館林キリスト教会

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伊藤牧師コラム集 聖地を旅して(7)

 クムランの死海写本 2002年5月19日

 小林牧師が一回目のイスラエル旅行をした時にくださった写真に、死海写本発見のクムランの洞穴を指差している写真が一枚ある。私は森江重徳さんが、小林牧師の「ズボン吊り」をかっこいいと思ったように、ここでの先生の写真のポーズはかっこいいと密かに思っていました。そこでクムランに行ったら、同じポーズで写真におさめようと計画し実行しました。しかし、出来上がった写真はあまりかっこがよくなかったのでがっかりしました。
 ところで、このクムランでの死海写本の発見は、第二次世界大戦が終わって間もない頃、羊や山羊を飼っていたベドウィンの少年が、見つからなくなった山羊を探し求めて死海沿いの断崖を上っていた時でした。彼は崖ぶちの洞穴に山羊が隠れているのではないかと、小石を投げたのです。すると、何かが壊れる音がしたので、少年はこわごわその穴までよじ登って見ると、今世紀最大の発見といわれる「死海写本」の一部が見つかったというわけです。1947年の早春のことでした。
 クムランで死海写本が発見される前は、大英博物館にあるヘブル語写本がもっとも古い写本といわれていました。それはマソラ学者によるもので10世紀の初期に書かれたものです。それが死海写本の発見によってグーンと1000年も溯る写本が出たのですから驚きです。そしてその内容は、マソラ学者が記したものとほとんど変わらず、改めて聖書の記述がいかに正確に伝えられていったかを証明するものとなったのです。中にはマソラ学者の伝えているものは、付け加えがあるなどと言った学者もいました。しかしそれらの説はこの死海写本の発見によって見事に崩されていったのです。聖書が誤りない神のことばであることがこうして立証されているのです。クムランはそういうことを私たちに語りかける場所でもありました。

 エリコの町<1> 2002年6月23日

 マサダ、クムランを見学した私たちは、次に、あの有名なエリコの町へ向かいました。エリコには20分くらいでついてしまいます。
 ヨルダン川の下流の渓谷はほとんど荒野ばかりで、石と砂しかない地域です。木はほとんど生えていません。しかしオアシスの町エリコだけは、たくさんの木が茂っていて荒涼たるユダの荒野を通ってきた人には緑のまぶしさを感じます。
 この町は旧約には「しゅろの町」(申命記34:3、士師記1:16,3:13、歴代下28:15)と記されています。世界で一番低い所にある町で、また発掘によって紀元前7,8千年頃にすでに町があったということで、世界最古の町としても知られています。
 この町は、太古の時代から交通の要所として重要な役割を果たしてきました。北から南に抜けるには、どうしてもエリコを通過する必要がありました。またエリコは冬暖かい避寒地としてもよく知られていました。ヘロデ大王の冬の宮殿がこの町にあったという記録もあるそうです。
 私たちは、旧約時代のエリコの遺跡に立ちました。そこから南東の方角に新約のエリコがあり、その東側に現在のエリコ(現在のアリーハー)の町が広がっているということです。写真や本では360度を見渡せません。しかし実際、旧約聖書時代のものといわれるエリコの丘(テル)に立って、周りをぐるっと見渡した時、エリコについてのいろんな説明が理解できたように思えました。「百聞は一見にしかず」ということを肌で感じた一瞬でした。

 エリコの町<2>  2002年6月30日

 聖地旅行で、「エリコの町」に行かないコースは少ないと思います。
 旧約聖書に出ている、ヨシュア記のエリコの町の攻略の様子は、映画、歌、小説になったほど有名で、聖書を知らない人も知っている位です。他にも旧約聖書の中に記してある、エリコの預言者学校(現在の聖書学校のようなもの)、エリシャの泉、エリコ再建をしたヒエルが呪われたことなど、たくさんの出来事がこのエリコの町について書かれてあります。
 新約聖書には、ザアカイという人が、イエス様をいちじく桑の木にのぼってみていたという、その木がある町です。また、盲人バルテマイが目を開かれた町。そして、「よきサマリヤ人のたとえ話」などにも、その名が登場するエリコの町は、あまりにも有名です。
 こうした出来事のあったエリコの町の雰囲気を幾分かでも味わう事ができましたが、残念なことに、すぐそばのエリシャの泉にも行かず、いちじく桑の木も見ませんでした。スケジュールには、「エリコ」と書いてあったので、当然行くものだと考えていたのが甘かったようです。いろんな所を見落としてくると、また来なくては、という気持ちになりました。
 特にエリコのフルーツはおいしい。食事の時に出たオレンジなどは、なんとも言えないおいしさでした。帰る時、ちょっと恥ずかしいような気もしましたが、皿の上に残っていたオレンジをもう一個頂戴し、バスの中で味わった次第です。

 ガリラヤに向けて北  2002年7月28日

 エリコを午後2時に出発し、ガリラヤ方面に向かってバスは走っていきました。次の目的地は、ベテシャンという所です。 午後4時前に門がしまって入れないかもしれないということでした。ザアカイのいちじく桑の木を見られなかったのは残念でした。しかし、あのサウル王のからだを城壁にくぎづけにしたという、あのベテシャンを見られるといいなあという気持ちになってきました。ベテシャンは、サウル王の生涯を知りたいと思う人には、見学しておきたいところだと思います。私が持っているどの聖地旅行の予定表を見ても、このベテシャンを聖地旅行のコースに入れてあるものはありませんでした。今度はなんだか得した気分になりました。
 エリコを北上していくと、左側にはサマリヤの砂漠が続きますが、右側、はるか彼方のヨルダン川の周辺は、帯状に緑地帯(グリーンベルト)となっているのがよくわかります。そして、エリコからバスで、40分位走ると、ガリラヤ地方に近づいてきたこともあってか、道路の周辺も緑が多くなってきて、新鮮な心地よさを感じました。
 目的地のベテシャンは、「休息の家」という意味のある地名です。現在、半円形劇場などの遺跡もあり、昔は、なかなか栄えていた様子もうかがえます。
 サウル王の時代、彼がギルボヤ山で戦死を遂げ、その遺体をこどもたちと共にベテシャンの城壁にさらしものにされました。この時、これを聞いたヤベシギレアデの人々は奮い立って、昔、サウル王が自分達を救ってくれたことを忘れず、彼らのからだを引き取りに命がけで出かけたのです。この様子は誰が読んでも心を打つ聖書の記事だと思います(サムエル上31:8〜13節)。
 そして私は、このベテシャンの城壁を見つめながら、サウルに対する感謝を忘れなかったヤベシギレアデの人々に対して、熱い思いがわいてきました。