伊藤牧師コラム集 聖地を旅して(6)
まだまだあるのですが…… 2001年12月16日
マダバの地図(エルサレム、ヨルダン川などが記された最も古いモザイク地図)アンマン(聖書ではラバ)攻撃の時、ダビデはエルサレムにとどまり、あのバテシバ事件を起こす。またヤボク川、ゲラサ(ジェラシュ)の数々の遺跡を見学したが、省略させていただいて、イスラエルに入ることにします。
アレンビー橋を渡る 2001年12月16日
国境のアレンビー橋とは、イスラエル側の呼び方です。ヨルダンではキングハッサム橋(或いはフセイン橋)と呼んでいる。ここはヨシュアがヨルダン川を渡った付近であり、イエス・キリストが洗礼を受けた近くでもあります。ここを渡ればイエス・キリストの生まれた国、イスラエル共和国にはいる事になります。
イスラエル入国 2001年12月16日
イスラエルの入国、出国審査の厳しいのは、おそらく世界一だろう。団体旅行はまだ穏やかだが、個人旅行になると、その質問とやらは、出かけた場所、その目的まで言わせられるそうである。朝日新聞のある記者は、その厳しさに驚いて、1999年4月9日の天声人語欄に、その内容を書いているくらいだ。
緊張した面持ちで、私は検問所のような所を通過しようとしたが、探知機が働いてもう一回ということ。更に4回もやりなおしをさせられた。最後にはベルトとメガネと時計をはずして通過し、やっとOK。これもおびただしい血が流された所以で、テロ防止が最優先だからである。しかし、入国審査を通過すれば、日本についで本当に安全な国だそうである。
死海浮遊体験 2002年2月17日
ある人が言った。「イスラエルにある死海という湖はトンカチでも浮いちゃう」。「ほんと?」と尋ねると、「だってカナヅチの人もうくそうだ」というへんな駄洒落で終わりました。
ともかくどんな感じなのだろうということは、どうしても今回の旅行で体験してみたかったことです。中学校の教科書で勉強したこともありましたが、それを実現できるとは、夢にも思いませんでした。
死海では泳がないでください、とガイドさんから案内を受けていました。湖なのに、と思うかもしれませんが、多量の塩分を含んだ海水が目にでもはいると大変なことになるからです。それから仰向けになって入ってくださいということでした。どんなことが起こるのだろうかと、興味津々、そっと入ってみました。プカッとからだが浮いたというわけではありませんが、確かに浮くのです。「ホントだ。浮いている」と思わずそばで浮遊していた荒川先生や稲崎さんに声をかけ、子どもっぽくVサインなどして写真をとってもらいました。
最近は死海について2つの教訓が語られます。一つは昔から言われていることで、出口のない死海は、受けるだけで与えることのない湖だから死んだものだというのです。即ち、神の恵みを受ける一方で、それを他に及ぼすことのない信仰は、死海のように死んだ信仰となるという教訓です。もう一つは、自我に死に、キリストにあって生きるという教訓です。これはキリストにあって自我に死ぬなら、大きな祝福をもたらすことになるという教訓です。ガラテヤ人への手紙2章20節のみことばをすぐ思い出すに違いありません。
また「死海」は、数十年前から大きく脚光を浴びている所です。それは死海とその周辺には天然のミネラルとしてカリウム、ナトリウム、マグネシウム、カルシウム等の成分が含まれるものや、その他の微量金属ミネラルを含む資源が豊富にあるからです。そしてこれらの資源は数十年前から見直されて、人々に大きな益をもたらしているからなのです。
ロトの妻、塩の柱となって 2002年3月17日
何よりもこの聖地旅行の喜びは、聖書に出てくる地を一歩一歩確かめられることです。聖地旅行に行く前から、ザアカイのこと(ルカ19章)、ロトの妻のこと(ルカ17章、創世記19章)等メッセージを語るように導かれていましたので、色々な本を読んだり、資料を集めるなどの準備をしていました。ですからザアカイがのぼったイチジク桑の木、このソドムでロトの妻がふり返って塩の柱にされたという岩などは、是非見たいと思っていたのです。
早朝、死海のほとりで、わたしのようの者でも主の栄光をあらわすことができるように一人静まって祈りの時をもってから、朝食をとり、ソドムへと向かいました。私の眼の前にある岩の山が全部塩の塊だ、と説明されて驚きました。そこでは、ロトの妻が柱になったといわれる、それらしき岩を見ることが出来ます。私は、主の御使いが「自分のいのち救いなさい。ふりかえってはならない」と言ったのに、どうしてロトの奥さんはふり返ってしまったのだろう、と残念に思いました。しかし今も、現代版ロトの妻のような人々は大勢いるのではないかと思わされました。主のみことばを素直に聞けず、滅亡への道を歩んでいる人が少なくないのかもしれない、と。私は、反面教師として記憶しておこうと、このソドムの山に立つロトの妻といわれる塩の柱をバックに記念写真をとり、またそこにころがっている手ごろな塩の塊をいくつも拾い集め、このソドムを後にしました。
「マサダの要塞」が語りかけるもの 2002年4月21日
マサダは紀元一世紀の終わり、ローマ帝国に対して反乱を起こしたユダヤ人最後の砦です。日本人にはまだなじみのない所ですが、欧米では有名な場所です。マサダはユダヤ人が1900年もの間、ヨセフスの歴史書を通して、マサダの悲劇的かつ勇敢な物語に励まされ、力を得て、いつの日か祖国に帰る希望を持ち続けたのです。
このマサダを要塞に仕上げたのはヘロデ大王です。彼はクレオパトラがエリコを狙っていたので、その防御としてこの「マサダ゙の要塞」を作ったということです。
紀元後70年にエルサレムが破壊された後、エラザール・ベンヤイールに率いられたユダヤ人の愛国者の一隊、マサダの駐屯地を襲い、それを占領しました。後に、エルサレムで捕らえられるのを避けて逃げのびてきた愛国者が加わり、ローマ軍に反抗するためにマサダをその基地としたのです。三年間にわたりローマ軍はこの要塞を攻めあぐねていましたが、徐々に彼らはその城壁に達する巨大な土の傾斜をつくり、防衛軍が建てた内側の木造の壁に火を放ったのです。ローマ兵が突入したときには、そこで出会ったものは不気味な静寂でした。そこに5人の幼い子供たちを匿っていた2人の夫人が姿をあらわし、ユダヤ人たちの最後の模様を明らかにしたのです。
それによると、ユダヤ人側の指導者ベンヤイールは、いよいよ最後の時が来たことを悟り、全員を集め、敵の手に陥らず、自ら死を選ぶことを要求したのです。彼らはくじ引きをして十人を選び、この十人が残り全員を殺害し、自らも命を断ったのだそうです。この悲劇は紀元73年4月15日に起こり、960人の男女、子供たちがマサダの露と消えたのです。
今もユダヤ人たちは、このマサダにのぼり、祖国への忠誠を誓うのだそうです。アメリカ合衆国のキッシンジャーを始め、ユダヤ系の外交官が、ヘリコプターでマサダに連れて来られ、祖国愛に目覚めさせられることもあったそうです。