館林キリスト教会

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伊藤牧師コラム集 聖地を旅して(15)

 ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)<2> 2005年2月20日

 不思議なことのように思われたのは、このヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を歩いていた時、聖書のみことばよりも、20数年前によく歌っていた山内修一さん作詞作曲の「ヴィア・ドロローサ」を口ずさんでいた。
 私の罪のために 重い十字架負わされ
 あざける人の中を 耐えていかれたイエスよ
 ドロローサ ドロローサ カルバリの丘へ
 ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道
 私の胸の中に 刻まれた主の十字架
 茨の冠つけて 祈られる主の姿
 ドロローサ ドロローサ 悲しみの丘へ
 ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道
交通公社に勤務していた時、山内修一さんの新婚旅行の手配をある方から頼まれたことがあった。そういうこともあって、この歌は特に好きだったからかもしれない。
第8ステーションの所では、トイレ休憩のために、「JOHANNITER HOSPIZ」と書かれていた建物に立寄った。そうしたら、そこはプロテスタントの教会で、そこの牧師さんにとても歓迎され、短い時間だったが思いもかけず楽しい交わりを持つことが出来た。
第10ステーション以下は聖墳墓教会内にある。歴史的には、ここが十字架の立てられた場所であるに違いない。しかし、ギンギラギンに飾られて祭壇等には、承知していたがやはりがっかりした。

 エルサレムの城壁の上を歩 2005年3月20日

 団長の荒川先生は、よく洒落を言う。それがこの一行を結構楽しませ、和ませてくれた。トラベルはトラブルがつきものだと、みんなに話していた。旅行中いろいろなトラブルもあったが、先生のユーモラスな配慮のおかげで、全体としてはスムーズにいった。また予定は未定であるなどと話していたが、確かにもう最後の方になると、スケジュールとはだいぶ違ったコースを見学することになった。しかしそのことが案外良かった、と思うものもあった。その一つが、この城壁の上を歩けたことだ。城壁の上といっても、城壁が二重になっていてその間を歩いたということだ。テレビなどでもよく見るようにエルサレムは城壁の町だ。周りをぐるりと石の城壁で囲まれている。もちろんイエス様の時代の町は、紀元70年にローマ軍に徹底的に破壊されてしまったから、今日のエルサレムはずっと後の時代に再建されたもので、現在の城壁はかなり北に移っている。城壁内にあった「シロアムの池」が今は城壁の外にある。そしてイエス様が十字架にかけられたゴルゴダの丘の場所と言われる聖墳墓教会は、イエス様の時代は「門の外」(ヘブル13:12)だったが、現在は城壁の中にある。城壁の中は、7つの門で往来できる(門は8つあるが、1つは閉じられたままになっている)。西から北周りで数えると、ヤッフォ門、新門、ダマスコ門、ヘロデ門、ステパノ門、黄金門、糞門、シオン門の8つで、そのうち黄金門はアラブ占領時代に閉じられたままになっている。近年は城壁が補強されて、城壁の上が遊歩道となっていて、遊歩コースを楽しめる。遊歩道だけで城壁をひとめぐりすることはできないが、遊歩コースは4つあり、どのコースからでもエルサレムの旧市街の風景を楽しむことが出来る。私たち一行はヤッフォ門からシオン門までゆっくり歩きながら旧市街を見学した。

 エルサレムの城壁の上を歩 2005年4月17日

 イスラエルにはたくさんの博物館や美術館があるという。私たちはその一つイスラエル博物館に出かけた。ここで最も有名なのは死海写本館である。前に「クムランの死海写本」のところで書かせていただいたように、それまで最も古いものとされていた写本よりもさらに1000年も昔のものということで、聖書学会には大センセーションを巻き起こした20世紀最大の考古学的発見と言われる。しかもその膨大な量にも関わらず、1000年後の写本とわずか3文字しか違わなかったというのは、奇蹟としかいいようがない。それだけ聖書が一字一句大切に取り扱われていた証拠だともいえよう。死海写本館は、死海文書が入っていた壷のふたにかたどった、円盤の中央が富士山のように盛り上がった美しい白亜の建物である。館内にはいろんな展示品が並べてあるが、なんと言っても中央にある円形状の大展示室内の羊皮紙にかかれたイザヤ書の写本の展示品が目を見張る。ただしこれは本物そっくりに作られた複製である。ほかの書もほとんどが羊皮紙でかかれ、後の紙のもととなるパピルスで書かれたものはわずかだという。ゆっくり見ている人がいる。多分へブル語が読める人なのかもしれない。うらやましいかぎりだ。私も一年聖書学院でヘブル語を教えていただいたが、注解書と下にカタカナで読み方がふってある参考書はあっても、ヘブル語には手も足もでない。バーネット先生は60歳過ぎてからさらに深くヘブル語を学ぼうとされていたというから、先生のそんなみことばに対するパッション(情熱)を倣いたいと思う。

 ユダの山里アイン・カレム 2005年4月17日

 バプテスマのヨハネの両親ザカリヤとエリサベツが住んでいたと言われる「ユダの山里」(ルカ1:39)は、今はアイン・カレム(ぶどう畑)と呼ばれている。いかにも山里といわれるような所だ。ゆるやかな坂道を周りの景色を眺めながら、またみんなとおしゃべりしながら、マリヤ訪問教会までゆっくり歩いて行った。イエス様の時代と変わらないような、そののどかな山里の景色は体も心もいやされるような感じさえ与えてくれるところだ。イエス様の母マリヤが妊娠を知った時、「立って、大急ぎで」ナザレから170キロくらいあるこの村まできたと、聖書は記している。不妊の婦人、しかも年老いたエリサベツが妊娠しているのを知っていたマリヤは、エリサベツに自分の妊娠を知らせ、共に全能の神の恵みを賛美したかったに違いない。この時歌ったマリヤの賛歌は、冒頭のラテン語訳から「マグニフィカト」(ルカ1:46−55)と呼ばれている。それが46カ国の言葉でパネルにして訪問教会の向かい側の壁に掲げられてある。もちろん日本語のものも掲げられてあるが文語で書かれている。マリヤはこの歌で「自分を小さくし、神を大きくする」と告白しながら主を賛美したと言われる。