館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(40) 「希望のダイヤル原稿」から

 赤ちゃんモーセ 2005年2月6日

 旧約聖書第二番目の出エジプト記、そこにはエジプトの奴隷だったイスラエル人がエジプトから解放される話が書いてあります。
 このイスラエル人のエジプトからの解放に活躍した中心人物のモーセ、彼は不思議な育ち方をした人です。この人が生まれたころ、エジプト王は"イスラエルの人の家に生まれた男の子は、全部ナイル川に流して殺せ"という命令を出しました。モーセの両親はしばらく赤ちゃんのモーセをかくしておきましたが、とうとうかくしおおせなくなりました。そこで、お祈りしながら考えて、一種の防水バスケットを作ってその中にモーセを入れてナイル川の葦の間におきました。流れてしまわぬよう、姉さんのミリアムが見張っています。お母さんもお乳をのませに来ます。なかなかよく考えたものです。一応ナイル川に流した事にはなりますから。
 ところがある日、王女のひとりが、大勢の侍女をつれて水浴に来て、この赤ちゃんを見つけました。モーセの母親は乳母としてモーセを育てることになり、やがて王宮で育てられました。だからモーセはやがて同胞イスラエル人をエジプトから解放するために立ち上がるまでは、エジプトの王宮で、王子の一人として成長したのです。特別に神様に守られたわけですね。
 さてモーセの両親が、王の命令にそむいて赤ちゃんを無事に育てる事ができたのは、"両親の信仰のおかげ"だったと聖書に書いてあります。両親は神様にお祈りして、勇気も知恵も神様から与えて頂きました。そしてまた、神様はその愛と力によって、赤ちゃんモーセを守り育ててくれたのです。これは、たしかに"両親のおかげ"でした。今はエジプト王のような恐ろしい人はいませんが、赤ちゃんにとって病気も交通事故も、恐ろしい敵です。大きくなれば、試験地獄も、就職戦線もまたいろいろな誘惑も切り抜けなければなりません。そういう事に耐えられるように子供を育てる両親の責任は重大です。神様の助けが、どうしても必要ではないでしょうか。そのためには、両親の信仰が必要ではないでしょうか。"母が真実をこめて、その子のために祈る祈りには、特別に力がある"と言われるのは、本当のことだと思います。

 紅海を渡って 2005年2月13日

 Christianでなくても、聖書を愛読しているという人は沢山いますが先年亡くなった正宗白鳥氏などもその一人です。彼は"聖書の中に、あらゆる文学の原形がある。これはもっとも古い人間の記録だ"というような事を言っています。聖書は神の本であると共に人間の本です。むずかしいところもありますが、面白い本でもあるのです。
 旧約聖書第二番目の出エジプト記などは、中でも面白い聖書の第一でしょう。だから"十戒"という題で、たえずスペクタクルな映画に作られます。私は子供の時それを見て子供心にひどく感動しました。のちに聖書を読むようになった時"ああこの話だったのか"と、気がついたのです。暫く前にもチャールトン・ヘストン主演の映画"十戒"が各地で上映されましたがあなたもごらんになりましたか。
 イスラエル人の先祖は、そのころ、エジプトの奴隷でした。いじめられていじめられてもう少しかまわないでおいたら、イスラエル人は根だやしになってしまったでしょう。そのころのエジプトといえば、今の、アメリカとソ連と中国を一緒にしたような凄い国でしたから、イスラエルの救いということは、ほとんど絶望でした。しかしイスラエルの人々は、神様に祈りながら、モーセという人を中心にして"民族の解放"を、エジプト王パロに交渉しました。王様は勿論怒り、またせせら笑っていましたが、神様は数々の奇跡でエジプトを苦しめたので、仕方なく彼らの脱出を承認しました。
 イスラエルがモーセを先頭にして紅海にさしかかると、気の変わったエジプト王は、軍隊で追跡してきました。進退きわまって泣き叫ぶ人々に、神はモーセを通して言われました。「恐れてはならない。かたく信仰に立って、神のなさる救いを見なさい。神があなたがたのために戦われるから、あなたがたは静かにしていなさい」その結果、紅海は二つに裂け、イスラエル人はその間を通って、のがれる事ができました。あなたも進退きわまった時、神様を信じていれば、同じように神様はあなたを助けてくださいますよ。これは現在も、沢山のChristianが経験していることです。 (1976年記述)

 受難週 2005年3月6、13日

 今日から一週間は、受難週と言いまして、キリストが十字架におつきになった、そのお苦しみを記念する、大切な時です。
 キリストの誕生祝いはクリスマスですが、それにもおとらない記念日です。
 十字架というのは、十文字形に組み立てた木に、生きたまま人間の手足を釘づけにして大勢の目にさらしたまま、苦しみながら自然に死ぬまで、そのままほおっておくという、一番残酷な死刑です。
 なぜキリストは、そんなに恐ろしい死に方をなさったのでしょうか。そんなに恐ろしい罪人だったのでしょうか。
 いいえ。キリストは神様でした。そして33年のご生涯の間、一つの罪も犯したことがなく、神に対しても、人々に対しても、ただ愛と真実をもってし、教えに、善行に、生涯をつくされたことが聖書に書いてあるのです。それなのになぜ、キリストは十字架につけられましたか。それは我々世界中の人間が犯した罪のすべてを一身に引きうけて、神様の呪いと裁きを受け、つまり我々の救いのために、我々にかわって十字架にかかって下さったのです。
 なぜキリストは、そんなに恐ろしい死に方をなさったのでしょうか。そんなに恐ろしい罪人だったのでしょうか。
いいえ。キリストは神様でした。そして33年のご生涯の間、一つの罪も犯したことがなく、神に対しても、人々に対しても、ただ愛と真実をもってし、教えに、善行に、生涯をつくされたことが聖書に書いてあるのです。それなのになぜ、キリストは十字架につけられましたか。それは我々世界中の人間が犯した罪のすべてを一身に引きうけて、神様の呪いと裁きを受け、つまり我々の救いのために、我々にかわって十字架にかかって下さったのです。
 我々人間は、罪を犯して神にそむいています。神を見失った状態で迷い、悩み、苦しみ、しかも罪の中に沈んでいるのです。しかし、その罪を悔い改めて、キリストの十字架を信じ、神に立ちかえる時に、一切の罪を許されて、神の救いと祝福の喜びを受けることができます。
 そのキリストの十字架を記念するのが、受難週の意味です。
 十字架によって救われたクリスチャンたちの心と生活に、神様の祝福、喜び、幸福、そして罪と悪に勝つ力があふれるようになったので、その感化力、影響力は強く、あれから二千年の間に、キリスト教は世界に伝えられ、世界中に教会ができ、しかもキリスト教は世界の道徳と文明に、大きな指導力を発揮して来たことは、歴史が証明する通りです。
受難週は意味深い記念日ではありませんか。

 キリストの復活 2005年4月10日

 先週は受難週で、イエス・キリストが、私たちの救いのために、十字架にかかって下さった、キリストの受難の記念日を守りました。
 今日はイースター、復活節と言って、そのキリストが死から復活された記念日です。世界中の教会はこの日を祝っています。あの十字架の日の夕方、婦人の弟子たちが中心になって、冷たい死骸となり果てたキリストの体を、十字架から取りおろしました。そして泣きながら、お体の血やよごれをふき取って、体中に薬を塗り、白い布でキッチリと巻きしめました。
 キリストは妻子もなく、自分の家さえありませんでしたから、勿論お墓の用意はありません。ところが、ある信者が自分のために用意してあったお墓を借してくれたので、とりあえずそのお墓に葬りました。お墓と言っても岩に掘った横穴です。入口には石をころがしてふたをしておくのです。これらはその地方の葬りの習慣でした。この時の弟子たちの気持ちは暗黒と絶望でした。つまり、神様の力と善の力が、この世の中の悪の力に圧倒されてしまったのです。そしてキリストはもう、愛することも教えてくれることもできない、冷たい死体となり、まもなく土の中で腐れはててしまうのだろうと思われました。
 さてその三日目、つまり復活節の朝早く、女たちはお墓参りしようと、花や香水を用意して出かけました。ところがお墓に行ってみるとお墓はからでした。女たちの一人、マグダラのマリヤは、墓のそばで一人泣いていると、今朝復活したキリストが栄光のお姿でお近づきになり、「女よ、なぜ泣くか」とおっしゃっいました。マリヤはどんなにうれしかったでしょう。それからキリストは大勢の弟子たちに、順々にお会いになりました。中には五百人以上の集会もありました。実は、これがキリスト教の始まりです。キリストは今も永遠に生きていて、信ずる者を救い、祈る者を、守り、助け、導いて下さるのです。
 あなたもキリストを信じて下さい。