館林キリスト教会

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伊藤牧師コラム集 聖地を旅して(16)

 ダイヤモンド工場見学→嘆きの壁へ 2005年6月19日

 世界のダイヤモンド産業は世界中に散らばるユダヤ人のネットワークと南アフリカのダイヤモンド開発会社デビアス社によって支えられていると言われているくらい、イスラエルはダイヤモンド産業が盛んだ。そこで金持ちの?日本人に1つでもダイヤモンドを買ってほしいと思っているのか、ダイヤモンドのコースはお決まりになっているらしい。私はダイヤモンド工場の見学よりも、途中のホロコースト記念館を見学したかったのが正直な気持ちだった。確かに日本で買うよりも三割位安いらしい。興味を示した人もいたが、結局、私たちの一行は誰も買わなかった。店の人もさぞがっかりしたことだろう。
 こうしてダイヤモンド工場を後にして、午後6時ごろ、嘆きの壁と呼ばれている、「西壁」に向かった。ここは1967年の6日戦争でイスラエル軍が占領するまで、他の国が支配していた。だからイスラエルの兵士が西壁を見つけた時は、泣きながら、律法の書(トーラー)を読み、感謝と記念の祈りを捧げているところが映像に記録されている。以来再びこの地は、ユダヤ人にとって最も神聖な場所になっている。私もキッパと呼ばれる帽子をかぶり(この帽子をかぶらないと壁のそばにいけない)、クリスチャンとして静かに「世界が平和になりますように」と祈りを捧げた。

 聖地旅行最後の夜 2005年7月17日

  エルサレムの西の壁を見た私たちは、午後7時半頃ホテルに戻った。明日は、テレアビブ空港に行き、トルコのイスタンブール経由で日本に向かう。この聖地旅行の最後の夜だ。ロビーで終了式を行った。「聖地巡礼証明書」「ガリラヤ湖の船上で祈り渡られたことの証明書」など、一人一人が戴いた。またプレゼントとして素焼きのともしび皿を戴いた。聖地巡礼証明書にはreverend(聖職者)という文字の後にITO Hideoと書いてある。耳慣れない言葉に嬉しい感じを持ちながらも少し恥ずかしいと思った。
 8時からの遅い夕食のあと、ホテルの中の売店でお土産を買った。少し値切れないかと思って交渉してみた。見学するところの売店なら結構値引きしてくれるのに、このホテルの売店ではそれが全然通用しませんでした。だから何か少し高い買い物をしたような気がした。
 日本に帰れるという喜びと共に、ベテスダの池も、ガバダ、あそこも見てない、という思いだった。すぐそこにあるのに、やはり時間に制限があるので、見て回れないことに何か残念な思いがした。
 急ぎ足で、エジプト、ヨルダン、イスラエルをかけてまわったようなものだが、本当に楽しい旅行でした。
 明日は6時半朝食で、7時半出発という事で早めに休んだ。

 エルサレムを飛び立つ 2005年7月31日

 よくテレビに出てくるテレアビブ空港に着いたのは8時15分。それから手続き。ガイドを務めてくれた関根さんが、空港で聞かれた時の返答の仕方を教えてくれた。「どこかの家に遊びにいきましたか」と聞かれたら、必ず「ノー」と答えること。下手に「イエス」と答えると大変らしい事を聞いてびっくりした。よくテロがあるイスラエルの国は、荷物の検査が特に厳しくて長い。みんな通訳がついて、いろいろバッグの中を説明していた。私は一番最後に並んだ。二人の通訳がいたが、最後は三人の人をチェックしたので、私だけには通訳がつかなかった。言葉があまりよく伝わらないというのは、本当に不安にさせるものだということを実感した。チェックする人も困ったらしく日本語の分かる人が来て交代してやってくれた。私だけ取り残されたらどうしようと、ふと考えたりもした。バックを全部あけて下のほうまで確認していた。私は、シナイ山の石や、ガリラヤ湖、死海の水も入れてきたので荷物が結構一杯だった。同行者の人から、冗談に伊藤さんはチェックでひっかかるのではないかと言われたりしていたから、少々ビクビクしていた。
 11時45分、飛行機はテレアビブ空港を飛び立った。
 詩篇121:8の「主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。」というみことばを思い起こし、小ノートにメモしつつ、恵み深い神様に心からの感謝の祈りをささげた。
 疲れがどっとでたのか、テレアビブ空港を飛び立ってまもなく熟睡状態になった。

 家路に着く 2005年8月21日

 エルサレムを飛び立った飛行機を、トルコのイスタンブールで乗り換えた。トルコではこの頃大きな地震があいついで起こり、私たちが降りた時も、大きな地震があったということを帰ってきてから新聞で知った。しかしその時、イスタンブール空港では地震の揺れなど感じなかった。
 トルコ航空を利用したこともあって、もう一度、大阪の関西空港で乗り換えて東京に着くことになっていた。そこで関西空港内の食堂で昼食をとった。久しく食べなかった日本食にありついた人が多かった。私も久しぶりに「そば」をたべた。家に電話をかけると、邑楽教会の高橋ミエ姉がなくなられたという。私が葬儀の司式をすることになるかも知れないから、そのつもりでいるようにということだった。しかし、葬儀の司式は13日に小林牧師がしてくださった。
 羽田空港には、長男の巖が車で迎えに来てくれていた。聖地旅行で親しくなった羽生教会の森田さんと羽生まで一緒だった。
 夜の8時過ぎになってしまったが、帰りがけに教会に立寄り、心ばかりのおみやげ「なつめやしとほしいちじく」を置いてきた。
 私は、明日の礼拝のために早めに布団に入ったが、あれこれと思い出されてくる恵みの洪水になかなか寝付くことが出来なかったほど、感謝で一杯だった。こうして二週間の聖地の旅は終わった。