伊藤牧師コラム集 聖地を旅して(5)
ペトラの遺跡 2001年8月19日
ペトラの遺跡では、シク(Siq)<狭い岩の裂け目のこと>と呼ばれる入口まで馬にのり、それからは高さ100メートルもあるような大きな岩の間、ところどころに割れて隙間がある所をガイドさんの説明を聞きながら30分位歩いた。シク(Siq)が終わと、突然にエル・ハズネという名称の、岩をくり抜いた宝物殿の姿が現われる。「ワアー!」という驚きの歓声があがる程、何ともいえない場所である。聖地旅行から帰ってきて、ここが人気映画インディー・ジョーンズ「最後の聖戦」の舞台になったところだと知って、さっそくビデオを借りてきて見てみたが、なるほどそうだった。この宝物殿の中が、映画では奥まで続いているが、実際は行き止まりで奥がない。
そして、こんな厳しい所に最近までベドウィンの人々が住んでいたそうである。しかし、政府の観光政策で、近くに5階建てのビルを建ててもらい、引っ越してしまった。だから現在、居住している人はいない。
もしヨルダンで一個所だけ行くとしたら、誰もがこの「ペトラの遺跡」だと言うくらい素晴らしい場所だ。現に天皇、皇后両陛下が訪れた時、阪神大震災が起きて、殆どの仕事や見学の予定をとりやめて、帰国された。その時、一箇所だけということでこの「ペトラの遺跡」だけを見て帰られたという。
エレミヤがエドム人について、彼らは「岩の割目に住み」、そして彼らの巣を「わしのように高い所」に作っている(エレミヤ49:16)といっているのは、ペトラについて述べているそうだ。
王の道を北上 2001年9月16日
ペトラを出発してまもなくすると、あのアロンが死んだとされるホル山だという山を見た。あらかじめ学んでいなかったここと、確かにホル山だという説明があったわけではないので、ただあわててバスの中からカメラのシャッターをきった。
バスはかなりのスピードでモーセが通ったと思われる「王の道」を北上しながら走って行った。なぜ「王の道」と呼ばれるのか、植木先生に聞いてみた。先生は、諸国の王が戦いに勝利した時に、この道を通ったので、「王の道」と名づけられたと教えてくれた。そして当時モーセとイスラエル一行は、周囲が渓谷であることもあって、この道を通ったに違いないと思われる。
アルノン川を渡る 2001年9月16日
「王の道」を北上していくと、モアブびととアモリびとの境にアルノン川が流れている。あの猛毒の蛇に噛まれ、神の命令によってモーセが造った青銅のへびを仰いで人々が癒された場所から、さらに北上し、モアブの地の一番北に位置する所にアルノン川が流れている。
主がモーセを通して民に「進んでアルノン川を渡りなさい」(申命記2章24節)といっています。険しい峡谷を下ってアルノン川を渡るには、相当の勇気と信仰が必要だったに違いない。ナイル川や紅海を渡ると聞けば大変だと思うが、アルノン川と聞いてもピンとこない。団長の荒川先生は、こんな殺伐とした土地と、こんなすごい峡谷の間を流れるアルノン川だとは思っていなかった、と言っておられた。そして渡った先には、恐るべきアモリびととの戦いが待ち構えていたのだから、彼らがアルノン川を渡ったということは、神への従順な信仰の立派な証だったのだ。
魚釣り? 2001年9月30日
ヨルダン領の死海に面する温泉地ゼルカマインのホテルに着いたのは、暗くなってからだった。それで周囲の状況はよくわからなかったが、水の流れる音がするので、川があるらしいことがわかった。
朝6時に起床して、荒川先生に誘われて魚釣りにいこうとした。荒川先生がホテルの従業員に、魚のつれる場所はどの辺がいいかと、英語で尋ねた。すると、魚はいない、という返事が返ってきた。そんな馬鹿なことがあるものかと思って、とりあえずホテルのすぐそばの川に行ってみた。その川に手を入れて見て、ビックリした!お湯が流れていたのだった。「伊藤さん、確かにこれでは魚は煮魚しかいないよ」と、荒川先生は笑って言った。
早速、計画変更で、ホテルの部屋に戻って、海水パンツとタオルを持って、露天風呂につかることにした。思いがけないプレゼントに二人とも大喜び。しかし、あまりはしゃぎすぎてメガネをなくしてしまった。てさぐりで、底をあさり、やっとのことで見つけた。しかし新しいめがねに傷がついて、帰ってきてから修理に出したが「?万円」かかってしまってショック!高い露天風呂代になってしまった。ドジな自分に嫌気がさした。
この温泉地ゼルカマインはバプテスマのヨハネの首を切ったあのヘロデ・アンティパスも湯治のために、度々訪れていたそうである。近くには、マケラスの城がある
マケラスの城 2001年11月18日
ヘロデ王が作った三つの要塞の一つで、ここでバプテスマのヨハネは首を切られた。周囲は殺伐とした所でヘロデの用心深さを現している。登ってみたいところだが時間がなくて見ただけだった。頂上にヨハネが閉じ込められた獄があると聞いた。
ヨハネはヘロデ・アンテパスの領地に戻って活動を続けた。ヘロデ・アンテパスが兄弟ピリポの妻へロデヤを奪って妻としたことを非難されたため、ヘロデ・アンテパスはヨハネを捕えてペレヤ(死海の東岸)にあるマケラスの城塞に幽閉した。その後間もなく、ヨハネはそこで処刑された(マルコ6:16〜29)。ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤ伝道を開始している(マルコ1:14〜15)。
ネボ山にのぼる 2001年11月18日
ネボ山は、死体は見つからないがモーセが亡くなった所と言われる山だ。ネボ山に立ってみて、旧約聖書の申命記が示すこの地が、たとえ快晴であってもカナンの地全部を見渡せないであろうと思った。もちろん神様が特別な方法で見せてくれれば可能だが。そして見渡したカナンの地の一部をもって、乳と蜜の流れる地は、神様が約束したようにイスラエルの人々のものだ、ということをモーセに確信させたのであろう。それにしてもここに立ったモーセの心境はどんなであったろうか。カナンの地を目指してイスラエルの民を全力で導いてきたモーセが、その地を見て、入ることが出来なかったのだから。私にはその気持ちを想像しきれない。申命記34:1〜5を読んでいただきたい。