館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(25) 「希望のダイヤル原稿」から

 病人と医者 2002年3月3日

 マタイは国を占領して、威張って贅沢をして憎まれているローマ軍のために、同胞から税金を取り立てる取税人でしたから、いろいろなあくどいやり方で、自分も金持ちになりましたが、ローマ人以上に憎まれ者であったことは、ザアカイとかわりませんでした。マタイがキリストを信じて救われ、今までの生活を清算し、友達を集めてお別れパーティーをした時の事です。あんまりお客の質がよくないのはわかっていましたが「私も救われたいきさつをみんなに話したいし、イエス様もご紹介したかいから、来て下さいませんか」とおそるおそるお招きしたら、気軽にイエス様が来て下さったのは感激でした。ある人は「キリストはあんな連中と会食している」と避難しました。その時イエス様は「健康な人には医者はいらない。病人なればこそ医者を必要とするのだ。私は正しい人のためだけでなく、罪人が救われるために来たのだ」とおっしゃいましたが、このキリストのお言葉は、社会から憎まれ軽蔑されていた、マタイはじめ一座の人々にとって、何という尊くありがたいお言葉だったでしょう。マタイはあれ以来、今度はキリストの弟子として、伝道旅行のお供をしました。前から見ればずっと貧しくなりましたが、心の中は幸福で一杯でした。だからマタイは、どこの町に行っても、まず訪ねてゆくのは取税人の家でした。そして彼らに自分の救いの経験を話すのでした。エリコに行っても、多分ザアカイを訪問したでしょう。ザアカイもマタイの話がよくわかり、感動したでしょう。そしてキリストを求める気持ちになったでしょう。ところがもう一人、ザアカイにキリストのことを知らせた人がいました。これはザアカイもよく知っている、この町の盲人の乞食でした。彼はキリストによって目があいたのです。町中大評判で、ザアカイもその評判を聞きました。

 生活の切り替え 2002年3月10日

 むかしエリコの町に、バルテマイという、生まれつきの盲人がいました。
  昔のことですから、この人は仕方なく、毎日道ばたに座って乞食をしていました。ある日、にぎやかに人々が通るので「どなたがお通りになるのですか」と聞いてみると「あの有名なイエス・キリスト様だ」ということでした。バルテマイは「イエス様、私を哀れんで下さい」と叫びました。
 実は「私を哀れんで下さい。お金を下さい」というのは、言わばこの乞食の、毎日のキマリ文句で、口ぐせでもありました。
 キリストは「あなたは何を望んでいるのですか」とお聞きになりました。その時バルテマイは、自分の心の中に隠れていた、本当の望み、願いに気がつきました。
 それはただお金を恵んでもらうだけではありません。本当は乞食なんか止めて、もっとちゃんとした生活に、自分の人生を切り替えたいのです。そして、そのためには「目が見えればいいなあ」といつも思っているのですが、それを言ってみても仕方がないので、黙っていただけです。
 しかし今、キリストの言葉にうながされ、キリストにお願いしてみようと思って「主よ、見えることです」と祈りました。キリストはその祈りに答えて彼の目をなおしてくれました。目が見えるようになった彼は、もう乞食を止めて、新しい生活に入りました。
 同じ町ですから、このできごともザアカイの耳に入ったでしょう。心の欠乏という点、しかも毎日あくせく金ばかりほしがっているという点では、実はザアカイも乞食のバルテマイも似たようなものでした。そして、出来れば取税人など止めて、生活と人生を切り替えたい、という点でも、よく似ていました。ザアカイは、マタイとバルテマイの二人の話から、いろいろ考えさせられて「私もキリストにお目にかかってみたい」と思うようになりました。そしていよいよそのチャンスが来たのです。

 くわの木に登るザアカイ 2002年4月7日

 マタイやバルテマイのように、イエス様を信じて幸福になった人々の言葉から、ザアカイも心を動かされて、イエス・キリストを求めるようになりました。ある日、キリストのお通りになる道に行って、キリストにお目にかかろうと思いました。ところが行って見ると、もう黒山のような人で、背の低いザアカイはとてもキリストが見えそうもありません。どうも我々が決心して、新しい生活に志を立てるような場合、何かしら邪魔が入るものです。そこでへこたれては駄目です。ザアカイは、今は大切な時だから、何でもかんでも、キリストにお目にかからずにはおかないという決心でした。そこで、そばにあった大きな「くわ」の木に登りました。そして「くわ」の葉にかくれて、自分だけがキリストを見ようとしました。ところが通りかかったキリストは上を見上げて「ザアカイ、すぐおりておいで、今夜お前の家に泊めてもらうよ」とおっしゃったので、ザアカイはビックリしました。嬉しいような困ったような話でした。嬉しいのは「ゆっくりキリストのお話を聞いて、私もマタイやバルテマイのように、救われて新しい生活に入れるぞ。私のような人間に声をかけて下さるなんて、なんとイエス様は優しいお方だろう」と思ったからです。困ったのは「イエス様を家におつれすると、自分の本当の生活を、洗いざらいお目にかけることになるぞ」と思ったからでした。けれどもザアカイは大決心でキリストを家におつれしました。ありのままを見て頂きました。そして今後の生活のお指図を受けました。ザアカイの心と生活に大改革が行われて、今は幸福な、多くの人から愛されるザアカイになったのです。その時キリストはおっしゃいました。「私がこの世に来たのは、失われた者を尋ね出して救うためである」ザアカイは真剣にキリストを求め、救いを求めましたが、実はキリストの方でちょうど迷子のようなザアカイを捜し求め、そして救って下さったのでした。

 不信の時代 2002年4月14日

 現代は、自信を失い信頼を失った時代です。自分も信じられない。家族も、友人も信じられない。社長も社員もお互いにアテにできない。健康も信じられない。年中、公害、交通事故、胃ガンや高血圧の心配でビクビクしている。インフレの中では、貯金もあてにならぬ。政治も不信。未来に希望も持てぬ。そういう時代です。
 しかしキリストは、「あなた方は心をさわがせないがよい。神を信じ、また私を信じなさい」と今もおっしゃるのです。これは、ヨハネによる福音書14章に出ています。信仰とは、自分よりも自分を造って下さった、自分を助けて下さる神を信ずるのです。神を見上げ神をアテにし、神を相手にして、精一杯生きるのです。
 一人の絶望的な気分の人が、牧師に電話をかけて、助けを求めました。牧師は言いました。「今、電話を握りしめている手をゆるめなさい。片手の手も握りしめないで開きなさい。」「はい、そうしました」「会社の事でなく、ほかの事を考えよう。あなたは自分を犠牲にして、何か良い事をしたことがありますか。」「別にありません。」「ではあした教会に行って生活に困っている家族を2、3軒紹介してもらいなさい。今夜は、その家族を助けるために、お金とか、品物とか、励ましの言葉とか、いろいろプランを考えて、神様にお祈りしなさい。」「お祈りは、まず感謝から始めなさい。感謝すべきことを考えて、ノートに書きつけてごらんなさい。そして明日また電話を下さい。」翌日この人からかかってきた電話は、昨夜とは別のムードのものでした。やがてこの人は、クリスチャンとなり、非常に明るい、積極的な生活が始まったのです。
 「あなた方は、心をさわがせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」というキリストのことばに耳を傾けるとき同じように、明るい積極的に生活が始まることでしょう。