館林キリスト教会

Sub Menu

 

小林前牧師 コラム集(33) 「希望のダイヤル原稿」から

 交際 22003年9月14日

 聖書の中に「信徒、つまりクリスチャンの交わり、つまり交際」ということが書いてあります。はじめて教会に来た人は、クリスチャン同士の、自由な、なごやかな、そして上品な会話や交際に魅力を感ずる人も多いと思います。
 「交わり」は、新約聖書の原語のギリシャ語で「コイノニヤ」と言いますが、これは「共有」という意味です。昔から「喜びは人と分かち合う時に二倍となり、悲しみは、人と分かち合うことができれば、半分となる」などと言われますが、喜びにつけ、悲しみにつけ、遠慮なく打ち明けて話し合える、そして、いつもお互いに理解し、気持ちの上では、何でも共有できる。という友達は良いものです。その反対に、そういう友達がいないこと、つまり孤独は淋しいものです。しかし、下品な事や、悪いことの共有は困ります。サレジオという人は「交際の価値は、何を共有しているかによって決まるのだ」と言っています。悪い人もまた不思議に友達や仲間をほしがるもので、つまり人を誘いこんだり、誘惑するものですから、注意が大切です。それに比べて、趣味が一致する場合、あるいは学問の上の友達、また、人格、教養など、お互いに尊敬できて、しかも良い影響を受ける交際などはすばらしいと思います。
 聖書の中に「神様を信じている人同士が話し合っている。神様も耳を傾けて、これを聞いていらっしゃる」というみことばがあります。クリスチャン同士が何かうれしいことを話し合っている。何か心配な問題を打ちあけて、一方がその聞き役になっている、という場合、それはそのまま、二人の祈りであることがあります。あるいは祈りに移行し、進んでゆく場合が多い。神様はそれを聞いていて、私たちを理解し、私たちの願いを知り、そして私たちを助け、願いをかなえてくださるでしょう。すばらしい交わりではありませんか。

 教会とは 2003年10月5日

 クリスチャンはよく人から「教会ってどういう所なの」とか「教会へ行って何をするの」とか聞かれることがあります。その答えはこれです。
 第一に、教会は神様を礼拝し、神様にお祈りするところです。普通、神社やお寺には、神様や仏様がまつってあって、その神様を拝んだり、その神様にお祈りしたりしますが、教会にはご神体はありません。
 なぜかというと、私たちの信じている神様は、目に見えない、霊なるお方ですからお姿を木や石にきざんだり、紙や布に描いたりできないからです。また本当の神様は、天地万物を造り、全宇宙を支配していらっしゃるお方ですから、小さなお宮や教会におさめておけるお方ではありません。それは、神様のおことばとして、次のように聖書に書いてある通りです。
 「神が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。これは皆わたしが造ったものではないか」
 また神様は、どこにでもいらっしゃるのですから、どこででも私たちの礼拝を受け入れ、私たちの祈りに答えてくださるのです。それでも私たちは、礼拝のために、祈りのために、教会を建て、時間を決めて集会を開き、そこにクリスチャンが集まることが必要なのです。
 昔、ヨーロッパから渡って、アメリカを開拓した人たちは、何にもないところから生活を始めたのですが、山から木を切って来て丸太小屋を建てながら、町の真中に、教会のために広場をつくり、またみんなで力を合わせて、丸太作りの教会を建てたのでした。
 みんなお祈りが必要でした。いつも神様から、助けと慰めと、力と勇気を与えて頂かなければなりませんでした。毎週の礼拝だけでなく収穫の時は感謝会を、飢饉  の時は祈り会をしました。結婚式も葬式もここでしました。またある時はこれが小学校にもなったのです。

 「さんびか」とは 2003年10月12日

 教会に来ると、集会で賛美歌を歌うことは皆さんご存知です。賛美歌はとても魅力的で、初めて教会にいらっしゃった人は、大抵「賛美歌が良い」と言います。「牧師のお話が良い」と言う人よりも多いようです。
 人間は楽しい時でも、悲しい時でも自然に歌を歌います。しかし日本人は一般に淋しい歌が好きで歌謡曲などには涙とか、雨とか、別れとか、そういう言葉が一番沢山出て来るそうです。
 しかし賛美歌は、神様を信ずる人の信仰と喜びの歌です。「トプレデイ」という有名な賛美歌があります。
 「とこよの岩よ、わが身をかこめ、さかれしわきの、血しおと水に、罪も汚れも、洗い清めよ」というのですが、この歌を作ったトプレデイという人は、イギリスの牧師さんでした。りっぱな牧師さんでしたが、体が弱くて、30代で亡くなりました。それだけに、いつもよくお祈りして、神様の保護と助けを求め、真剣な信仰生活で、よく大勢の人々を信仰に導いたのでしょう。
 ある日、彼が道を歩いていると急に大嵐になりました。そこで彼は大きな岩のかげにかくれて、雨や風を避けました。その時「そうだ、神様はこの岩のようなお方だ。聖書にもそう書いてある。私たちの人生にも、恐ろしい雨や風が多いが、一生懸命神様におたよりすれば、神様はこのしっかりした大岩のように、私たちを守り、また助けて、風雨に耐えさせて下さるのだ」と深く感じました。その気持ちをそのまま歌にしたのですが、この賛美歌は長く、今でも大勢の人に愛され、歌われています。

 カノン 2003年11月2日

 聖書はキリスト教の経典ですが、その経典のことを、本当はカノンと言います。カノンは標準、規準の意味です。
 子供は「飛行機が高い高いところを飛んでいる」と言い「高いお家」とか「お兄ちゃんは私より背が高い」などと言いますが、大人は「高さ何メートル」と言います。このメートルというのが、高さの標準、規準に当たるわけですが、カノンというのはそういう意味です。私たちは物の値段、お金の単位という規準がなければ、物を買うこともできないし、時計で時間の規準を定めておかなければ、一日の生活の予定も立たず、デートの約束もできません。規準は大切です。
 では聖書は何の規準なのでしょうか。第一に道徳、つまり、何が正しいか、何が悪いか、という問題に対する、神様が与えて下さった規準なのです。
 ある子供が年上の子供二、三人にかこまれて「トリセンで何か盗んで来い。皆で食おう」と命令されました。イヤと言えば殴るというのです。この子供は殴られましたが、ドロボウはことわりました。
 なぜでしょうか。この子は日曜学校の生徒で、長い間教会で聖書を勉強してきたからです。聖書がこの子供の心の中に、はっきりした善悪の規準になっていたからです。聖書はまた私たちを教えるだけでなく、悪をしりぞけ、善を行う力をも与えてくれます。聖書の詩篇119篇11節にあるみ言葉の通りです。「わたしはあなたにむかって(あなたとは神様のことです)罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉(聖書のことです)をたくわえました」
 ちょうど「わたしはかぜをひかないように、オーバーを着ています」「わたしは交通事故に会わないように、いつも左右をたしかめます」というのと同じ調子ですね。
 そういうふうに、聖書は私たちの人生の、大切な規準、すなわち「カノン」なのです。