館林キリスト教会

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伊藤牧師コラム集 聖地を旅して(11)

 糞門を経て黄金のドームへ 2003年9月21日

 ご存知のようにエルサレムは城壁の町です。ヤッファ門、新門、ダマスコ門、ヘロデ門、獅子の門(羊の門、ステパノ門)、黄金門(美しの門)、シオン門、糞門の八つがある。そのうち黄金門はアラブ占領時代以来閉じられたままである。私たちは、嘆きの壁、黄金のドームに一番近い糞門から入った。糞門とはよいイメージがわいてこない。もう少しきれいな名称にすれば良いと思う人は多いかもしれない。しかしここは文字通り、人畜の排泄物を搬出したところから、そう呼ばれているのだそうだ。
 イスラエルのどこでも感じることだが、ここでも例のごとくやや厳しいチェックが行われた。日本では、なぜこんな所でと思うかもしれない。しかし最近のニュースで、自爆テロでたくさんの死傷者が出ているのを見ると当然なのだろう。
 神殿の丘は、まぎれもなくその昔ソロモンの神殿のあった所である。ここには、2つのイスラム教のドームがある。1つは岩のモスク(黄金のドーム)、もう1つはエルアクサのモスク(銀色のドーム)が、あり、イスラム教徒にとっては、メッカにつぐ聖地なのだ。黄金のドームの中にはいるには靴は脱がなければならない。またカメラなどの持ちこみは禁止でした。そこで、ガイドさんが外で私たちの荷物の番をしてくれることになった。中に入ると、真中に大きな岩がある。この岩がアブラハムがそのイサクを献げようとした岩だと伝えられ、その伝承に基づいてここにソロモンの神殿が建てられたのだ。

 イエス様の降誕の地ベツレヘムへ 2003年11月16日

 今日は1999年11月10日で、あと残された日は丸二日だ。予定だとエルサレムの旧市街を見学することになっていた。ところが、明日訪問する予定になっていたベツレヘムにいくことになった。なんでも、この日、当時のアメリカ大統領クリントン夫人のヒラリーさんがテレアビブ大学で講演をすることになっていたらしいからだという。エルサレムからテレアビブとその周辺は厳戒体制をしいているようだ。それで変更になったかどうかの詳細はわからなかったが、ともかく、ベツレヘムへ行く事になった。
 ベツレヘム周辺には羊飼いが天使たちの賛美歌を聞いた羊飼いの野もある。またルツ記の舞台であるボアブの畑も近くにあるのだろう。しかし降誕教会まで行く道は、そんな雰囲気を少しも感じさせない、ただほこりの立つ町並みの風景だった。ともかく周辺を見る時間的余裕がなかったので、早速会堂の中に入り、イエス様がお生まれになった家畜小屋の場所を見ることになった。
 午前8時半過ぎには、イエス様が誕生したと言われる降誕教会に着くことができた。しかし教会の礼拝が行われており、なんと40分から50分もそこで待つことになった。イエス様が生まれたのは、この教会の地下の洞穴といわれ、その一角に沢山のランプが飾ってあり、大理石の床面には星の形の飾りがしてあった。そこで私も順番を待ち、星印のある穴に手を入れて帰ってきた。

 ヒエロニムスの聖書翻訳 2004年1月18日

 降誕教会に隣接して、サンタ・カタリーナ教会がある。クリスマスには、ここから全世界に向けてクリスマスの様子が放映される。そしてこの教会の中にヒエロニムスが翻訳していた部屋がある。ヒエロニムスは、キリスト教会にしっかりした聖書の訳を残そうという志を持った。そこで彼はわざわざこのベツレヘムに住んでここで翻訳作業に取り組んだのである。その所産であるラテン語訳聖書(ウルガダ訳と呼ばれる)は、今日もなおカトリックの公認本文となっている。もちろん昔のこと、今日では聖書学的に言えば誤訳もあり、また不適切な訳語もあるという。しかし今から1600年前の紀元400年頃に、ただ一人で(学者のチームの働きではなく)聖書全体を翻訳したというのは驚くべきことだ。中庭には、ヒエロニムスの石像がある。そしてこの像の足下には頭蓋骨がおいてある。何でもこの頭蓋骨の人は、パウラという女性のもので、彼女はヒエロニムスの聖書翻訳と布教を陰で支え、祈ってくれた女性だという。だからヒエロニムスは、パウラの死後もこの頭蓋骨を離さなかったといわれる。私は、教会史を学んでいた時か、小林先生宅でコーヒーをご馳走になりながらの雑談の時だったか忘れたが、頭蓋骨と一緒に出てくるのは、ヒエロニムスだ、ということをよく覚えている。その後、何枚かのヒエロニムスを描いた絵をみたことがあるが、ホントにどれも頭蓋骨をそばにおいて勉強している絵だった。

 シロアムの池へ< 2004年1月18日

 ベツレヘムのお土産やさんで30分くらいを過ごしてからエルサレムに戻ってきた。シロアムの池に行くことになったからだ。予定は未定で、次にどこにいくのか分からない。私は旅程に書いてあった場所については、せっかく行くのだからと思ってアルバムなどを作っていろいろと調べていった。ベテスダの池は予定されたコースであったが、カットされてしまった。神殿の境内で、荒川先生に、ちょっとだけ見てきては駄目ですか?とくいさがってみたが、結局集団行動でしたのであきらめざるを得なかった。しかしシロアムの池は予定されたコースにはなかったが、立寄ることになった。「やったあ!」という思いだった。「池」といえば、ある程度の大きさを想像するかもしれない。しかしシロアムの池は、幅が約4メートル、長さが約12メートル、深さが20センチくらいだ。とても「池」と呼べるものではない。プールよりも小さい。しかしその故事来歴はたいしたものだ。紀元前700年ごろ、ユダの王ヒゼキヤ王は、アッシリヤの侵攻に備えて、城外のギホンの泉からトンネルを掘り、城内のシロアムまで水道を引いて水を確保したのです。トンネルの水道の長さが533メートルあります。堅い岩盤を両側から削っていったそうです。2700年前としてはこれは大変な工事であり、その測量の正確さに驚かされる。貫通した喜びと感激は、「シロアム碑文」として現在もイスタンブール博物館に残っているそうだ。今シロアムの池は城外にあるが、当時は城内にあり、人々はヒゼキヤの英知によって豊かな水の供給を得ることが出来たということだ。