのです。そういう心と心、人格と人格のふれあいなしには信頼も、交際も友情も成り立たないのです。
 信仰とは神と人間との交わりです。そして、清い心でなくては、神を見る事ができず、神との交わりもないのです。本来私たち人間は、罪にまみれ、汚れた心の持ち主なのですが、キリストはその十字架という身代わりの死によって、すべての人の罪をゆるし、すべての人の心と生活を清めて、神を見る事のできる人にして下さるのです。あなたもどうか、キリストを信じ、神様を信じて下さい。
 新約聖書ヨハネの第一の手紙1章にある御言葉をおぼえて下さい。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」